祖父と夢見た東京
先日、母方の祖父が亡くなった。
突然のことで、今でも実感が湧かずにいる。また家を訪ねれば、私が来たことを喜び、面白い話を聞かせてくれる。そんな気がしてならない。
私は父方の祖父の死にあたって、取り返しのつかない大きな後悔をした過去がある。その教訓があったので、母方の祖父母には頻繁に会いに行くように心がけていた。
先日の敬老の日には、いつものようにお菓子を持って家を訪ねると、祖母が出てきた。まだ十九時頃だったのだが、祖父の部屋は暗くなっている。「おじいさんはもう寝ているから、明日渡しておくね」と祖母に言われ、祖父の顔を見ることができなかった。
帰りの車の中、「みつるか? よく会いに来てくれたな」という祖父の決まり文句と笑顔を反芻していた。何か不思議なことに、ここで顔を見ないともう見られないような気がしてならなかったのである。
それからおよそ一カ月半後の十一月一日の夜。母から、祖父の訃報が届いた。
病気などで床に伏していたわけではない。あまりに突然のことであった。が、私は不思議と、悲しみや寂しさという感情はあまり湧かなかった。祖父にいつ何が起こるかわからない、つまりは、常に死を覚悟していたのだ。
父方の祖父のときとは違う。何かがあってもなくても、よく会いに行って話をした。感謝の気持ちを伝えてきた。子どもの顔も見せることができた。私ができることはこれ以上なかったはずだ。……これ以上なかった? 本当にそうなのだろうか。自分にそう言い聞かせて、表面化していない感情を誤魔化しているだけなのではないか。段々とそんな気がしてならなくなってきた。
たとえば、祖父が足の骨を折ったとき、お見舞いや退院祝いに駆け付けたかったが、仕事や家事育児を理由にして会いに行かなかったことがある。他にも、妻が祖父の家のにおいを好まないことを知っていたため、連れて行くことを躊躇われ、何度も訪問を辞めてしまったことがあったではないか。
祖父に愛情と感謝の気持ちを全身全霊で伝えることができたとは、とても言い切れない。
そんなことはできるはずがない、それは当たり前だろう。だが、どうしても渡しきれなかった想いが心のあちこちにこびりついて残っている。その部分が叫びをあげているのだ。
諸事情があり、親族で火葬のみ行うことになった。最期にお別れをする前にできることはないか。この機会を逃したら、再び一生の後悔をしてしまうに違いない。だから、必死に今できることを考えた。
手紙を書こうかとも思ったが、どうしても止め処もなく言葉が溢れてしまう。そこで、追悼句を作り、短冊を棺に入れることにした。
祖父は若いとき、俳優になるという夢を持っていた。チャンスを掴むためには東京に行かなければいけない時代である。しかし、経済的な理由から、東京に行くことができずに諦めるしかなかった。その代わりに、祖父は仕事の傍ら、地元でイベントの司会をやったり、自らイベントに出演して腹話術をやったりと、人を楽しませる活動を精力的に取り組んだ。
そんな経験があるからこそ、私がミュージシャンになるために東京に行きたいと言ったとき、家族全員が反対する中、ただ一人、祖父は私の夢を理解してくれた。
「みつるはおじいちゃんに似たんだな。じいちゃんが叶えられなかった夢を頑張って叶えるんだぞ」
と背中を押してくれた。
私自身もこの道の選択は、祖父から受け継いだものであり、祖父がやり遂げられなかった夢を私が叶えるのだと、使命感を抱いていた。困難にぶち当たったときは必ず、祖父の存在や言葉を思い浮かべた。夢を実現して、祖父が喜ぶ姿を見たかったのだ。
東京から帰ってきたとき、祖父は笑顔だった。
「難しい世界だからな。しょうがねぇだよ。じいちゃんも経験してるからわかる。実力だけではどうにもならないしな。でもな、これからも好きなことは続けろよ。じいちゃん、応援してるからよ」
祖父の言葉には、この挫折を味わったものだからこそ滲み出る重みを感じた。
私の夢は祖父と二人で追いかけたような感覚がある。祖父と私の東京の夢。
火葬の時間、待合室で親戚の叔父が私に話しかけてきた。
「君だよね? 東京で芸能の道に行こうとしていたのは。Hちゃん(私の祖父)が何度も言ってたよ。帰ってきてよかったって。Hちゃんも俳優目指してたから、気持ちがわかるみたい」
そんな会話している中、祖父と一緒に焼けている短冊。
きっと届いていると信じている。
これからも一緒に楽しく夢を見ていこうよ。おじいちゃん。
行く秋の祖父と夢見し東京よ
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