見出し画像

国家と会社に従順な国民を育てる日本の「権威主義教育」

この記事は以前公開した「政府が腐敗・不正・無能・悪意の限りを尽くしているのに、なぜ、日本国民は怒らないのか?~国家と会社に従順な国民を育てる日本の権威主義教育~」の後半部分だけを切り離して加筆修正したものです。

旧記事前半部分は、こちらです。


どれほど政府に踏みつけにされても怒らない日本国民

安部元総理が築いた不正・腐敗・無能・悪意の4拍子が揃った「2012体制」を引き継いだ岸田総理は本年に入って急激に「暴走」の速度を増し、3年間国政選挙がないのをこれ幸いと閣議決定独裁政権のような様相を呈している。まるで安倍晋三の悪霊が乗り移ったかのような妖怪じみた恐ろしささえ感じさせる。

保身のために民意を踏みにじった安倍インチキ国葬強行、国民健康保険証の廃止とマナンバーカードの強制、完全に憲法違反である先制攻撃のための中距離ミサイル配備、旧式米国製兵器の言い値爆買い、大軍拡と大増税、社会保障と福祉の切り捨て及び負担増、インボイスの実施、原発政策の180度転換その他の反国民的政策を狂ったように次々と打ち出している。

以前書いた記事にリストアップした安部晋三の45項目に上る悪事も凄まじいものだったが、岸田総理は安倍の作った記録を猛烈な勢いで追いかけている。「アクジ」にかけては安倍の右に出る者はいないと思っていたが、このままだと「こんな事なら、安倍政権の方がまだましだった。」と思える日が早晩来るかもしれない。

普通の民主主義国であれば、民意を踏みにじって憲法を破壊し、国民を人間扱いせずに平気で足蹴にする政府に対して「ふざけるな!」と怒った国民が即座に立ち上がり、大規模なデモやストなどによる反政府運動が起きているはずだ。

2022年12に行われた大幅賃上げを要求するイギリスのデモ


しかし、日本では小規模な抗議集会やデモは散発的に行われているものの、今のところ大規模な街頭抗議活動やストライキが行われる気配は全くない。

大多数の国民はデモやストには極めて消極的で、他人事。怒るどころか長い物には巻かれろ式の無気力なあきらめムードに支配されている。政府自民党による暴政を仕方のない天災であるかのように受け止めている節さえ感じられるほどだ。

デモや政治的ストライキは国民の「抵抗権」の一種で、政府に圧力をかけるための最強の武器。大規模デモや広範囲なストなどの物理的抗議活動は大きなアピール効果があり、国民の政治的関心を高めるので政府にとって非常に大きな脅威である。

しかし、日本ではこうした実力行使がさっぱり盛り上がらないので、政府は安心して悪政を継続することが出来るのだ。

日本国民全体がこれほどまでに大人しく、何をされて怒らないのはどうしてなのか、なぜ、「茹でガエル」あるいは「肉屋が大好きな豚」状態になってしまっているのかその原因を考えて行くと、戦前から続いている「学校等での権威主義教育」という問題に突き当たる。

マスコミ、特に強力な洗脳装置としてのテレビの役割はかなり多くの国民が気付き始めているが、より本質的で深刻な問題である日本の「権威主義教育」についてはあまり焦点が当たっていない。

戦前の「権威主義教育」

戦前の大日本帝国では、「天皇制権威主義教育」が行われており、天皇制絶対主義による「皇民教育(臣民教育)」という名の「軍国教育」を支え、補完するものとして位置づけられていた。

「教育勅語」や「修身」などによって服従・規律などを身に付けさせ、天皇に絶対的忠誠を誓い、「男子には将来、軍務につくときに役立つ素養を、 女子には『良妻賢母』として家庭を守る素養を獲得させる事」を教育の大きな目標とした。

更に1925年からは、現役陸軍将校の中学校以上の男子校への配属と軍事教練の実施が開始されている。

また、明治民法に規定された封建的家族制度による家父長制も天皇制を草の根から支える上で大きな役割を果たした。天皇を崇拝する根拠として、戸主(戸長)が一家の長として家族全員を支配するのと同様、天皇は日本臣民全体を支配する家長であるとする「家族国家論」が大手を振ってまかり通っていた。

さらにこの天皇を頂点とした家父長制家族制度を土台とした「家族国家論」を元に大日本帝国が世界を「ひとつの家」として統一し、天皇がこれを支配する「八紘一宇」という超国家主義思想が導き出され、日本の海外侵略を正当化するために使われるようになる。

※統一教会教祖文鮮明の「統一思想」と「万物復帰論」は、戦前日本の「八紘一宇思想」の焼き直し(パクリ)に過ぎない。文鮮明は、朝鮮が日本の植民地だった時代に公民教育を受けて育った世代である。

戦後も生き残った「権威主義教育」

日本の学校では敗戦直後の一時期を除き、「国家と会社に従順な人間を育成する」(山崎雅裕氏)ために戦後も一貫して「偉い者や目上の者には無条件に従え」という「長いものには巻かれろ」式の「権威主義教育」が続けられてきた。

