五輪開会式での森山未來のパフォーマンスについて

五輪開会式での森山未來のパフォーマンスについて、森山の直前の出演作である岡田利規作・演出『未練の幽霊と怪物―「挫波(ザハ)」「敦賀」―』を見た者の一人として、記録を残しておきたい気持ちになったので、いくつか重要と思われるリンクをここにまとめておく。

(1)まず、今回の五輪開会式でのパフォーマンスについて、藤田直哉がハフィントンポストに書いた詳細なテキスト。仏教と能、そして『未練の幽霊と怪物―「挫波」「敦賀」―』の文脈から、パフォーマンスが論じられている。

(2)『未練の幽霊と怪物―「挫波」「敦賀」―』について、チェルフィッチュのサイトから。

(3)私が『未練の幽霊と怪物―「挫波」「敦賀」―』を見たのは、KAAT神奈川芸術劇場だった。こちらのKAATのサイトのほうが、上記チェルフィッチュのサイトより作品について詳しい。

森山の開会式でパフォーマンスについては、当日の夜、ツイッターで話題になっていたので、私も翌日、NHKのサイトで動画を見たのだけれど、蹲っていた森山が2回、倒れたあとにゆっくり背中側から立ち上がった時、思わず目を瞠った。『未練の幽霊と怪物―「挫波」「敦賀」―』でザハ・ハディドを演じた森山が、後シテ(夢幻能では、いったん引っ込んだシテが、後シテとなって再び舞台に現われ、鬼やこの世に思いが残った霊としてその本性を顕わし、舞い踊る)として舞台に現われた時と、佇まいがそっくりと言いたいくらいよく似ていたから。

(4)NHKのサイトから開会式。森山のパフォーマンスは29:45くらいから。

あの場面の冒頭で会場の英語放送は、"Let us all take a moment to remember all those friends and loved ones who are no longer with us"と言っていた。"those who are no longer with us"は、通常、亡くなった人を指すけれど、森山のパフォーマンスにおいては、むしろ文字通り、さまざまな事由でいまここに私たちとともにいない人を指しているのだと思った。ザハをはじめとする去っていったクリエーターたちはもちろんのこと、新国立競技場の建設のため立ち退きにあった地元の人々、その建設現場で無理な工期を押しつけられ、過労自死したあの若い方、復興五輪の名の下に召喚されながら東京一極集中のなかで取り残されてきた東日本大震災をはじめとするさまざまな災害の被災地、「アンダーコントロール」という虚偽の大見得の裏で実際には廃炉も汚染物質の処理も先行き不透明な原発、どんなに感染拡大の危険を訴えてもその声が聞き届けられず、いままさに医療崩壊の危機に面している医療現場、さらには、競技場建設のために伐採された木々や、無観客による余剰のため大量に捨てられた弁当、そして、過去から現在に至るまで勝利のプレッシャーのもと命や健康を失った多くのアスリートたち――。五輪という巨大な機構に巻き込まれ、切り捨てられ、踏み躙られ、傷を負ったものたちすべてに、森山のパフォーマンスは捧げられていた(傷を負ったと言えば、コロナ禍での五輪開催に反対もしくは疑問の声を上げながら、「安心安全」のお題目が木霊のように返ってくるだけで無視され続けた、多くのこの地に住む人々も含まれるかもしれない。さらには、さまざまな理由から五輪に期待し、その期待が叶わなかった者たちも)。

藤田がテキスト中で言及している東大寺の修二会(しゅにえ)のドキュメンタリーは、おそらくこの春にNHKで放送された「闇と炎の秘儀 お水取り 〜奈良・東大寺修二会〜」なのではないかと推測する(違っていたら申し訳ない)が、下記番組サイトの「3分半エッセンス動画」に五体投地も出てくる。

