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[□](◯)〈◇〉 | #ナノ会議 | 原稿

この文章は、ナノメートルアーキテクチャという建築事務所で定期的に行われているトークイベント「ナノ会議」にゲストで呼ばれた時に制作したものです(後日解りにくい部分を補足したりしています)。僕がどのように世界を見て生きてきたかというちょっと真剣な話を建築関係者が多いお客さんに向けてはなしました。

ナノメートルアーキテクチャさんのnoteはこちら

1万字を超える大作になってしまいましたが、お時間ある時にお読みいただければ幸いです。よろしくお願いします。

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今日は、「自分は何がしたいのか?」について、展示技術者と言う仕事とアーティストという活動を横断する僕の「考え方」について話します。ものすごーーく抽象的な話になって頭が混乱するかもしれませんが、ナノメートルさんが楽しい建築の事例に結びつけてくれるのでご安心ください。

多摩美の彫刻科に入学した

大学の進学先を美術系に決めた時、僕は色々な物が創れる人になりたくて彫刻科を選びました。アーティストになりたいけどジャンルを特定仕切れなかったので、独学での技術修得が一番難しそうな科を選びました。この選択は今でも間違ってなかったと思っています。下の動画は石彫棟です。一番おもしろかった!

彫刻科では溶接から石材の取り扱い、型取りと成型の技術など、とにかく色々な素材に触れました。よくよく考えると彫刻科ってすごい経験ができるところだなと思います。

素材には限界/ルールがある

彫刻科で制作をしていると、ある世界のルールがあるのに気づきました。そんなの当たり前だろ!って思われることかもしれませんが、僕は未だにそのことについて考えてますし、博士課程に行って論文にしてみたりしたいと思う時もあります(時間が無い)。

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すっごく簡単なことですけど、素材には成れる形と成れない形があるんですよね。例えば、上のような形を石や粘土で作ろうとすると足が折れるわけです。でも鉄やプラスチックだったらできちゃったりとか。

実は、図面やスケッチや頭の中で考えた「形」を現実の「素材」に落とし込む時に物凄い多くの過程があり数えきれない現象が起こります。そこに凄く興味がわきました。そして、作家としてのテーマもこの概念を拡張しながら細々と活動しています(主に海外での滞在制作のみ)。

それでは、一つ僕の作品動画をお見せします。そして、以下がアーティストステイトメント(活動理念)の文章です。(noteでは作品はお見せしません。ぜひ会場にお越しください)

水は小さな隙間に入っていくことができるが、手で掴むことができない。
氷は手で掴むことができるが、小さな隙間に入っていくことができない。

このことから、可能性と不可能性は表裏一体だと考える。
私は、不可能性を再構築することで新しい可能性を見出したい。

スッキリしなくても、だんだん抽象的な「考え」がモヤモヤと見えだしたのではないでしょうか?

入れ物は中身を変える|メディア論

多摩美には色々な科があってそれぞれ専門がありました。作品に関しての批評文を書いたり、美術史を研究する芸術学科。建築にも関係がある環境デザイン学科などなど。僕は、この二つの科に凄く仲のよい友達がいて、色々と刺激をうけました。(上の動画は学校紹介動画です。色々な科がみれます)

環境デザインの友人から、今回の話の後半に出てくるレム・コールハースや、メディア論のマーシャル・マクルーハンを教えてもらいました。芸術学の友人からはフェルディナン・ド・ソシュールやレヴィ・ストロースを教えてもらい凄く影響を受けました。科によって読んでる本の系統が違ったのも面白かったです。

3人のアイデアはとても重要ですが、メディア論の話から始めましょう。メディア論がどういうアイデアなのかを理解するには、上のリンクの本が一番簡単だと思います。絶版になってるっぽいですね。ちくま学芸文庫さん再版お願いします!

