喜劇の方程式~「マイナビ×note」投稿コンテスト作品
プロローグ
315位。
高校時代の中間・期末試験で最も良かった順位だ。
ちなみに学年の人数は365人。
笑える。
前途多難って日本語はこういう時に使うんだ。
「将来の夢は建築家になることです。」
悲劇の始まり
高校入学当初、私は自信に満ち溢れていた。
なんたって、中学は県内のバレーボールの名門校だった上に、レギュラーを張っていた。
「今年は○○中学の子が入学してくるらしいよ」
「やっぱり上手いね」
もちろん、高校に入学してすぐ3年生に混じりベンチ入りした。
謙遜しつつも当たり前という顔で、出だしは好調だと、高校生活の青春を確信した。
とある部活終わり。
赤点がある人は補習だと、部活の顧問が皆を集めて言った。
私は世界史と数学、赤点を2つ取っていた。
ちらちらと目で挙手を促されたので、口をすぼめて仕方なく従った。
「私だけかい」
この時、私はまだ高校1年生。
さっさと終わらせよ~くらいにしか思っていなかったが、その後も赤点は減るどころか増える一方。
青春への確信は尚早だったことに気付く。
2年生になるとき、既に私は建築の道へ進みたかったので文理のクラス分けで理系クラスに入った。
理系クラスは4つ。
建築分野は大体の大学は数3Cまでが必修科目だったので、理系の中でも1番頭の良い人達の集まるクラスになった。
「miyさぁん、大丈夫ですか〜?」
このセリフは私の高校時代を現す代名詞だ。
きっと当時の同級生なら、私を特定するのは容易い。
のっぽで40代、ダサい八の字眉毛の角刈り。
なんだか哀愁漂う顔をしている。
数学兼担任だったこいつは、私のことが好きなのだ。
何かにつけニヤニヤと聞いてくるもんだから、クラスの不良から陰キャ男子にまで真似されたものだ。
だが私は、大丈夫とは言わない。
この担任のことが嫌い…という訳ではなかったけれど、それより本当に大丈夫でないことの方が多かったからだ。
「これは大丈夫…じゃない顔してますね〜。」
何故そんなに良いタイミングで聞くのだ。
と不思議に思っていたが、私は顔に出やすいタイプらしかった。
しかも私がこの理系トップのクラスで堂々の最下位だったから、担任がクラスの理解度を図るのに利用されていたらしい。
少し憤慨したが、おそらく眠くてコクリコくりしていたのも、授業に付いていけずノートや教科書に落書きをしていたのも、きっと気づいていた。
んーまぁそれらを見逃してくれていたのなら、多めに見てやろう。
受験失敗
受験時期になっても相変わらず、成績が上がらない上に集中力の無かった私は、なかなか小論文というものが書けなかった。
ついには受験前に書ききれずじまいで、ずっと心配して見ていた哀愁顔も、
「ほんとうにっ、大学に行く気があるのか!」
と、夕方ですでに青い口元をプルプルさせていた。
私もちょっとだけ反省した。
高校は進学校だったし地方の田舎だったので、地元の国公立を目指す人がとても多かった。
だが、私は模試も共通一次もダメだったので、国公立の中でも1番偏差値が低い建築系の大学を受験した。
一発逆転…ともいかず、やはり悲しい結果に終わった。
浪人生活を想像しボケーッとていた私を見かね、ついには母親が
「私立ならまだ試験が受けられるから。どこでもいいから今年大学に行きなさい。」
と、試験日程がずらりと書かれた紙を渡してきた。
現役で就職できないリスクを考え、浪人だけはさせたくなかったらしい。
ありがたかったと今でも思う。
浪人なんてさせたらきっと、一生書き終わらない小論文を書いていた。
そうして私は、初めて名前を聞くような大学の、それでも建築科に入学させてもらった。
しかし、変にプライドの高かった私はことあるごとに
「こんな大学入りたくなかった。」
と言っていた。
