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恋、わずらう #2 帰り路

前回までのお話…

ーー自己啓発セミナーに参加することになった僕。そこで偶然出会った中国人女性コウ…悪戯っ子のようなあどけなさ、それでいて時折みせる哀し気な表情。お互いが徐々に惹かれゆくなか、講義は一旦終了してしまう。ただ、一旦席を離れたものの、求め合ったふたりは再び隣同士の席に落ち着いて…

◇◇◇

僕の肩と彼女の肩、触れ合うか触れ合わないかの余韻をそっとはさみ、初日4時限目…最終セミナーは粛々と進行してゆくのだった。

セミナーの課題は、
<いま不満に思っていること>


ペアで話す時間… 彼女のことを、もう少しだけ知ることになった。

ーー彼女は、会社で働きながら大学に通う留学生だった。その会社で彼女はチームリーダーに抜擢されていて、そのチームは彼女より年上ばかりのスタッフで構成されているそう。そしてそのスタッフは、なかなか自分の言うことを聞いてくれないらしく、そのことが不満だという。きっと彼女は優秀な人材なのだろう。日本語が堪能な彼女は、国籍を超えて日本人のスタッフに指示をだせるのだ。ただ、周りのスタッフにしてみれば

この小娘が…

のような、少しマイナスな感情にとらわれることは容易に想像ができた。何故なら、彼女のちょっとした”気の強さ”に、僕は何となく気づき始めていたからだ。僕は、このセミナーで自分のグループ内で一緒だった小学校の先生が抱える悩み…<先生が生徒を怒るイライラ>を例にして、彼女に話をしてあげた。

「廊下を走っちゃだめだって先生は毎日怒っていて、でも注意しても注意しても生徒たちは気がつけば廊下を走るんだって。それで先生はいつもイライラしてるんだよね。廊下は走らないようにって注意書きもしてあるのに、生徒たちは休み時間になるとワーっと一斉に廊下へ飛び出しては走りだす…注意しても注意しても直らない。先生はいっつもイライラしちゃう。
ねぇ、コウさん…この先生、何でイライラしちゃうと思う…」

「廊下は走っちゃいけないって決まりだからかな…」

不安そうに彼女が聞いてくる。

「そう。廊下は走っちゃいけない決まりがある。だから先生は決まりを守らない生徒が許せないんだよね。だからイライラしちゃうんだよね」

ウンウン…と肯く彼女。

「だけどさあ…先生の頭の中は<決まりを守らない>に、とらわれ過ぎてないかな…うん、先生は真面目で、正義感が強くて、本当曲がったことが大嫌いな人だと思うんだよね。でもそれって生徒に対して自分の”正しい”を、無理強いしてないかな?自分は正しい、生徒は悪い、正しいことをしている自分は正義だ、生徒たちは俺の言うことを聞いていればいいんだ、俺は正しいんだから…そんな生徒への支配欲が先生の心のどこかに隠れてないかな…」

彼女の顔がハッとする。

「先生は、決まりを守らないことに重点を置きすぎていて、そもそも何で走っちゃいけないかを忘れてるんだよね。生徒が走って、転んで、そのことで怪我をするかもしれないし、誰かと出合い頭にぶつかったって怪我させちゃうかもしれない…先生は自分の正しさに溺れるあまり生徒を支配する欲が強くなり過ぎて、本当は何が大切かってことを忘れちゃったんじゃないかな…そう、つまりは生徒に対する愛情に欠けてたんじゃないかなって思うんだ。もちろん廊下を走った生徒には注意するよ。うん、注意することに変わりはないんだけれど、もしそこに決まりだけじゃなくって生徒への愛情があったとしたら、何か変わらないかな…」

僕は彼女と顔を見合わせてニッコリした。
彼女は目を見開いたまま飛びっきりの笑顔になって、その茶色い瞳をクリクリさせた。僕は心の中で、その笑顔ズルいよ…なんてドキドキしていた。

「コウさんも、スタッフに対して愛情が欠けてることなかった…」

と、僕が訊くと
彼女は手の甲に爪を立てる素振りをして

「イィーーーってなたよ…」
と、悪戯っぽく笑った。



そして、初日のセミナーが終わった。

「また明日ね…」

と、彼女が手を差しだして、その手のひらはちょっとだけ冷んやりしていた。

ーー握手…

手を握ってきた彼女は、僕の勘違いでなければ名残惜しそうに、ほんの少しだけ名残惜しそうに僕の手のひらからスルリと白い手を抜いたあと

「バイバイ」

と、笑顔。
そして踵を返し、薄いベージュのワンピースに茶色のコートを羽織り、真っ白なリュックをダランと背負って出口へと向かい、やがてその姿は帰路に着く受講生の人混みに同化して見えなくなってしまった。


僕は、その手のひらの余韻に浸りながらゆっくりとビルを出て、そして寒々とした新宿の街へ颯爽と踏み出した。

街の灯りはキラキラと輝き、その眩しさを遮るようにコートの襟を立てた僕は、何故か大切にポケットの中へ手をしまっていた。

(続


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