メディア論とはカナダの文明批評家のマーシャル・マクルーハンが提唱した考えです。「メディアはメッセージである」と言うと?となるかもしれんが、この本は読みやすいと言うかほぼイラストなのでオススメです。

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メディア論は彫刻科時代に僕が考えていた素材論をさらに広く複雑にとらえ直した考え方でした。メディアとはメディウム(媒体)の複数形で、メディア論とは世界をすべてメディウムの連続として捉える考えです。もっと複雑なのですが、今回は簡単にそう説明しておきます(会場ではメディア論について少し詳しめに解説します)。

マクルーハンはラジオや新聞などの情報メディアから車などのテクノロジーまでもメディアと捉えて論を展開させていきます。

マクルーハンによれば、自動車に乗った瞬間に人間は足が早くなり、ラジオに出演すれば声が遠くまで届くようになると言います。メディア(ラジオ)は中身(人間)の特性を変えてしまうのです。僕が一番興味がある部分がここです。これをアイデアと素材の関係にすると、そのまま彫刻の素材の話になりますね。

伝えるための入れ物|記号論

僕は構造主義や記号論からも影響を受けながら独自の「入れ物」論?(入れ物という言葉は本当は使いたくない)みたいなのを展開していきました。記号論については上記の本がわかりやすいと思います。

端的に言うと、世の中の全ては記号であると言う考え方です。これは言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールから始まっていると言われています。

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私たちは「りんご」と言う言葉にバラ科リンゴ属の比較的世界中で食されている赤や薄緑色の果実という存在を入れ込んで言葉として伝えています。「りんご」を「シニフィアン(記号表現)」といい「対象の果実」を「記号内容(シニフィエ)」と言います。

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人間は頭の中で概念で考え、それを言葉(記号表現)におとし入れます。そして声や文字におとし入れて発信します。それを受け手側は声や文字を知覚する事で言葉として捉えます。言葉として捉えた後に言葉が意味する記号内容、つまり発信側が落とし込んだ概念を理解します。(お気づきかと思いますが、これには言葉が表す意味のある程度の共通認識が必要です)

さて、こうした言葉でのコミュニケーションを紐解いていくと、会話には齟齬が多く発生しそうな気がしませんか?マクルーハンのメディア論を用いて言えば、世の中に存在する概念を言葉に落とし込んだ時点で「中身」は変換されてしまうのでは?と言う疑問が浮かびませんか?

僕は日頃からそう思っていて、そこにこそ僕の興味の対象があります。そして、僕は何に自分の考えを落とし込んで世に出せばよいのか考えるようになりました。

入れ物の概念を拡張する|構造主義

友人が紹介してくれた名前にレヴィ・ストロースという人がいましたね。彼は構造主義という概念を語る上で非常に重要な人物です。橋爪大三郎先生の上記の本が非常にわかりやすくオススメです。今回は構造主義についてはさほど話しません。気になる人は入門書として上記の本を是非ともお読みください。

僕は、構造主義を学ぶ中でレヴィ・ストロースの柔軟さにこそ興味をいだきました。彼は人類学者でありならが言語学や数学などの概念を取り入れ構造人類学へと発展させていきます。このようなストーリーから僕もアートや業界といった概念より大きな枠組みから考えたことを形に残したいと思うようになりました。

例えば、僕はスポーツや家事から毎朝の通勤などの振る舞いや行為も「入れ物」として考えてみました。毎日ラケットをふることで、その人の片腕が太くフォームが精確になっていきます。行為という「入れ物」によって中身の形がかわってしまう良い例かと思います。

社会やコミュニティー、共同体やカテゴリーにグループ分けみたいな概念も入れ物」として考えてみます。1人の人がコミュニティごとに違うアイデンティティを持っている例が解りやすいので下の図を元に解説します。

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1人の男性がいたとして、彼の立場や振る舞いはどのコミュニティ(入れ物)にいる(入っている)かで変わってしまいませんか?社員であったりお父さんであったり日本人であったり。

少しアートに近づけ考えると、東京のアートシーンで高い評価を得てもロンドンではそれほど評価が得られない作品も存在すると思います。これは、作品良し悪しの話でなく、あたり前に起こる現象だと思います。なぜかと言うと入れ物が変わるわけですから。僕は価値や属性とはどこに落とし込むかで大きく変わると考えました。

そう考えることで、僕は良い作品を作っていくことより、なぜ変わってしまうのか?全てに共通するアイデンティティとは?枠組み自体をハックして全く新しい状況をつくれないか?などと考えるようになっていきました(こうなってしまうと作家としては大成しないような気がしてます)。