1947年の「教育基本法」制定により「皇民教育」は廃止され、同時に1947年の日本国憲法施行と民法改正により家族制度も廃止となり個の自由が大幅に認められた。しかし、「権威主義教育」は一種の「慣習」として戦後もしぶとく生き残った。

体育、道徳、特別活動、学級指導、朝会(朝礼)における校長訓話や入学式、卒業式、軍隊式の集団教練の場である運動会などの各種学校行事、入学したとたん上から降りて来て問答無用で生徒を束縛する「校則」、評価で生徒の行動を支配する内申書、パワハラによって上の者には黙って従う従順精神とマッチョ思想を叩き込まれる運動系部活などがその中核。

厳格な上下関係、精神主義と「根性命」の応援団などは、さしずめそのチャンピオンだろう。

学校と生徒・児童との法的関係だが、社会情勢の変化に伴い戦前からの「特別権力関係論」が使えなくなってしまった。そのため、文科省は「特別権力関係論」に代わって有力な学説となりつつあり、最高裁判決でも用いられた「学 校=法 外 特 殊 部 分 社 会 論 」(部分社会論)を根拠に「学校は一般市民社会で適用されている『一般権力関係』とは別個の自律的な法規範を有する特殊な部分社会である」と規定。日本の学校教育に憲法は適用されないという立場を取っている。

学校を支配しているのは憲法ではなく「特殊な部分社会」である学校が一方的に決めた「校則」であり、当然子どもたちの基本的人権や主体性も尊重されない。概ね中学以上で一方的に生徒を縛り付けるブラックな「校則」が大手を振ってまかり通っている根拠はそこにある。

「権威主義教育」の下での児童・生徒はあくまで指導や躾を受ける客体であり、児童・生徒の基本的人権や主体性など認めていたら、権威主義教育そのものが成り立たないからだ。

日本が「子どもの権利条約」を批准しながら、条約内容に合わせた法律改正を行わないのは、従来からの権威主義教育を温存するためと言われても仕方がないだろう。

体育授業や運動会では今でも「気を付け!」「前へ倣え!」「右向け、右!」「回れ右!」「休め!」などの軍隊式号令が当たり前のように行われており、一糸乱れぬ整列や集団行動が美しいとされる。

「権威主義教育」の特徴

その結果、学校教育を終える頃には「権力に自発的に隷従」し、主体的思考力ゃ批判精神を欠いた従順で羊のようにおとなしい国民が出来上がるという仕組みだ。(勿論、例外はあるが)

前記の運動系部活や応援団がその典型だが、「権威主義教育」で育てられた人間は自分より上の者には無条件で隷従する半面、下の者には加虐的な態度でその精神や行動を支配しようとする「権威主義的パーソナリティ」を身につける。

特に「強くなるためには指導者や上級生に黙って従え」式の体育会系ヒエラルキーが貫徹している運動系部活は、小学校からの「教育勅語」に基づく「皇民教育」と「現人神天皇陛下に忠誠を尽くせ」というマインドコントロールによって思考力を麻痺させる。更に「軍人勅諭」と厳格な階級制、そして「私的制裁」という名の凄惨な暴力による恐怖で兵士を支配した旧日本軍の「軍隊教育」と根っこは同じだ。

「権威主義教育」では、集団の意思決定は権威や権力を持つ一部の者が独占するという意味で本質的に非民主的であり、そこでは、上意下達の理不尽な規則や慣習、暴言や暴力などのパワハラによる非合理主義が支配している。

これは別に学校教育に限った話ではなく、就職した後の社内教育や社畜を作る「みそぎ研修」で有名な「修養団」、軍隊教育さながらの「しごき外部委託宿泊研修」などの人権を無視したスパルタ式社員教育が未だに大手を振ってまかり通っている。

スパルタ式の暴力教育によって複数の死者まで出した実例としては、1980年代に発覚して大問題になった「戸塚ヨットスクール事件」が有名。

自衛隊でパワハラによる自殺者が何人も出たり、性暴力を受けた女性隊員が訴訟に訴えたりするのも全く同じ構造で、隊員の基本的人権が尊重されない自衛隊の全体主義的体質にその根本原因がある。

GHQの指令によって自衛隊が朝鮮戦争勃発直後の1950年8月に警察予備隊として発足した際、旧日本軍の高級将校が幹部として多数採用されている。そのため、現在の自衛隊は伝統的に旧軍の暴力体質や非合理的な権威主義・精神主義を引き継いでしまった。

また、隊内教育では講師として何人もの極右言論人採用している。その影響で隊内には戦前の天皇制絶対主義体制を肯定する極右思想が強く浸透しており、最近では自衛隊幹部が靖国神社に公用車を使って参拝するまでになっている。

「災害救助に活躍する自衛隊」という側面ばかり見ていると自衛隊の本質を見誤る。米軍の指揮下にある事も含めて、現在の自衛隊が国民にとって実は非常に危険な実力組織である事を認識する必要がある。

「権威主義教育」を更に強化した安倍政権

日本の「権威主義教育」を更に強化したのが、第一次安倍政権による2006年の教育基本法「改正」。これは、短命に終わった第一次安倍政権の数少ない「業績」と言われている。