うちは田舎で裕福ではなかったし、姉妹でバレーをやっていたので部費やら遠征費やらやたらお金がかかっていた。
母も働いていたし、祖父も晩年は寝たきりで介護が必要だった。
そんな庶民家庭が、東京の名もない高額な私立大学に4年も通わせるために工面してくれるなんて、なんてありがたいことだろう。
社会人になると、お金を稼ぐ大変さがわかる。
ほとんどの人間が経験するであろう事実を、世の中はなんでもっと早く教えてくれないのか。
というか、その暴言は1年がすぎる頃にはすっかり忘れて、私は大学生活を謳歌していた。
母が日記でその悲しみを綴っていたので、ハッと思い出し後悔した。
母が亡くなったあとの話だ。
就職するも失敗
なんとか4年次の夏に就職が決まり、今度は私は一部上場の中堅ゼネコンに入社した。
地元で就職出来なかったことはショックだったが、今度は大きい会社に入ったぞと、また見栄を張ろうとしている。
構造設計の道に進みたかったが、施工管理職として入社した。
私は施工管理という仕事が何なのか知らなかった。
入社当時は、会社も時代の波に乗り「女性現場監督」を初めて採用したところだったため、皆に珍しがられたし、すごいと持ち上げられた。
施工管理とは建築の現場監督のことだった。
しかし、大学の授業も真面目に受けていたわけでもなければ、バイトも適当に愛想笑いで接客していた私。
建築が、仕事が、わからない。
図面をどう見ればいいのかわからない。
次にどう動けばいいのかわからない。
毎日何をしたらいいのかわからない。
私のすごいところは、それでも笑顔と返事ができるところだ。
なのに、やたら褒められ甘やかされ、気付いたらというか当たり前にというべきか、誰より仕事のできない自分が出来上がっていた。
「あ、あ~あれね~…大変だよね~?」
上辺だけは話を合わせるふりをしておいて、私の無能がいつばれるかと内心ドキドキしていた。
というか、ほんとはもうばれているんじゃないか。
現場のウワサは早いもんなぁ…
恐怖と羞恥心で、仕事は休みがちだった。
転換期
現場が竣工し、違う現場に配属になった。
環境ががらりと変わり、仕事に行けるようになってきたあたりで「一級建築施工管理技士」の試験があった。
建築施工に特化した国家試験で、会社では資格を取らないと現場技術者として認められなかった。
試験勉強だけは半年前からコツコツやっていた、というか気を紛らわすのにちょうど良かった。
結果、合格した。
「さすがだねぇ!優秀だ!」
なにがさすがなのかはわからなかったが、周囲の目は暖かかった。
年次を重ねることで仕事は少しずつできるようになってはいたが、わからないことがあれば落ち込み、周囲と比較しては焦り、きっと周りには噂されているのだと、常に目線は地面だった。
だから久しぶりにきちんと人の顔を見られた。
トンネルを抜けた関東の冬は、眩しく雲一つない晴天だった。
きっと脳内では、数年ぶりに幸せホルモンが大量分泌されている。
「もっと…もっと…」
麻薬常習犯のようだった。
自分でもできるのだという自信と、もっとこの気分を味わいたいという衝動が私を次の行動に移させた。
私は、かの難関資格「一級建築士」を受験することにした。
勢いに任せて、資格学校に冬のボーナスとなけなしの貯金を全部つっこんだので、明日から試験勉強と極貧生活の始まりだ。
転換出来ていなかった
雲の上。
一級建築士のイメージだ。
合格率10パーセント代の難関資格だし、建築業界には資格を持たずに仕事をしている人なんてごまんといる。
数年単位の時間、数百万単位のお金、仕事と並走する体力、気力がかかる。
合格するまで、もしくは諦めるまで走り続けなければならない。
借金スタートで、装備も無しに魔王の城の前に降ろされた村人Aだ。
