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伝わる文章は、コミュニケーションの「高さ」に気をつけている。

意外と忘れられがちなコミュニケーションの「高さ」

指摘されると重要性を感じるのに、意外にちゃんと意識されていない文章作法のひとつに「コミュニケーションの高さ」がある。かんたんにいえば、書き手と読み手とのあいだでの「意識のうえでの上下関係」みたいなものだ。実際には文章だけでなく、会話を含めたコミュニケーション全般にあてはまることだが、そこへの配慮は、文章を「伝わる」「共感できる」ものにするうえで不可欠だとぼくは思っている。

たとえば、的確で正しいアドバイスをメールで書いて送ったのに、まったく相手に響かないことがある。それどころか、怒らせてしまったりもする。ここにもコミュニケーションの「高さ」がかかわっていることが少なくない。

それを象徴しているのが、ときに怒った相手から吐き出されるつぎのような言葉だ。

「見下したような感じが気にくわない」

「見下したような」。つまりは「書き手」が「読み手」よりも高い位置から言葉を発しているということ。「読み手」はそれを感じとるから「気にくわない」……。

もちろん、これは会話にもあてはまることだが、コミュニケーションの「高さ」は、文章の「表現」を支配する。その「高さの設定」をまちがえると、「いいたいこと」の是非以前に、受け入れてもらえなくなってしまう。だから文章を書くときには、あらかじめ書き手であるじぶんと読み手との「高さの関係性」をきちんと意識しておく必要がある。

では、「高さ」にはどんな種類があるのか。
典型的なものは、大きく分けてつぎの3つだ。

・書き手が上で、読み手が下 = 上意下達型

・書き手と読み手が同じ高さ = 対等型

・書き手が下で、読み手が上 = 下意上達型

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「意識のうえでの上下関係」といっても、ほとんどの場合は、社会的な関係性を反映することになる。だから、もしそれがお互いにとって自然なものであれば、文章でも同じ関係性に乗るようにするとスムーズに伝わりやすい。

ただ、「隠れ上下関係」には注意しなくてはいけない。ときどきものの本に「相手を理解してあげて、対等に話をすることが大事」というようなことが書かれているが、じつはこの姿勢は対等ではない。「理解してあげる」は、結局、無意識のレベルで「じぶん(書き手)」を相手より上位に置いているわけで、対等のつもりでも、読み手には見下しているように受けとめられてしまう可能性がある。先ほどの「見下した」がもっとも起こりやすいのは、じつはこのケースだったりする。

相手が不特定多数。「高さ」はどうする?

さて、ここで問題。
「読み手」がひとりの場合なら、先ほどの3つの関係性のどれかを意識すればいい。だが、イベントの案内文などのように「読み手」が不特定多数、つまりはいろんな立場の人たちである場合はどうすればいいのか。

「上意下達型」にすれば、本来「上位」におくべき人に伝わらないし、「下意上達型」にすれば、逆に「下位」の人に気持ちのわるいものになる。「対等型」にすれば「上下」の人に受け入れられない……。

こういうときは、「人」ではなく、「話題を置く高さ」を変える。話題自体を意識のうえで高い位置に置いて、書き手であるじぶんと、読み手とで、それを一緒に見上げているようなコミュニケーションの仕方をする。いわば、仲間とともに空に浮かんだ月を見上げながら話すような構図。これをぼくは「共望型」と呼んでいる。

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たとえば、経営者である相手にアートを学ぶことをすすめる、とする。3つの型にのっとれば、それぞれつぎのような表現になる。

〈上意下達型〉
「経営者ならアートを学びなさい」

〈対等型〉
「経営者ならアートを学んだほうがいい」

〈下意上達型〉
「経営者ならアートを学ばれてはいかがでしょう」

先ほどの図にあてはめれば、ここで起こっているのはこういうことだ。

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いいかたがちがうだけ、だが、でも先ほども書いたように、このうちのひとつを選ぶと、ほかの高さの相手に受け入れにくいものになってしまう。

だから、伝える相手が不特定多数のときは、話題自体を高い位置に置くようにする。いまの例でいえば、こうなるだろうか。

〈共望型〉
「経営者にはいまアートの感覚が必要だといわれています」

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相手に向かって直接語りかけるのではなく、書き手であるじぶんと、読み手とのあいだの高いところに話題を置いて、いっしょにそれを見上げているイメージ。こうすれば、上位者に無礼と思われたり、下位者に卑屈と思われたり、対等な相手に押しつけがましく思われたりすることもなく、文章を受け入れやすくなる。

じつはこの「共望型」には、さまざまな立場の人たちに伝えやすいということ以上に、もっと重要な役割がある。話題を「いっしょに見上げている」という心理的な姿勢のおかげで、読み手から「(文章のなかで)いっしょに考えていく」という姿勢を引き出しやすくなるのだ。

案内・告知文や企画書の概要文などでは、多くの場合、「実行する理由とメリット」が語られるわけだが、それをそのまま読み手にぶつけると押しつけがましさを感じて、納得しづらくなってしまうことが少なくない。でも「共望型」は、課題をいっしょに見上げる=共有しながらのコミュニケーションだから、ロジックが押しつけにはならず、「結論までの思考の流れの確認」と受けとめられやすい。おかげで読み手は納得、共感しやすくなるのである。

書き手として、読み手が対峙する相手でいるのか、課題を共有できる仲間になるのか。どうせなら後者でありたいわけだが、そうなるための大切な手がかりのひとつが、じつはコミュニケーションの「高さ」にあるのだ。


※この記事は『文章における「納得しやすさ」のルール』という講演でお話ししている内容の一部をアレンジしたものですが、過去の講演内容から用語などを変更しています。

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