見出し画像

使えないアイディアばかり出るのはなぜ──1年かけて、15人のクリエイターたちにインタビューしてわかったこと。

「使えるアイディアを生み出せない」

編集家として、これまでクリエイティビティをテーマにした本や教育事業を手がけたり、顧問として企業にかかわったりすることが多いからか、ごく一般的なビジネスパーソンからよくアイディアにまつわる相談を受けます。“定番”はやっぱり「どうやったらアイディアが発想できるのか」。ただ、この数年は少し事情がちがってきています。アイディアの出しかたではなく、アイディアの質についての相談が目立つようになってきているのです。

ワークショップの普及やデザイン思考ブームなどの影響もあって、最近は、なにかしらの“案”を出すことが、それなりにできるようになった。会議室で一連の作業を終えると、ホワイトボードにアイディアらしきものが書かれた付箋が何枚も貼られる。けれど「使えるアイディア」が生まれてこない。もしくは、どれが使えるアイディアなのかわからない、選べない──彼らの多くがそういいます。

こう書くと、場数をふんでいない初心者の悩みのようですが、プロフェッショナルとしてワークショップを仕切る人たちからも、同様の相談を受けることが少なくありません。「使えるアイディアを生みだせない」背景には、どうやら根深い事情があるようです。

いったい彼らの取り組みの前に立ちはだかっているものはなんなのか。その正体を知りたいという思いもあって、ぼくは「アイディアのいま」をさぐるべく、アイディアで勝負しつづけている(広義の)クリエイターたちに、1年近くかけて「アイディアの考えかた」をインタビューすることにしました。メンバーは、水野学さん、川村真司さん、岩佐十良さん、鳥羽周作さん、龍崎翔子さん、藤本壮介さん、伊藤直樹さん、齋藤精一さん、三浦崇宏さん、篠原誠さん、川田十夢さん、明石ガクトさん、佐藤尚之さん、佐渡島庸平さん、柳澤大輔さんの15人。それをまとめたのが『ささるアイディア。なぜ彼らは「新しい答え」を思いつけるのか』という本です。

語られたアイディア発想の詳細は本にゆずるとして……、何十時間にもわたって彼らの話を聞き、議論するなかで、わかってきたこと、見えてきたことがいくつかあります。ここでは、その結論のうちのひとつを紹介したいと思います。

「音楽はピアノのなかにない」

15人からつぶさにアイディアに関する話を聞いて、もっともつよく印象に残ったこと。それは全員が「アイディアというものの役割」を明確に意識していることでした。

「ぼくらがやっているような仕事で求められているアイディアって、一種の見立てのようなもの」(水野学)

「アイディアはそのミッションを実現するために具体的になにをやるか、という部分です」(岩佐十良)

「相矛盾するものを包括しようとしている」(藤本壮介)

「4つの視点のすべてで課題を解決できるものこそが、本当にいいアイディア」(龍崎翔子)

「人間にとってやさしいことや、人間にとって本当に大事な事柄をあきらめない(ことがアイディアの出発点)」(柳澤大輔)


※『ささるアイディア。』より引用

彼らはみな、自分が生み出すアイディアの意義について、きちんと言語化できるレベルではっきりと自覚していました。そのことに気づいたとき、ぼくが思い出したのは、コンピュータの父と呼ばれたアラン・ケイがかつてある取材で語った「音楽はピアノのなかにない」という言葉

学校などで音楽文化をはぐくむには「とにかくピアノを設置すればいい」と考える人たちを牽制したもので、アラン・ケイは、そこには「音楽と楽器のちがい」の見逃しがあると指摘しています。

当たり前のことですが、ピアノがあっても、それを弾かなければ音楽は奏でられません。もっといえば、音楽について知らなければ、たとえピアノで音を鳴らしたとしても、それは音楽性をともなうものではなく、音楽文化の醸成にはつながりづらい。つまりは、ピアノという“道具”だけがあっても意味はなく、音楽の知識や素養が必要だということ。“道具”が効力を発揮するには、その領域についての“理解や教養”が必要なのです。

これと同じことが、ビジネスシーンでのアイディアの扱いにも起こっているのではないか──。

アイディアというと、まず気になるのは生み出しの部分です。そこをテコ入れしようと、最近はいわゆる発想法やグループワークなどの手法がつかわれているわけですが、そもそもアイディアに対する理解や心得がなければ、先ほどのピアノと同様に、それらの“道具(発想法など)”を生かすのは難しい。

個人の発想力も同じです。たとえユニークでとがった発想ができる力をもっていたとしても、アイディアに対する理解や心得がなければ、的をねらわずに矢を射るようなもの。文字どおり、的はずれな発想になりがちです。

要は、アイディアの発想には「いまの世の中でアイディアという存在はそもそもどんなもののことで、どんな役割をになうのか」といったことについての知識や理解、つまりは「アイディア観」が必要だということ。そこが欠けていると、なにかしらの案のようなものは出せたとしても、「使えるアイディア」「機能するアイディア」を生み出すのは難しい。ささるものにはなりづらい。料理のことを知らない人がおいしい料理をつくれないのと同じようなもので、アイディアのことを知らないのに、いいアイディアを生みだせるはずがないのです(もしくは、生みだせたとしても、その価値に気づけない)。

実際、すぐれたクリエイターたちはみな「アイディアという存在の意義」「発想力の役割」について、よく心得ています。先ほども書いたように、ぼくがインタビューした15人ももちろんそうでした。質問を投げかけるとみな、アイディアとはこういうものだ、こうあるべきだ、という自分なりの主張や心得を、目を輝かせながら語ってくれました。