そんな状況でも、無能で取り柄の無い私には、あれこれ悩んでいる暇なんてなかった。
学校初日。
相変わらず関東の冬は晴天続きだったが、この日は風も冷たく、加えて私は冷え性なので、安い毛糸の手袋とマフラーで出発した。
お供は、水筒に入ったホットコーヒーと、学生時代に使っていたA4のクリアケースだ。
緊張感漂う、城の門を開ける。
すると中には、スーツの案内人と、ライバルの村人Aがたくさんいて少しワクワクした。
でも、みんな私より強そうだ。
試験はまだまだ先と言いえるのか、すぐそこといえるのかはわからないが、7月だ。
期待とプレッシャーを併せ持ち、緊張しながら学校にやってきたものの、今日はオリエンテーションのみ。
ここに集まる約40名が同じ教室で試験までを共にする。
オリエンテーションはこれから試験までのスケジュールの説明に始まり、目標設定、一日の学習スケジュール立て。
授業は毎週日曜日の朝10時から夕方まで、めいっぱいある。
一級建築士に合格するには、少なくとも1000時間の勉強時間が必要らしい。
私は現場監督の仕事をしていたので、基本仕事は月~土曜日、帰りは早くても8時。
「何かがおかしい…」
腕まくりをしながら険しい顔でスケジュールを考えたが、なにやら号令がかかったため皆机の上をきれいにしだした。
隣の人に聞いたら、試験をするようだ。
「え…ちょま…」
自分の現在地を知る機会が思っていたよりも早く到来した。
数ページで構成された薄い冊子をめくると、4択問題がずらりと書かれていた。
う~ん…これが一級建築士になるのにクリアしなければならない試練か。
と思うのも束の間、終わりの号令がかかった。
私のテストの正答率は、3割。
…嘘だ、ちゃんと数えると2.5割くらいだ。
わかる問題の方が少なかったから、少し点が取れていただけでも奇跡だった。
試験はまだ半年後だから大丈夫……。
と言い聞かせるが、周囲にばれないようコソコソとしている自分がいた。
隣の人の点数が見えた。
確実に6割は丸がある。
気のせいだ気のせいだと自分に言い聞かせ、この日は胃と頭をぐるぐるとさせながら帰路についた。
その翌週から始まった授業で行われた小テストで、私は最下位であったことは言うまでもない。
そしてこういう時に何というか、今の私なら知っている。
「前途多難だな。」
前途多難
その年は関東の積雪量が記録並みの冬だった。
住宅街の現場で仕事をしていたため、近隣さんの玄関前までせっせと雪かきをした。
手袋とマフラーがいらなくなる頃、現場から見える線路横の公園は桜が満開で、とてもきれいだった。
私はというと、仕事と授業のはざまで、愛用ドリンクはリポDになっていた。
体形を気にする年だったので、ピンクのカロリーオフの方だ。
あ、あと缶コーヒーも。
エナジードリンクは高いので、たまにしか買えなかった。
仕事が忙しいのは相変わらずだったが、今までと違うのは昼休みに勉強、夜は仕事が終わってからマックで勉強、日曜は学校。
私の1日が終わるのは午前2時になった。
朝起きれないのはいつも通りだし、日中は現場を駆け回り、業者が帰った後に戸締りをして、夕方になればキーボードの上に指を置いたままウトウト。
よく胃腸が荒れて薬を飲んでいたが、ただの寝不足が原因だ。
私の体はまだ20代だったのでなんでもできた。
目標がある人間はこうも生き生きできるのか。
さらに不思議なことに、人間っていうのはあれもこれも忙しい時の方が何かと上手くいく。
学生時代、部活で活躍している上にも成績も優秀なスーパーマンはどこにでもいたものだ。
それぞれの成果が互いに良い影響を及ぼし、自己抗力感として自分の心とやる気を支えてくれる。
同時に、最初の決意が私を突き動かしていた。
悩む前に行動に移せたことで、モチベーションを保ったまま時間をぐんぐん押し進めてくれる。