(5)「闇と炎の秘儀 お水取り 〜奈良・東大寺修二会〜」の番組サイトから、動画ページ。五体投地は、「3分半エッセンス動画」の01:20くらいから。

飛び上がって膝と腕を打ち蹲る森山のパフォーマンスは、まさにこの五体投地を彷彿とさせるものだった。最早この世にいない者たちを思い、黙祷を捧げるという明示的に示された文脈から、宗教実践として五体投地が根づいている文化圏の開会式視聴者には、あれが五体投地であることは直感的に伝わったのではないだろうか。さらに、森山が身体を打ちつけるたびに立ち上る土煙のようなものは、藤田が言う通り難民などの倒れながら路上を行く者を連想させるものだった。能や『未練の幽霊と怪物―「挫波」「敦賀」―』といった深く秘匿された文脈(秘匿されていなければ、新国立競技場のど真ん中に、しかも開会式の真っ最中に、ザハの幽霊を顕現させることなどとてもできなかっただろう)を知らなくても、それぞれの文化背景や経験から、森山の舞に込められた鎮魂の祈りが死者たちだけでなく生者たちの苦難へも向けられていることを、こうした言語的理解を経ずとも感受した人は実は結構いたのではないだろうか。

上記(3)のリンクにある岡田利規の言葉は、今回のパフォーマンスにもそのまま当てはまるように思われる。

社会とその歴史は、その犠牲者としての未練の幽霊と怪物を、
ひっきりなしに生み出して来て、今だって生み出し続けています。
わたしたちはそれら幽霊や怪物のことを見ないこと忘れてしまうことを、
その気になればできちゃうし、そのほうが快適な向きは確かにある。
でもそれらに、つまり直視しないこと忘却することに、抗うために、
能という演劇形式が持つ構造を借りて、音楽劇を上演します。 

森山は、オリンピックをそのわかりやすい見本として、社会と歴史がひっきりなしに生み出している犠牲者としての未練の幽霊と怪物を、熱狂的な歓声を欠きながらもなおメディアを通して誇大に演出されるお祭り騒ぎのなかで直視しないこと忘却することに抗うために、能という演劇形式が持つ構造を借りて、後シテを劇場から競技場へと転生させたのだ。

開会式の夜に更新された森山のインスタグラムの「連綿と続く繋がりの最中、全ての想いを胸に私は立っていました」という言葉は、心に沁みるものだった。

(6)森山未來のインスタグラムから、開会式夜の投稿。

上記に書かれている通り、今回のパフォーマンスの音楽は原摩利彦、振付は大宮大奨だったという。さらに下記FASHONSNAPの記事によれば、衣装はスズキタカユキが手掛けた。

(7)FASHONSNAP.COMの記事。


最後に、今回のパフォーマンスのコンテクストをより深く理解するために重要と思われる、本年3月11日に実施された森山のプロジェクトに触れておきたい。東日本大震災から10年、WHOによるパンデミックの宣言から1年という節目の日に京都の清水寺で行なわれた「Re: Incarnation」という奉納舞踊で、わずか20名ほどの観客とともに境内の9か所を回りながら、舞われたのだという。私は下記の唐津絵理のテキストで知り、そこに紹介されていたNHK WORLDの映像を見て、可能なことなら実際にこの目で見たかったと思った。まだ肌寒い3月に深山の暗闇に身を置いて、九相図に想を得た奉納の舞をわずかな人々と目撃するのは、どれほど心身ともに揺さぶられる経験だっただろう。リサーチの過程も含めてドキュメンタリーとして映像が残されて、それを無料で見られるのはとてもありがたいことなので、ここまで読んでくださった方にはぜひ下記(9)を見ることをお薦めしたい。「Re: Incarnation」から『未練の幽霊と怪物―「挫波」「敦賀」―』、今回の開会式のパフォーマンスまで、深く深くつながっている。

(8)「Re: Incarnation」についての唐津絵理のテキスト(日本語版)。

(9)NHK WORLDのサイトから"Mirai Moriyama / Re: Incarnation"(50分、2021年11月23日まで視聴可能)。



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