そうこう考えていると多摩美の彫刻科を卒業する時が近づいてきました。僕にとって彫刻や美術という範疇すら重要性が下がっていたことは言うまでもないと思います。既存の入れ物には常に中身を変換する力があって、ジャンルそのものも入れ物として働くからです。繰り返しになりますが、僕の視点はジャンルに着目するのでなくジャンルとはどう働いているのかに移行していきます。

加えて、自分が本当に面白いと思っている一番純粋な思考(初期の中身)の可能性を限りなくクリアに引き出そうとすれば、連続するメディアの一番内側に近づいて行かなくてはいけません。

いわゆる「作家」にならないだろうと思っていた僕は、新い生き方を模索すべく東京芸術大学の絵画研究科の大学院に進学しました。アーツ千代田 3331で有名な中村政人教授の研究室です。

アーティストとしての活動の場をどう選ぶか、それはとても重要でメディアの連続性の一部でもあります。マーケットやコミュニティのみでなくジャンルにも縛られない場所を探していた自分にとって中村先生の考え方や活動はとても刺激的でした。

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中村先生は僕のわかりにくい考えや単純にアートに収まりたくない気持ちもくんでくれながら色々な話や講評をしてくだりました。彫刻の素材論から飛び出して思考を始めた自分にとっては今でもここしか入る場所はなかったのでは?と思います。(画像は、進学の決め手だった黄色い本)

コンテンツ/コンテナまたはコンベア

大学院では同級生の影響も大きかったです。グレゴリー・ベイトソン(話したかったのですが時間的に省略します)や複雑系などにはまっていた同級生の話。「私は誰よりも悲観的なのでどんなウィークポイントもみのがしません」といって大きな会社の研究室に就職した経験のある同級生。特にこの2人からの影響は大きかったです。

そんな濃い同級生たちとグループショウをするという課題の時に自らひねり出したアイデアを少し紹介します。それがメディウムをコンテンツ・コンテナ・コンベアという属性で紐解く視点です。

(コンテンツ・コンテナ・コンベアに関しては僕と同時期に佐々木俊尚さんが『2011年新聞・テレビ消失』という本の中で使用しているそうですが、僕の考えとは大きく異なります。僕はメディウムをどの属性でみるかという観点でこの言葉を使っています。)

例えば、あなたが入れ物を作る時、それはコンテナ(まさしく入れ物)ですか?それとも、あなたが作り出した製品「コンテンツ」ですか?これは建築にも大いに繋がる視点だと思います。(当日はもう一つ「コンベア」という概念についても話します。)

さて、美術作品はコンテンツでしょうか?美術作品は作家の考えや気づきを入れる入れ物(コンテナ)にすぎないとは言えないでしょうか?作品の展示されている展示室は美術館にとってはコンテンツですよね?その場合、美術館はコンテナ(入れ物)になるわけですが、地域というスケールでみると美術館がコンテンツで地域がコンテナ(入れ物)にならないでしょうか?

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世の中に存在する「何か」はコンテンツとして世に存在しているのか、コンテナとして世に存在しているのか確定しないようなものだと考えています。属性は視点や扱いによってすぐに変わってしまいます。

みなさん(主に建築関係の方にむけて)が何かコンテンツとして作り出したとしても、一瞬でコンテナとして姿を変えるかもしれませんし、コンテナとして作っていた物がコンテンツになるのも一瞬です。

さらには、コンテナ/コンテンツと言う属性分けだけでは到底足りません。美術館のコンテンツのコンテンツのコンテンツのコンテンツは何になるのか?では自分の作品に入っているアイデアや動機(モチーフ)さらにその中には何が入っているのか。メディアは外側にも内側に連続して続いていきます。

このあたりが、僕がアーティストと展示技術者を同時にしている理由に繋がってきます。もちろん、既存の「アーティスト」と言う「入れ物」にとらわれて無いと言うことでもあります。

自分は生き方として「どうメディアをつなげていくか」に注目しているのです。僕にとっては展示を作ることと作品を作ることに垣根は存在しないのです。(トークでは時間があれば鑑賞体験による価値が発生する仕組みの話もしたいです)