ただ、問題があるとすれば、一向に成績が上がらないことだ。
一級建築士試験は125点中90点以上、5科目それぞれの足切りは5割以上が合格目安なので、みんなそこを目標に模擬試験を受ける。
私は6月の時点で65点しか取れていなかった。
オリエンテーションを受けたクラスの人数が1割ほど減ったような気はするが、私が得意な1科目以外はほぼ毎回最下位。
高校でも似たような境遇だった気はするが、思い出さないことにした。
試験まであと1ヶ月。
私は眠眠打破に手を出した。
まだ前途多難
日差しの強さが増して、現場の自販機はより一層ポカリが売れる。
職人のおじちゃんは、10時と15時の休憩に、私に缶コーヒーを買ってくれる。
試験まで1ヶ月を切った。
前回の模試で散々だった私は、最後の模試で結果を出せるよう今まで以上に寝る時間を削っていた。
体力と眠気は、タウリンとカフェインと気力でカバーできた。
しかし学力というものは、単に時間を費やせばどうにかなるというものでは無かったらしい。
結局最後の模試では、これでもかと言うくらい見たことのない問題が出され、私はてんてこまい。
模擬試験中にあきらめることは最低限しなかったが、それでも結果は散々だった。
総合点は……72点。
苦手な科目があった。
5科目で構成されている建築士試験だが、その科目だけは一向に点数が伸びず、模試でも足切り点を超えたことが無かった。
人それぞれ得手不得手があるのはもちろんだが、私にとってそれは、不得手どころの騒ぎではなかった。
「お前は建築士になるべきではない」
そう言われている気がした。
7月も近づき、私の焦りはピークに達する。
これでは、1つの科目に足を取られて合格どころじゃなくなる。
他の科目がいくらできても、1つの科目の点数が達していなければ、全てが無意味だ。
重たい心と軽い頭を抱えしばらく唸ったのち、カッと瞳孔が開いた。
「これのことだけ考えよう」
割り切ったというか投げやりになったと言うべきか。
私は試験前1週間、他の科目にはほとんど手を付けず、その1科目のインプットに時間を注いだ。
このやり方が合っているのかわからない。
もしかしたら恐ろしく馬鹿なことをやっている?
とんでもない結果に終わったらどうしよう。
人間、追いつめられると真理に達するか破滅に向かうかどちらかだ。
終息に向かう
試験当日。
私は学校で友達ができなかったので、一人で試験会場にいた。
試験前には青いリポDを必ず飲む。
カロリーオフじゃない方だ。
大学受験の時、母がそうしてくれたから、なんとなく今でも試験前のジンクスになっている。
9時半頃から試験を開始し、まずは2科目の試験が2時間ほど。
昼休憩をはさみ1科目。
また休憩をはさみ、2科目と、たった1日の数時間で、半年以上死に物狂いで記憶してきた全てを吐き出す。
1日があっという間だった。
試験をやっている最中のことはあまり覚えていないが、終わった瞬間は試験のことや勉強生活などいろいろ思い返し少し泣いていた。
脱力と安堵で電車で眠ってしまい、知らない地で折り返したのを覚えている。
試験後は、学校に報告もとい自己採点会に行くのが通例らしい。
私は全く自信が無かったので帰ろうとしたが、せめて学校にお礼と報告と…現実を受け入れようと思い赴いた。
「お疲れ様でした~!」
学校では、事務のお姉さんが甘いお菓子と飲み物を用意して、笑顔で出迎えてくれた。
さっきまで試験を受けていた同志がわんさかおり、今までにないくらい賑やかで、心なしか照明も明るかった。
私は電車で寝過ごしたので一番最後の到着だった。
「お疲れ様~。遅かったね、大丈夫?」
私の担当の、営業のお兄さんだ。
エアコンの聞いた室内のはずなのに、ほかほかと汗をかきながら駆け寄ってきた。