「改正教育基本法」では日本の「伝統・文化」や「愛国心」を育むことを教育の重点目標とし、それまでなかった家庭での教育に関する条項を新設。「教育基本法」を戦前回帰の「権威主義的愛国教育」へと変質させてしまった。

家庭教育条項の新設には、日本会議や旧統一教会からの強い働きかけがあったと見られるが、その影響は、「改正教育基本法」に基づく教科書で教育された若者たちの「保守化」となって顕著に表れている。

「権威主義教育」で育てられた若者たち                      

現在の若者たちはこうした学校や企業、社会における「権威主義教育」で上の者(権力者)には黙って従うように躾られて育ったので、権力に異を唱えたり、反抗したりする事にネガティブな感情をもっている者が多い。

そのため政治的なデモや人間らしい待遇・賃金を求めて企業と闘うストライキなどに対しても事を荒立て、社会秩序を乱す反社会的迷惑行為として否定的な態度をとる。                       

権力に対して文句を言ったり、怒りや反対を表明したりすれば「集団の和を乱す変わり者・異端者」というレッテルを貼られて周りから孤立し、仲間外れにされたり、いじめられたりする事を常に恐れている。

だから、権力者の腐敗、不正、無能に対しても見て見ぬふりをして、なかったことにしてしまう。事なかれ主義で権力に素直に盲従していれば波風が立たず、その場は平穏無事でいられるからだ。実はこれが、日本の学校や会社などで「いじめ」が蔓延する温床なのだが。                      

権威や権力などに左右されず、自立して自分の頭を使って論理的に考え、主体的合理的に物事を判断して行動するのは、民主主義社会の構成員としての近代的市民の必要条件。しかし、日本の大多数の国民は学校でこうした「市民教育」を受けていないし、権威主義が蔓延る日本の学校で近代的市民教育が行われるはずもない。

これでは政治に限らず、日本社会のあらゆる面で見られる全体主義的同調圧力に全く抵抗できない。

政治面に目を移すと、学校教育や社会教育で知らず知らずの内に「権威主義」を内面化して育った若者たちは、一強支配で権力者然としてふるまう安倍元総理を自分たちを導いてくれる力強いリーダーとして支持し、その言説を信頼して受け入れる事に違和感を持たない。 

若者たちは安倍元総理が作った長期腐敗・不正・無能の「2012年体制」の政府しか知らないので他に比較対象がなく、今の政府のあり方が普通だと思っている。TVや新聞などの主要メディアが体制と一体化し、政府の言い分だけを一方的かつ大量に垂れ流す事による「刷り込み効果」がそれに拍車をかける。

権威主義教育の「成果」

米国と財界の傀儡自民党による半永久的支配や究極の反国民的政権であった安倍政権が作った「2012年体制」が未だに続いているのは、自民党や財界などの支配層から見れば紛れもなく「権威主義教育の成果」だろう。

政府がどれだけ「腐敗・不正・無能・悪意」の限りを尽くしても本気で怒らず、少し時間が経てば何事もなかったかのようにすぐに忘れてしまう「羊のように大人しくて従順」、まるで家畜のような国民を育ててくれたのだから。

この問題について中嶋哲史はツイッターで次のように皮肉っている。

「日本人として生まれて来たならば、天皇陛下を尊崇し、日の丸君が代にじ~んとなり、共産党、左翼、リベラル、護憲派、インテリ、フェミニストを目の敵にし、お上には逆らわず、自分の意見は決して持たず、選挙ではいつも自民党に入れていれば、きっと幸せになれるに違いない。」

本質的に非民主的で非合理的な「権威主義」はファシズムの温床であり、「権威主義」が強まれば強まるほどその社会は全体主義や国家主義に近づいていく。

安倍晋三は第二次安倍政権スタート時に「日本を、取り戻す」というスローガンを掲げたが、安倍が取り戻そうとした「美しい国」は大日本帝国憲法が支配する「戦前の日本」。

安倍晋三の願い通り、総理退陣後もその遺志を引き継いだ菅・岸田政権によって、日本は安倍が理想とした戦前の全体主義国家に着々と逆戻りしつつある。                               

学校教育にも憲法の適用を!

憲法や民主主義が機能しない「権威主義国家日本」を本当の民主主義国家に変えるためには「学校教育にも憲法を適用」し、現行の「権威主義教育」を全廃して、真の民主主義教育に切り替えて行く必要がある。現に過去には逆コースが始まる前のほんの一時期ではあるが、それが行われていた時代があるのだ。

憲法が学校教育にも適用されるようになれば、権威主義教育は必然的に不可能になる。

1947年に発行された中学1年生用教科書。
「逆コース」に伴う教育方針の右旋回により、1951年に廃止された。

                                  最後に中島みゆき唯一のプロテストソング「世情」(5分10秒あたりから)

「3年B組金八先生」第2シリーズ第24話「卒業式前の暴力(2)」

高音質盤はこちら。                         カバーですが、なかなかよく出来ています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?