外側は中身をコントロールする|環境管理型権力/アーキテクチャ

ここまでの話で、何となくでも「入れ物/コンテナ/コンテンツ」という世界の捉え方を理解できたでしょうか?また「入れ物」には何か不思議な力があることを感じてもらえれば嬉しいです。ここは結構大事にしている所なのでもう少し掘り下げていきましょう。

アーキテクチャとは建築のみを意味しないのはご存知でしょうか?Information architecture (IA)と言う言葉もあります。そういった流れからアーキテクチャを環境管理型権力と訳されたこともあります。今では環境管理型権力と言う言葉自体が個性を得て独立している感じがしますが……以下参考文献

環境管理型権力/アーキテクチャの対義語に規律訓練型権力と言うのがあります。いわゆる躾などがそうですね。環境管理型権力の例としては上のリンクにもあるように車に速度を落とさせるために舗装に凹凸を加えたり、インターネットのフィルタリング機能であったりします。

なかなか説明が難しくなってきましたが、環境の設計(デザイン)によって人間を管理する権力を環境管理型権力と言います。これは「入れ物」側がもつ特性を上手く利用した設計によって社会や人間をコントロールするとも言いかえれます。ここまで聞いてマクルーハンの考え方を思いだした方は僕の思考に近づいてきています。

環境が動物に与える意味|アフォーダンス

なぜ環境を整備することで人間を管理することができるのでしょうか?デザインやアートに関わる人なら必修と言われるアフォーダンスという概念が理解を助けてくれると思います。学生の方はぜひ書物などで復習してください。

厳しい言い方ですが、僕はこれが解ってない人に広義の意味でのデザイナーにはなって欲しくないです。建築も含みますが特にプロダクトデザインに関して。例えば、押してしか開けられない扉に引っ張れるハンドルがついてたりするとイライラしませんか?何かを設計する人は最低限抑えておくべき概念だと思います。超重要必須概念です。

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アフォーダンスはアメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンによる造語で「afford/提供する」からきています。カエルと草の例を出しましょう。少し横に広がったイネ科系の草があります(上図参照)。カエルが草の上を飛ぶか下を飛ぶかは何によって決まると思いますか?

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草の高さとカエルのジャンプ力を考慮すれば、草が高すぎるとカエルは草の上を飛び越えれないことが分かりますよね?逆に低すぎると草の下を飛ぶことは難しくなります。動物の行動は環境に提供されていると言えないでしょうか?

ギブソンはアフォーダンスとは環境が動物に与える「意味」だと言います。環境管理型権力とは違い随分優しい感じがしますが、5年くらい前?から流行りのアフォーダンスデザインとは環境管理型権力の一種といってもよいと思います。環境管理型権力はもう少し技術的な規制なども含むのでアフォードすらされない設計も含むと理解しています。

こういった概念と量子物理学などを組み合わせて人間や動物に自由意志は存在するのか?と言う議論がよくされます。が、これはまた別の話なので今回はしません。気になる人は調べてみてください。(量子物理学はハマる人はハマります!)最後に、アフォーダンスの入門書のリンクも貼っておきます。

可能性と不可能性は裏返る

さて、だいぶ色々なアイデアを聞いたところで僕が考えるオリジナル色が強い部分に話を進めて行きます。「入れ物」がもつある種のルールや規制、権力のような存在から自由になる方法はないのか?と考えた方はいらっしゃいませんか?僕は最初は自由になれないものかと考えました。

ルールや規制や権力というと、相手が望まないことでも強制してしまう力のような感じがして、とてもネガティブです。しかし、見方を変えれば成りたい存在になることをサポートする効果とも言えないでしょうか?

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シンプルに具体的な事例で考えてみましょう。水でドーナッツのような形を作りたいと思った子供がいたとします。流動性の高い水という素材でドーナッツのような形を作るのはまず不可能でしょう。しかし、浮き輪の中に水を入れてあげれば水をドーナッツのような形に維持することができます。

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浮き輪に水を入れることは「自由な形に成れる水をドーナッツのような形に強制してしまう」ネガティブな不可能性でしょうか?それとも、「流動性の高い水をドーナッツのような形に維持することができる」というポジティブな可能性でしょうか?