アイディアというと発想力にものをいわせたもののように思われがちですが、じつはそうではありません。もちろん発想力や発想の努力が大切なのはまちがいないのですが、それをきちんと方向づけて、適切に生かすためには、道しるべとしての「アイディア観」が必要なのです


※参考までに、以下に書籍『ささるアイディア。』のなかから「アイディア観」についてふれた「はじめに」を転載します。


はじめに──アイディア観をもつということ

「発想の作法」を支えているもの


 なぜ、すぐれたクリエイターたちは「ささるアイディア」を生み出すことができるのか。その理由のひとつは、彼らの「発想の作法」にあるとぼくはみています。
 これまで20年近くにわたって、クリエイターと呼ばれる人たちの本をつくり、さまざまなプロジェクトで彼らといっしょに仕事をしてきましたが、すぐれたクリエイターは例外なく、自分なりの「発想の作法」をもっていました。知るべきことを知り、考えるべきことを考えて、選ぶべきものを選ぶ。大ざっぱにいうとこの3つのプロセスに自分なりの味つけをした独自の作法を実践するなかで、アイディアを生み出していくのです。
 ただ、この“作法”は、いわゆる発想法ではありません。どちらかといえば行動様式に近く、でも思想的で、「アイディア観」ともいうべきものに支えられています。アイディアの存在意義や社会で果たすべき役割への理解がベースにある。いわば、「なにをやるか(what)」「どうやるか(how)」ではなく、「なんのためにやるか(why)」に通じる部分です。そんなそもそものところを意識しているからこそ、彼らは発想のために必要なこと、やるべきことを自分の目で見きわめ、能力を使うべきところで使い、本当に意味のあるアイディアを選び取ることができるのです。
 「いまこの時代に求められているアイディアとは、こういうものだ」という自分なりのアイディア観をまずもつこと。それをもとにした自分なりの発想の作法をもつこと。「ささるアイディア」を生み出す鍵は、この2つにあるといっても過言ではありません。
 そして、時代が変わればアイディアの意義や役割も変わります。アイディア観はそのつどアップデートされるべきものでもあります。実際に社会でアイディアが果たす役割は、この数年だけでも大きく変化しています。
 少し前までは、アイディアは「与えられた課題を解決するためのもの」と位置づけられることがほとんどでした。でも、いまはかならずしもそうとはいえなくなってきています。社会がさらに複雑化したことや、多くの領域でさまざまな解決や挑戦がすでになされてきていること、さらにはパンデミックによって、先が見えないまま見切り発車的に変化を迫られたことなどもあって、なにを解決すればいいのかがはっきりしない、つまりは課題が見えていないケースが増えています。「これを解決しよう」と、まず課題を設定するところから取り組まざるをえないことが多く、起点となる「問い」が求められてもいる。単純な解決ではなく、向かう先に好ましい未来をえがくことまでがアイディアに求められているのです。
 いわば、私たちを“その先”へ連れて行ってくれるもの。社会で求められるアイディアの多くが、いまやそういうものになりつつあります。

あらゆる領域でアイディアが求められている 

 では、そんな時代にどのようなアイディア観をもち、どのような作法でアイディアを生み出していけばいいのか。本書ではその手がかりを、いままさに社会をアイディアの力で動かしている15人のクリエイターに求めました。
 かつてはクリエイターといえば、まず思い浮かべるのは、広告やデザインにたずさわる人たちのことでした。しかし、いまやアイディアは、あらゆる領域で必須のものとなっています。本書でもそんな広義のクリエイティビティを意識し、いわゆるクリエイティブ領域の人たちだけでなく、事業家や開発者、街づくりにたずさわる人、編集者、シェフなど、さまざまな立場の人たちに、それぞれの「ささるアイディア」について語ってもらいました。
 インタビューにあたっては、事前に大きく分けて3つのことを投げかけています。ひとつは、自分にとって重要なアイディアがどこにあるのか。ひとことでアイディアといっても、コンセプトのような抽象的なものから、組織を動かす具体的な策にいたるものまでさまざまあります。そのなかのどんな種類のアイディアを重視しているのか。いわば、仕事に変化を生み出す力点のようなもののありかを問いかけました。
 2つめはアイディアを考える手順です。どんな準備をし、どのように発想していくのか。彼ら自身が日常的に実践している手順を、具体的な事例を踏まえて教えてほしいと投げかけました。
 そして最後は、アイディアの見きわめかたです。いくらすばらしいアイディアを生み出しても、それを選べなければ存在しないのと同じです。アイディアを生かすも殺すも見きわめ次第。その判断をどのようにしているのか。そして、どんな「ものさし」を用いているのか。
 本篇で語られている内容は、こうした問いかけを呼び水にして15人のクリエイターから引き出されたものです。徹底的に自問自答するという人もいれば、型にそって思考を追いつめていくという人もいました。個人の作法を問いかけたにもかかわらず、大事なのはチームとしての力だと語る人もいました。主張はまさに多様。でもすべてが芯を食っていて、示唆に富んでいます。ここで述べられた彼らの考えかた自体が「アイディア発想についてのアイディア」なのです。
 いろんな読みかたができるでしょうが、まずは登場するクリエイターたちがもっているアイディア観を感じていただけたらと思います。そのうえで、それぞれの取り組みかたに注目して、みなさん自身の発想の作法をつくる手がかりにしていただけたなら、編者として幸いこのうえありません。

編集家 松永光弘
 


画像1

『ささるアイディア。なぜ彼らは「新しい答え」を思いつけるのか』
https://www.amazon.co.jp/dp/4416521782

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?