マガジンのカバー画像

甘野充のお気に入り

308
僕が気に入ったnoterさんの記事を集めます。
運営しているクリエイター

#小説

【ショートショート】彼女の王国

「やっぱりこの家が一番落ち着く」  と彼女はよく言っていた。この家には彼女の好きな椅子やテーブル、絨緞、ベッドがある。本棚には彼女の好きな作家の本がぎっしりと詰まっている。ベッドの枕元にはいつも、オオハシのぬいぐるみが彼女の帰りを待ち切れないというように、目をキラキラと光らせてちょこんと座っている。  好きな物に囲まれた彼女の王国。そこに彼女は死んで帰って来た。何度も何度も私や看護師に、家へかえりたい、ここはどこなの? と真白なベッドに横になりながら、必死な目をして訴えてい

【ピリカ文庫】『眠れない四月の夜に』

イントロ 真夜中の電話は、リオンからだった。 「前によく行ったあの映画館で例の映画がかかるみたいよ。見に行かない?」 年に数回、忘れたころにかかってくる電話。リオンと僕を繋いでいるものは、今はもうそれだけになった。 「悪いけど先約があってさ。ごめん」 いつも週末は散々暇を持て余しているくせに、予定が被る偶然を嘆く現実も時にはやってくるのだ。 次に彼女が僕に電話する気になるとしたら、たぶん半年は先になるだろう。 - K(ケイ) - BGM:中央線(矢野顕子、小田

連載小説 hGH:1

 井本は月に一度ヒト成長ホルモン薬を買っていた。ある国のアンチエイジングの診療所から。それが、うちと委託契約のある企業の裏の情報網に引っかかった。ヒト成長ホルモンは、スポーツ界では禁止薬物に指定されていて、それは日本球界でも同じだった。井本は数年前から買っていた。ふつうに考えれば、使っている期間もそれに符号するはずだった。  hGHーヒト成長ホルモンは、尿でのドーピング検査には引っかからない。井本は昨年、無作為に選ばれるNPBのドーピング検査の被験者に指名されていた。尿のみの

掌編小説 | わたしの石

 小さな船の冷たい床に寝転がり、空に浮かぶ男の人を見ていた。  わたしは船に乗せている大きな石が、片方の足を潰してしまっていることも忘れて、スーツを着ているその人を目で追っていた。彼はサラリーマンなのかな、なんてのんきに思っていた。わたしの目に映るのは、青い空、白い雲、そしてサラリーマンだった。 いつだったか、わたしはこの船に乗り込んだ。着の身着のまま、後先を考えずに、この小船に身を隠すようにして海へ出た。 小船を漕いでいくためのオールはなく、あるのはわたし

連載小説:球影#1

   一昨年の夏の終わり、ある球団からゼネラルマネージャーの就任要請を受けた。  その球団で初めてのGM制度で、旧態化した球団組織を一から立て直してほしいという依頼だった。  話をもらって了承するまでの交渉のなかで、こちらからもいくつか条件をだした。結果、名目だけではなく、決められた予算内で球団運営の全権を担う、という契約内容にいたった。  契約書をかわす際、こちらは弁護士を同席させ、球団側にはオーナーの立ち会いを求めた。日本のプロ野球界は、いまだに親会社の無用な横やりが球団

鶏小屋の夫

短編小説 ◇◇◇  夫が激しく私を求めてくる日は、決まって夫が鶏小屋に行った後のようだ。  確かめなければならない。  私は今朝産んだ卵を取りに行くふりをして、母屋の近くに建ててある鶏小屋へ向かった。私はこれまで一度も中に入ったことはなかった。鳥類独特の臭いが苦手なことと、ニワトリの予測不能な動作が怖くて、飼育はすべて夫に任せていたからだ。  私は何を確かめようとしているのか。それは夫の性欲の根源である。普段の夫は、優しく私を愛撫してくれる。この上なく柔らかな接吻を

「ドリンクバー」

「ドリンクバーで烏龍茶飲む人ってほんとに嫌い」 彼女は吐き捨てるように言う。 「烏龍茶だって立派なドリンクだよ」 我ながら頼りない声で答え、メロンソーダをひとくち飲んだ。 「じゃあどうしてこんなに腹が立つの?ドリンクバーを頼んで烏龍茶を飲む人を見ると」 彼女は真剣に怒っているようだった。 「麦茶派だからじゃない?」 「私は緑茶派よ」 彼女はアイロンで器用に巻かれた髪を執拗にかきあげる。僕には関係ない話なのだが、なんとなく申し訳なさそうに僕はメロンソーダを飲む。 僕ら