不可能性と可能性は捉え方や求めている結論によって決定されるのだと考えます。そうすると変に不可能性を打ち破ることに力を注ぐより、可能性を組み合わせて成果をだした方が賢い気がしませんか?こうして、僕のアーティストステイトメント(活動理念)はできあがってきました。もう一度書いておきます。

水は小さな隙間に入っていくことができるが、手で掴むことができない。
氷は手で掴むことができるが、小さな隙間に入っていくことができない。

このことから、可能性と不可能性は表裏一体だと考える。
私は、不可能性を再構築することで新しい可能性を見出したい。

「入れ物」の持ってる不思議な力について常日頃から考えていた僕は、不可能性の持っている可能性の方に惹かれて行きました。現実にはネガティブな規制やルールや権力を利用して新しい可能性をどう導き出して行くか。これは「僕が本当に面白いと思うこと」を既存の常識に囚われないで自分の中に確実にしていく第一歩でした。

「する」「しない」も裏返る|レム・コールハースの事例?

これは遠い学生時代の記憶と自分の思考が絡む不安定な部分ですが、ここでは考え方として紹介します。

レム・コールハースという建築家の名前を出したのを覚えてますか?下のリンクの本が大変有名なので建築学生は読んでみることをオススメしおます。

多摩美の環境デザインの友人が教えてくれたストーリーなのですが、コールハースはニューヨークの真ん中にでっかい空き地を作ったことがあるそうです(この話は伝聞のみで証拠や記録や文献などが見つかってないので話半分に聞いてください)。

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この話が本当だとするとコールハースは高層ビルが立ち並ぶマンハッタンに何もない空き地を建築家として「作った/建物を作らなかった」ことになります(この場合、ビルの解体はコールハースの行動の範疇ではないと考える)。空き地はお弁当を食べる場所や友達と待ち合わせる場所としてニューヨークでとても重要な価値のある場所になったそうです(詳しい情報知ってる方がいたら教えてください)。

不可能性と可能性の話をして、なんとなく読めたなと思った人もいるでしょう。作ると作らないことの違いはなんでしょうか?彫刻にはモデリング(量をつける)とカービング(量を減らす)と言う言葉があります。僕は、加えて「しないことの重要性」をここで説きたいと思います。

「しないこと」、または「作らないこと」を決定する時にも創造的思考は発生しているのではないでしょうか?誤解を恐れず一つだけ例えをだすならば、絵が得意な作家が絵を描くために彫刻やパフォーマンスなどの他の表現に挑戦することを「しないこと」は良くあると思います。

人生は有限ですし自分の才能を伸ばしたいと考える人は多いと思います。ほかの表現に挑戦しないことは「絵を描くこと」に対する想像的な行為と考えられます。(誤解がないよう補足すると、絵画を描く人が彫刻に挑戦したり、プログラマーが陶芸に挑戦したりと違う体験をするのは刺激があってよいと思います)

創造的思考からきた非創造的行為は世の中にたくさんあります。僕は、そういったことに意識的になることを少し大事に考えたいと思いました。そのことを思ったのは大学院を卒業した後でしたが、きっかけは多摩美時代の友人の話でした。

メディウムの連続性をたどって

どうでしょうか?僕の世界を見る視点に少しでも触れることができたでしょうか?最後にもう一度だけ、僕の書いたステイトメントを載せておきます。

水は小さな隙間に入っていくことができるが、手で掴むことができない。
氷は手で掴むことができるが、小さな隙間に入っていくことができない。

このことから、可能性と不可能性は表裏一体だと考える。
私は、不可能性を再構築することで新しい可能性を見出したい。

(実はこのステイトメントはアーティスト活動をする上で8年くらい前に書いたもので、今までの話とは少し溝があります。ナノ会議のあとで記事を読んでくださった方から質問を受けたため、この章は後日追記しています。とても鋭い視点を持ったかたでステイトメントが古いことも当てられてしまいました)

このステイトメントはアートという枠組みの中で自分の考えを言及したもので少しピントが絞られた状態であると言えます。今まで僕の思考を追いかけるように文章を読んで下さった人のなかで、僕の考えがもう少し広い視野とあやふやなピントによって描写されていることに気づいたかもしれません。

