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闇をくぐる

まんまるのブローチェン
パンに乗るけしの実、カボチャの種
レバーペーストを塗るとうまいのだと
店員と話す初老の女性
プレッツェルをかついで
店を出て行く若い男性

温かいパンにナイフを
入れる若い店員を包む
におい
小麦の焼ける甘い
それに混じってかすかに
土の香りが

店の奥の部屋に
積まれているのは土
日々うずたかく
盛り上がっていく
夜ごと少しずつ
半年もかけて

パン屋から145メートル
東に離れた裏庭
民家のそばで
闇夜に沈む
今にも崩れそうな
屋外トイレ

便器を外せば
穴があいている
体を縮め
自分を闇に押し込む
真っ暗な穴をくぐれば
きっと自由につながる

闇を進む
手足に土壁の感触
同胞の声を頼りに
冷たい壁をたどり
冷たい水につかって
恐怖とともに歩く

背後が騒がしい
叫び声
悲鳴
ガラスが割れる音
行く手を阻む闇
遠のくのは自由

銃声
悲鳴
闇が狂乱する
恐怖が驚喜する
転げるように進む
転げるように進む

縦穴にたどり着く
のぼる、這い出す
泥まみれの顔をぬぐう
飛び込んでくる懐かしい顔
小麦のにおいがする
恐怖が遠のいていく

涙が泥を流す
鼓動は加速したまま
喜怒哀楽が炸裂する
懐かしい顔が笑う
よぎるのは
二度と会えない顔

手を振る
壁の前で
泣き崩れた日に
壁の前で
崩れ落ちたあの人に
祖国に

     ―ベルリンの壁建設/1961年8月13日


 61年前のきょう、東西ベルリンの境界に「壁」が建設された。未明の闇の中、有刺鉄線が市民の暮らしを引き裂いた。東西冷戦下の分断統治は、そこに住む市民に数々の悲劇をもたらした。家族、親戚が引き裂かれた。西をめざし、壁を越えようとして命を落とした人もいた。

 トンネルを掘り、自由への脱出を試みた人たちがいた。大きな力に振り回され続けた市民のささやかな抵抗だが、見つかれば容赦なく銃撃にさらされた。

 1989年に壁は崩壊した。東西ドイツは統一し、分断統治は終わった。

 ただ世界に目を向ければ、今も分断された人々は各地にいる。差別や抑圧の下で暮らす人々。不当に拘束され、命を奪われる人々。封鎖された空間で生きる人々。爆撃される人々も。ウクライナ、南北朝鮮、ガザ、ミャンマー、アフガニスタン、イエメン(ほかにもたくさんあるだろう)。

 国家や世界情勢、国際政治などの話題で「地政学」という言葉を耳にする。個人が唱えるどのような理屈をも跳ね返す、とても大きな力をもっているらしい。ただそれでも、命という最低限守るべきものの前では掃き捨てるべきちりみたいに軽薄な言葉でしかない。言葉に向き合う立場からは、そのように信じて個に正対していくほかないように思う。

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