掌編小説 | わたしの青

 あるとき、目に映る世界がすべて青になった。それは、幼かった自分がはじめてつくり上げた、わたしだけの世界だった。  誰の悲しみにも触れたくなくて、水に浮かぶイメージを持ち、ゆっくりと体を丸めて青に沈んでいく。静けさと、冷えた感情だけに包まれるその世界では、目を開けても視界はぼやけている。ただ、濃淡のある青いグラデーションが目の前に広がっていた。 耳の奥でクジラが鳴く。実際には聞こえないその声は、現実ではない。現実ではない音と、現実ではない目の前の風景。だけど、その中に

黒色の町での2ヶ月

1 あなたがもしお金のない若者で、近所のスーパーの弁当コーナーで1200円の高い焼き肉弁当をうまそうだなーって見るだけ見て、いつものごとく半額157円ののり弁を買うような生活をしているとしましょう。 そこにひとりのいかにも裕福そうな老人が来て 「2ヶ月で10億円の収入を得られる仕事があるんだけどやりませんか?」 と言われたらあなたはこの局面をどう考え、どう行動しますか? こんな現実離れした想像をすることはあなたには難しいかもしれない。 ただこれは実際1年前私の身に降

【小説】目に見える祝福

人の言葉が、物質となって見えるようになった。 そんなことを言うと、頭がおかしくなったと思われるに決まっている。だから絶対に私はそれを人に言うまいと決意を固めた。生まれてこの方、意志薄弱を絵に描いたような生き方をしてきた私でも、流石に最低限の思慮分別は身に着けている。恐らくは。 他人からどうやっても理解されそうにないが、それは同時に確かに事実なのだからしょうがない。 『人の言葉が物質となって見える』。 もっと分かりやすく言えばそう、誰かが発言する度に、ぽろぽろと何かしらの

短編📕本当は、ずっと泣きたい

私は思い出していた。 すると、 「ねぇ、いつまで思い出と過ごしているの?」 と「心」が話しかけて来た。 「え?」と何かを探すように周りを見た私は 自分の脈が早くなっているのか分かった。 「もうすぐだね、泣きながらアパートに一人帰った記念日。ドラマのように」 心が自分に話かけている事に気付いた。 「うん、覚えているよ」と自分の心に呟いた。 「あの日はきっと、一生忘れたくないし、忘れられないかな」すると、 「ずっとずっと、治らない傷があるんだけど。治す気はないの?ずっと傷跡をつけ

タクシー(掌編)

「あっ、これ、困るなあ! まるっきり逆なんじゃあないの?」 「ええっ。だってお客さん、鏑木町へってさっき」 「違う違う! おれが言ったのは葛城町! かつらぎ!」 「そんな、私何度も確認したじゃあないですか」 「聞き間違えたあんたが悪い! ここまでの分の料金は払わないからな!」 「勘弁してくださいよ、お客さん、それは困りますよ」  男はどん、と運転席の背中を蹴り、 「おれを誰だと思っていやがる! お前なんて、ウチの会社が本気出せば、こうだぞ!」  どん、どんと更に二回。それから

短編小説 | 枯れ枝と椿

 ミニストップに集まってはハロハロを食べた。そんな10代を過ごしていた。  遅く目覚めた朝に、白い遮光遮熱のカーテンが眩しいくらいに光っている日は、なぜだか気持ちの奥の方がじゅわっとする。  家にいてはいけない、そんな気がする。だから電車に乗って、車内の暖房と、窓からの日差しにあたためられながら、どこへ向かうともなく、どこかへ行こうと思った。  もしも電車で、自分の右隣に座る人を、自由に選べるとしたら、ダウンジャケットを着た男の人がいい。  黙ってスマートフォンを操作する

【ショートショート】むかしは警察という仕事があったそうです (1,163文字)

「むかしは警察という仕事があったそうです。警察は公務員で、大きな町には警察署と呼ばれる施設があり、駅前や住宅街に交番という小さな小屋が設置され、制服を着た人たちが待機していたとインターネットに書いてありました。 「悪い人を捕まえたり、異変がないかパトロールしたり、落とし物を預かったり、みんなが交通ルールを守っているか監視したり、日常の平和を守るため、命懸けで働き、人々から尊敬されていたみたいです。 「その後、車の自動運転が普及した際、すべての自動車に全方位カメラが設置され