「入れ物」のもつ不思議な力、形や能力や無意識の行動までをも変えてしまう力を不可能生と可能性を横断しながら組み替えていくことは確かに実践しています。しかし、それは「入れ物」を中心に見た時の話です。実際は、どのようにメディアの連続性を色んな方向に辿っていくかにも興味があります。

そんな中で、僕が最近興味のある階層は「作品」という階層より少し外側にある感じなのです。視点としては連続性を捉えていますが階層ごとにピントを合わせてみたりもします。かなり抽象的ですが、ステイトメントと記事全体のコアな部分の繋がりが補足できたでしょうか?(もっと良い文章が書ければ加筆修正するかもしれません)

つまり何をしているか|アート作品の外側を作る

そろそろ大詰めですが。すでに「入れ物」と言う言葉でこの概念が語り得ないことが解ってきたのではないでしょうか?逆に便宜的に「入れ物」という言葉を使ってしまい、それに囚われることで理解が追いつきにくくなってしまった場合は申し訳ございません。

「本当に興味のあること」や「本当にやりたいこと」を突き詰めた時、人は固有名詞やジャンルや業界を忘れる必要があると僕は思います。「社会に認められたい」「お金持ちになりたい」「アーティストになりたい」などの現実世界ありきの目標を掲げた場合は別ですが、僕の場合は違います。

では自分はいったい何がしたいのでしょうか?ナノメートルさんからリクエストがあったので、上手くいくか解りません言語化に挑戦してみようと思います。

2019年10月現在、僕は自分の考えを自由に展開させるために日本での作品発表をしていません。作品の販売もしてません。つまり、「しないこと」をしています。僕はそれらの行為や状況による自分の思考への影響を心配してます。時々、海外のレジデンスにいってゆっくりと考えをめぐらせ何か残すくらいです。今後どう活動していくかは未定ですが、いわゆる「アーティスト」にはならないと思います。

いわゆる「アーティスト」よりもアート作品をコンテンツのコンテンツ(中身の中身)と考え、それらを変革するような「入れ物(同時に中身または作品でもある)」の制作や変革にも興味があります。別の言い方だと、作品の一階層または数階層外側を構築することをここ数年は考えています。

技法や技術、または市場や業界、もしくは仕組みや制度。そういった外側が変わる事によってアートに変革をもたらすことは可能だと考えています。展示技術も外側の一つであり、大いに可能性のある視点だと思うからこそ続けています。

後日、記事にしますが、今、一番作りたいものはインストラクションミュージアムという美術館です。これは僕にとって大きな挑戦になるので未完に終わるかもしれません。とても大きなプロジェクトです。正直あまり自信はありませんが、やってみようと思います。

または、メタや被メタといった視点からも逸脱した活動方法も模索したいです。より抽象化した思考や言葉が必要になってきます。具体的なことは何も言えませんが、思考の展開としてはそういった方向に行くのかなと思っています。

このように、具体的にやりたいことは出てきますが思考は柔らかく変化し続けながら自分を育てていくようなことが僕はやりたいです。そして自分だから発見できる世界のちょっとした「気づき」を創作によって翻訳し世に何らかの形で残せたらなと考えています。

わかりやすい言葉にはなりませんでしたが、僕がしたいこと、どうして今の活動をしているのか、感覚的にでも思考の一部に触れてもらえたなら今日のトークは成功です。

あなたのやりたいことは何ですか?

あなたのやりたいことは何ですか?職業名や業界、既存の言葉を忘れて「抽象化された興味の対象」をあなたは捉えられますか?おそらく、それを捉えるのに5~10年かかると思います。僕もここでは語りきれないほど、もっと複雑に今も考え続けています。

僕はそれについて考え続けたいし、それをやめられない。そんな僕が他人に何か一つ話すとすれば、それについて考えて生きていくことはは本当に楽しいという事実をお伝えするだけです。

最後までお聞きくださり(お読みくださり)ありがとうございました。

サポートされると、自分も他の人をサポートしてみようかな?という気になります。また、自分の文章の価値を感じれてとても嬉しい気持ちになります。