見出し画像

大したことない私を重ねる

友人と文学フリマへ行った。

何度行ってもイベント会場は胸が高まる。プロ、アマチュアが入り混じり、作品が所狭しと軒を連ねている。各ブースからは作品への熱気が溢れてくる。コンプラギリギリで自分の欲求丸出しのブースもあるのが、また味わい深いなあと思う。

先日、デザインフェスタへ行ったとき全身タイツのブースへと立ち寄った。「手袋付けて見ませんか?」と言われ、戸惑いながらもつけてみることにした。着け心地は見た目通りツルツルしていて、いつまでも触っていられそうだった。

「握手しませんか?」と全身タイツの女性が私の手を取った。すると今まで味わったことのない感覚が私を襲った。タイツ同士が擦れて、自分がまるで違う生き物になったように思えたのだ。私に触れている彼女の手と私との境目がどんどん曖昧になっていく。これはある種の快楽だと直感した。

一緒に来ていた友人に促され、私は我に返った。すぐにその場を後にしたが、あのままだと新たな扉を開いていたことだろう。

渡る世間は沼ばかりである。

それ以後、すっかりイベント会場の雰囲気に味を占めた私は流通センターへと足を運んだのだった。

文学フリマというだけあって、入った瞬間に紙や染み込んだインク、木の香りを感じる。回ってみると様々なジャンルの本が並んでおり、制作している年齢層もバラバラ。文学を愛する人たちの愛に溢た作品はどれもこだわりがあってひたすらに高揚した。

今やネットでも文章を発信でいる時代において、印刷所を使ってわざわざ冊子にするという労力には思わず感服してしまう。

私は『フルーツ便り』と『あたらしいドレッシング』という二冊を購入した。どちらもセンスが光っていて私はクラクラした。まず表紙に射抜かれたのは言うまでもない。

素敵なクリエイターを見ていると、時々どうしようもないほどに苦しくなる。私はカツセマサヒコさんがTwitterで呟いていた言葉を思い出した。

「良い作品を見ていると、自分も何か作り出したくなる。それはだれしも起こり得る感情ではないと知って、やはり自分はクリエイターになりたいのだと思う。」

たしかこのような内容だった。記憶の片隅から引っ張り出したので詳細を知りたい方はカツセさんのTwitterを辿ってみてほしい。

私はこれを読んだとき、ああ、それだ!と思った。

私も何かを生み出したくてモヤモヤするのだ。自己満足ではない、誰かの心を動かすことができる作品を生み出すことができる。それはどれほど素晴らしいことか。

自分の中のモヤモヤを文字に起こしたい。どうしようもない感情を文章で表現がしたい。才能もなければ、努力をしてきたわけでもない。それでもやりたいと思っている。その思いだけがここにあるのがたしかだ。

昔から妄想だけは好きだった。独り言のように自分で台本を作っては役になり切っていた。それは幼少期から溢れては行き場を失くした私の感情を救うための物語だった。それを誰かに見てほしいというのはおかしな話なのだろうか。

日常は今日も明日も大したことなく進んでいく。私は今日も大したこと文章を書いていく。まとまらなくて、投げ出したくて、全部消去したくて仕方がなくなる。それでも残していく。書き続けていく。その大したことないを積みあげた先にしか未来はないのだ。自由な表現が集まる巨大な箱の中でそんな風に思った。

私は今日も大したことのない日々を重ねる。

この記事が参加している募集

スキしてみて

文学フリマ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?