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第171回芥川賞候補よむ

芥川賞候補作を読んだ。
2作をのぞいて大学図書館のリファレンス利用。


せっかくなので予想

本命 バリ山行
対抗 バリ山行+転の声の同時受賞
いなくなくならなくならないで

6月下旬の今、予想あげてるひとぜんっぜんいなくてさみしい、、
前提として、個人的に描写が抒情的・思弁多め、人が魅力的な小説が好きなので、それにあてはまらない小説はあんまり楽しく読めない。
↓ネタバレは多分なし。

朝比奈秋「サンショウウオの四十九日」

周りからは一人に見える。でも私のすぐ隣にいるのは別のわたし。不思議なことはなにもない。けれど姉妹は考える、隣のあなたは誰なのか? そして今これを考えているのは誰なのか――三島賞受賞作『植物少女』の衝撃再び。最も注目される作家が医師としての経験と驚異の想像力で人生の普遍を描く、世界が初めて出会う物語。

モノローグ調っぽく杏と瞬が応酬するやりとりに小説という媒体独自のものを感じた。
「体が完全に結合したシャム双生児」という身体に意識的にならざるを得ない視点から繰り出される「意識は全ての臓器から独立している」とか興味深く読むべきであろう言説が展開されていた。
杏と瞬の声があまりにもお互いに向けられすぎて、途中から「知らんがな……2人で勝手にやっといて……」という気持ちにもなったんだけど、受賞してもなんらおかしくないと思う。
文芸評論家が言ってたけど昨今、文学界で当事者性が本流になりつつあるらしく、たしかにと思う。戦争被害者であるシャム双生児という存在をフィクションの場に連行し、架空の当事者を生み出すことがどう受け取られるのか気になる。

松永K三蔵「バリ山行」

古くなった建外装修繕を専門とする新田テック建装に、内装リフォーム会社から転職して2年。会社の付き合いを極力避けてきた波多は同僚に誘われるまま六甲山登山に参加する。その後、社内登山グループは正式な登山部となり、波多も親睦を図る気楽な活動をしていたが、職人気質で変人扱いされ孤立しているベテラン社員妻鹿に、危険で難易度の高い登山「バリ山行」に連れて行ってもらうと……。

芥川賞候補の中でもっとも好きな作品だった。
とにかくバリ山行や自然の美しくて重厚な描写に好感を持った、また読み返すかもとすら思う。
山登りという遊びに没頭できず会社に増殖した不安感を抱え、その不安感を他人にも押し付け矯正しようとする主人公は社会の権化みたいな存在のように思えた。

同僚女性を山ガール(死語)と連呼したり、若い同僚女性にお酌をさせることを「品がない」と言ったり(差別行為に品のあるなしで論じるのは問題を矮小化してる……)
この作品の女性観なのか時代がまだ昭和だなあと感じて、古臭さがあったのがくやしい。
エイミあたりが突っ込んでくれるのではなかろうか……
でも、そういうかっちりした作品ほど芥川賞向きなのでは?

尾崎世界観「転の声」

プレミアは絶対に裏切らないー〝転売される〟ミュージシャンの後ろめたい興奮と欲望

クリープハイプの曲を聞き流しながら読んだ。そういえば昔誘われてライブ行ったことあるな……
中盤くらいまで、転売されたい、ワーキャー鬱陶しいみたいな周囲への不満と欲望が解消されることもなく堂々巡りで口に出される。馬鹿って単語は少なくとも6回見たし。クリープの歌詞もよく馬鹿って出てくる。語り手、イライラをエネルギーにして生きてる感じがかなり尾崎世界観。
「嫌な予感」「手を焼く」っていう鋳型の表現が2回出てきた。中編小説で定型の表現が被ると、作品への尊敬が消える。
近未来の世界の構築は、東京都同情塔ほどディストピアじゃなくありえなくもない未来だからこそ説得力はあるものだと思った。
この小説にとっての風景描写はステージの上から見たもの、とくにファンたちがそれにあたるんだろう。女性ファンたちが語り手にとっていかに愚かしく映っているかが描写によって語られる。状況説明的であるとともに、新人賞の選評でも女性の描写に諫言の多い川上未映子氏はどう思うのか気になった。
文藝春秋的には激推しの気配。3年ほど書きあぐねつづけながら書かれたらしい。第2の又吉になって文学界が盛り上がってくれたらそれはそれで嬉しいかも。

坂崎かおる「海岸通り」

海辺の老人ホーム「雲母園」で派遣の清掃員として働くわたし、クズミ。
ウガンダから来た同僚マリアさん。
サボりぐせのある元同僚の神崎さん。
ニセモノのバス停で来ないバスを毎日待っている入居者のサトウさん。
さまざまな人物が、正しさとまちがい、本物とニセモノの境をこえて踊る、静かな物語。

好みではない作品だったけど、楽しく読める人もいるのだろうと納得はできる。
どこにも行けない架空のバス停というモチーフが印象的だった。
でも、いま、外国人同和の話?語り口は柚木麻子か今村夏子を読んでいるようだった。
浮気が「ラッパーっぽい」とか、九州は男尊女卑が強いというマイクロアグレッションとか(九州出身者としてはよく持たれがちな偏見)、ふいに放り込まれる黒人の汗腺の話(私はこれに語り手の無神経さを感じた)など、ろくでもないバイアスにまみれた下賤な語り手。それなのに、マリアさんに対して最初から同情的な立場に立っていることがいまいち腑に落ちない。マリアさんが語り手を慕っているという理由はあれども、語り手がマリアさんを異分子として普通に排斥している姿のほうが私は想像できる。最後のシーンなんかはこの人こんないい人だったっけ?と思わざるをえず、そのムラに書き手の作為を感じてしまった。

向坂くじら「いなくなくならなくならないで」

死んだはずの親友・朝日からかかってきた一本の電話。時子はずっと会いたかった彼女からの連絡に喜ぶが、「住所ない」と話す朝日が家に住み着き――。

わりと小さな世界で展開される小説だけど、語り手が私を乗せてえぐいワインディングロードにドライブしてくれるような心地で、身を任せていた。揺さぶられる感覚が快かった。
タイトルのウネウネさもつけられるべくしてつけられた必然がある。
作中、シュルレアリスムっぽい描写がなされる場面がある。それがやや唐突なあまり、そういうのを読みつけてない私からはのぺっとした表現に思え、情景がなんにも頭の中に立ち上がってこない点はあった。
親しい人間が見せるふてぶてしさや肌の距離の感覚など丁寧に描かれている感じがした。友達にこの距離感でやたらベタベタする女の子は中高生の時に見かけたな……と思うと朝日は幽霊なのかもしれない。


全五作の共通点は性描写が少なめなこと(ありがたい)

最近文学熱が再燃して初めて発表前に候補作全部読んだ。新しく読む作家に対して警戒心しかなく信頼ゼロなので、初対面の人といっぱい会ったときみたいな気疲れがすごい。
今期の芥川賞受賞作がめっちゃヒットしますように!!

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