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ペトルーシュカ和音

彼女の創る作品は荘厳で仰々しい代物ばかりだ。

今、僕の目の前にある作品はその中でも特に異質である。

大きな白鳥が羽ばたく瞬間を立体的に切り取ったような石膏像に、大きな茶色い傘のきのこが無数に散りばめられており、大小の異なるきのこはそれぞれがそれぞれに対して恐怖を煽っている。

加えて、全体がペトルーシュカ和音の実際的な具現化であり、鑑賞者に対して畏敬とも喜びとも恐怖とも言い難い複雑な感情を呼び起こしてくるのである。

美術界での彼女への評価は、文字通り真っ二つだった。

ミケランジェロの再来だという声と芸術への冒涜だという糾弾が同時に聞こえて来、如何なる社会的ラベリングの集団においても評価が一色になることは決してなかった。

日本美術会はこの急進的な芸術家に対して、日本アンデパンダン展以外への出品を憚るように非公式に圧力をかける有様だ。

彼女はそのか細くスラリとした艶かしい四肢でもって、芸術を蹂躙したに等しかった。

しかし、彼女は決して威丈高な態度を示さなかった。

鼻筋から人中の流れは彼女の公家的な気品を体現しており、彼女のある種の正統性みたいなものを縷々と感じさせた。

ただし、そこに柔和な唇が発する絹のような物言いに、両の眼からもれる淡い暖かな光が相まって、人の心理的武装をいとも容易く解除してしまう。

彼女が例の作品に取り掛かる段になって、僕は彼女のアトリエに呼び出された。

部屋の中央には白鳥の剥製が据えられていて、東向きの窓から厳しい冬の光が差し込み、剥製の目が冷たく反射する。

彼女は僕に剥製の横でビニール傘をさすように指示し、立てかけてあった傘を僕に手渡した。プラスチックの持ち手はひどくひんやりしていた。

彼女は僕と剥製から少し離れたところに座って、頬に左手を当てて、右手で鉛筆を持ちスケッチをした。

十分もしないうちに、彼女は鉛筆とスケッチブックを机に放って、僕を夕食に誘った。

僕は傘を机の端にひっかけておいた。

僕は礼儀として、彼女のスケッチに一瞥もくれなかった。

彼女と僕は黒いダウンのコートを着て、街に繰り出した。

季節に逆らうような攻撃的な電飾が、僕の網膜に突き刺さる。

赤いタワーが灰色のビルの合間から見え隠れして、壁面に反射する。

彼女の贔屓にするビストロに着くとダウンをクロークに手渡し、いつもの席に着いた。

僕らは兎肉を使ったラパン・ア・ラ・ムータルドと白ワインを見知ったウェイターに頼んだ。

料理が出てくるまで最近始まった中東の戦争について二人で話す。

あの地域の小さなオーケストラが、反戦コンサート中に観客もろとも襲撃された話。

まだ少し赤い綺麗なふっくらとした手を持つ赤ちゃんが、孤児になった話。

久しぶりに食べた兎肉は絶品だった。クリームとマスタードの加減が完璧で、白ワインともよく合う。

彼女は背筋を正して、綺麗にナイフとフォークを扱って、流れるように兎肉を食らっている。

ワイングラスが傾く。

液体がスルスルと柔らかな唇の暗がりに消えていくのを僕はじっと見つめていた。

僕らは再びダウンを羽織って、凍てつく夜に繰り出した。

「完成した」

固有かつ独特な振動が鼓膜を震わせた。

「一体何が」

僕はその振動に向かって問うた。

しかし、僕の声は誰の鼓膜も震わすことなく、ただビル街に霧散していった。

彼女は唇を固くして、アトリエへの道を一直線に急いだ。


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