全部心あたりがあるから愛おしくなる〜『神と黒蟹県』読書感想文
タイトル見て「なんのこっちゃ?」と思いました。なんやねん、と。でも、なんか惹かれちゃったんです。いつもの、あの新聞の、本のページで紹介されてて、実は書評を読んでもよく分からなくて「一体どういう話なんだ?」と思ったけれど、その時点でもう惹かれちゃってたもんはしょうがないので読むしかないのです。
『神と黒蟹県』/絲山秋子
本を手にとって帯の一文を読んだ時に、これはアタリだと確信しました。
ふふふってニヤけました。これ私が住んでるとこの話じゃん、て。
東京とか大阪とか誰もが知ってる場所ではない、県名はわかるけどそれってどの辺りだっけ?みたいな、架空の“地味県”が黒蟹県です。ここに書いてあることのほとんどは“田舎あるある”で、だからわかりみが深い。
例えば私の住む町に“〇〇の交差点”てのがあるんですけど、この〇〇は以前そこにあったスーパーの名前で今は無くなって更地になってるので建物なんて無いんですよ。でも地元の人はいまだに“〇〇の交差点”て呼んでるしそれで通じる。でもこれ、他所から来た人には通じないですよね。
例えば同じ苗字や名前の人を区別する時、“〇〇(住んでる場所)の石元さん”あるいは“△△(勤め先)の石元さん”あるいは、背が高い低いとか、未婚か既婚かとか、元先生だとか、何かしらの冠言葉が付いて表現されたりするけど、これも事情に詳しくなかったら誰のことやら、ですよ。
それが黒蟹県です。
新幹線の駅はあるけど本数が少ないとか、ちょっとした観光地があったり、町ごとのプライドがぶつかりあってお互いにライバル視して隣町のことをディスったり。
どこの県にもあてはまるし、誰もがうなづける。
それが黒蟹県です。
ちなみにこれ、連作小説集です。なのでお話ごとに語り手が替わるんですが、たまに“神”が語ります。この神がなんともまあユルいと申しますか、まあ神なのでいろんな姿で登場するんですけど、どれもシャキッとしないというか。それでいて人間のことを観察して、人間の私でさえ気づいていなかった良いところを神の視点で褒めてくれます。
例えば私たちは相手によって言葉遣いや話し方を変えたりしますよね。小さい子どもを相手にする時とか、お年寄りに話しかける時とか。やろうと思ってやってるわけじゃなく自然に出来てる。
そういうとこ、見てくれてるんだって思ったら嬉しくなっちゃって。いやいや、これは小説の中のことだってわかっているけどやっぱり嬉しい。
大きな事件は起こらないし、登場人物も地味っちゃ地味。だけどなんか心地良いんです。
田舎のウリは“自然”じゃないですか。でもこの、私たちがイメージしている自然は、実はちゃんとお手入れされて管理が行き届いてる“自然”なんですよね。私の町も今、川をテーマにしたアクティビティパークを作ろうとしてるんですけど、ものすごい勢いで工事してますもん。ホントの自然は、もう草なんてボウボウに生えててジャングルみたいに木の枝に行手を阻まれるみたいな、虫とか爬虫類の宝庫みたいな、「自然て良いよなぁ」なんてのんびり言ってる場合じゃない、もっとワイルドなんです。ホントの自然を楽しめるのは探検家とか冒険家で、人に優しい“自然”は人工物ってことです。
ふむふむ、確かに。頷くしか出来ません。
各話の最後には“黒蟹辞典”なるものが付いていて、架空のものか実在しているのかが明記してあるのも楽しいです。第一話の辞典が全て架空だったので架空の物を説明するための付記なのかと思っていたら、ほかの話の辞典にはちゃんと実在する物の説明もあって、知らない植物や伝統工芸品の名前が載ってました。
ちなみに“蓑虫のバッグ”って実在するみたいなんですけど、どちらの伝統工芸品なのかしら?なんて検索したりするのも楽しいのです。(群馬県のようです)
大都市だろうと田舎町だろうと人間の暮らしはあって、その土地に地域性や県民性が根付いていて、誰も自分の住む町の衰退は望んでいない。
地方都市が先端なら作中の“田舎あるある”もいずれは大都会に住む人にとっても“あるある”になるはず。
他所から来た人もいつのまにか“ここの人”になっていくんだなぁ。そういう移り変わりが人生なんだなぁ。人と人との関係性は実に様々だなぁ。都会でも田舎でも時は流れるよなぁ。田舎も悪くないよねぇ。
そんなことを思った次第です。
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