私が遅かったので、試験の出来栄えが悪かったのかと心配している。
「大丈夫だけど、試験は全然です」
私の顔を見てお兄さんはうんうんと頷いて、ゆっくりでいいからと、自己採点をするよう案内された。
マークシートに回答を書き写し機械に採点してもらう方式だ。
シャー芯が無くなりかけていたので新しいのを入れ、さっき解いてきたばかりの問題用紙をゆっくり鞄から取り出すと、なぜか懐かしい気持ちになった。
作業が終わったので、人が詰め込まれざわざわしている教室に入った。
採点結果が発表され始めた。
先程とは打って変わって、空気が張り詰めている。
「サトウ タロウさん、A教室」
「スズキ ミカコさん、B教室」
2つの教室に振り分けられているようで、どちらかが合格予想点に達しているクラスだと気付いたが、肝心なそれはまだ言われない。
「以上になります。B教室と言われた方は隣のクラスに移ってください。」
私はぽかんとした。
きょろきょろ辺りを見回し、先ほどのお兄さんと目が合ったので声をかけた。
「名前呼ばれてないんだが…」
「え!?ちょっと確認してくるから待ってて!」
このお兄さんは、表情豊かで見ていて元気になる。
私の担当で、受験生時代を通して相談に乗ってくれたり、卒業までお世話をしてくれていた。
私が学校に入る数年前から営業で来ていて、断るのは面倒だったが、明るく親しみやすく話も面白いこの人のことは好きだった。
最初はやる気が無くカラ返事ばかりしていたが、いきなり私が学校に入ると連絡した時には逆に驚かれた。
「ミヤモトさん!!合格点だって!!おめでとう!!」
「ゑっっ!?!!!」
私は目を見開き、間違いじゃないかと何度も聞き返した。
ようやく理解すると、鼻をすすりながらお兄さんの豊満なお腹をグーパンした。
私の毎週通っていたクラスの合格者は、私一人だったらしい。
この時の気持ちと、お兄さんの笑顔は今でも忘れられない。
最終回
「スキルは十分身につきました。ミスが無ければ必ず受かりますよ」
なんだかブッダのお告げみたいだと思った。
といっても天から降ってきたのではなく、2次試験の前に先生に渡された手紙に書いてあった言葉だ。
先生は若くて笑顔が素敵で腹黒い、それでいてとても優秀な人だった。
長かった。
1次試験に受かってから2度、2次試験に落ちた。
2次試験の勉強は、1次試験に比べ集中力も体力も必要で、結果が伴わなかったりガチャ要素もあったりで、かなり辛かった。
1次試験から数えれば3年間、私の頭の中はずっと試験に侵食されていた。
今日でやっと終わるのか、それともまだこれからも続くのかと、希望と不安を持ちながら最後の試験を受けた。
試験は順調だった。
そしてお告げの通り、その年私は合格した。
高校生から数えて約20年に渡る私の悲劇は、いったんここで終わりを迎える。
エピローグ
『一級建築士、一級建築施工管理技士、宅地建物取引士』
今の私の肩書だ。
まだまだペーペーだし、相変わらず誰かの部下だが、名刺にはそう書いてある。
「 喜劇 とは、悲劇 に 時間 を加えたものだ」
かの有名なコメディアン、チャップリンの言葉だ。
失敗、挫折、後悔、別れ、死……人生にはいくつもの「悲劇」の瞬間がある。
それらを「喜劇」に変えるのは、努力であったり忘却であったり享受であったり、つまりは「時間」だ。
私の人生を喜劇たらしめたのは、つまずきや失敗を何度も繰り返し耐えた、20年の月日だ。
さらに、肩書きを手に入れ今は成功したように見えても、人生はまだまだ長い。
もしかしたらこの肩書きも悲劇の材料になるときが来るのかもしれない。
でも辛くてもしんどくても、生きていれば必ず時間が手に入る。
そうすりゃこっちのもんだ。
私はきっとこれからも、大小いくつもの悲劇を抱えては、喜劇になるその日まで、長い人生を走り続けるのだ。