温故知新(20)継体天皇(丹生麿) 伊須流岐比古神社 大虫神社 若狭彦神社 白山比咩神社 今城塚古墳 安閑天皇 河内大塚山古墳 宣化天皇 鳥屋ミサンザイ古墳 丹生氏 息長氏 物部氏
『古事記』、『日本書紀』は、ともに第26代継体天皇(在位:507年-531年)を応神天皇の5世の子孫と記しています。『釈日本紀』の引用する「上宮記一云」という史料によると、応神ー若野毛二俣王ー意富富杼王ー乎非王ー汙斯王(彦主人王)ー継体、という系譜になります。丹生氏系図にある「大樹」(品陀真若王と推定)の子の「伊集岐」は、応神天皇の后の仲姫命と推定され、伊集岐ー長日―椋垣―田迷―峯主―丹生麿、と続きます。「伊集岐」を「いしゅうぎ」と読むと、石川県鹿島郡中能登町の石動山山頂(大御前)にある伊須流岐比古神社(いするぎひこじんじゃ)と関連すると推定されます。伊須流岐比古神社と「竺紫の日向の高千穂」と推定される摩耶山を結ぶラインの近くには、大虫神社(福井県越前市)、若狭一宮 若狭彦神社(福井県小浜市)があります(図1)。
大虫神社は、天津日高彦火火出見命を祭神とし、延喜式神名帳には「越前国丹生郡 大虫神社」と記載され、越前国で2社だけの名神大社に列しています。越前市大虫本町には古代寺院「大虫廃寺」の跡があり、この地域を支配したとされる古代豪族「丹生氏」の寺ではないかといわれ、継体天皇が越国で青年期を過ごしたとされる5世紀終わり以降は、この地域で前方後円墳が確認されていないといわれています。
若狭一宮 若狭彦神社(福井県小浜市)があり、若狭彦神社(上社)で彦火火出見尊(山幸彦)を祀り、若狭姫神社で豊玉姫命を若狭姫神として祀っていますが、若狭彦神社は、別称として郡名から「遠敷明神(おにゅうみょうじん)」とも呼ばれています。若狭国の遠敷郡には、丹生郷や丹生神社がみられ1)、一説によると遠敷という地名は元は「小丹生」ではないかと言われ、遠敷にある洞窟からは辰砂が発見されています。「日本三代実録」には若狭国遠敷郡 丹生弘吉の名があるようです1)。
伊須流岐比古神社は、諏訪大社(下社秋宮)とシチリア島のシラクサを結ぶラインの近くにあります(図2)。下社の神主家は、阿蘇大宮司の阿蘇氏と祖を同じくし、科野国造家から分かれたと伝えられています。宇治氏、伊福部氏も同族と考えられます。ラインの近くには、諏訪大社 (下社春宮)、赤牛岳(富山県富山市)、大境洞窟住居跡(富山県氷見市)、高瀬宮(祭祀遺跡高瀬宮)(石川県羽咋郡志賀町)があります(図2)。諏訪大社(下社秋宮)とシラクサを結ぶラインは、氣比神宮と彌彦神社を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。
「石動山」は古くは「いするぎやま」と呼ばれ、「いするぎ」は隕石に由来するようです。エフェソスには、紀元前7000年紀までさかのぼる遺跡が含まれますが、エフェソス人は、アルテミス神殿で、「天から降ってきた御神体」を拝んでいたとされます。また、デルポイ(デルフィ)のアポロン神殿にも、天空神クロノスから来たと信じられ、あがめられた石があったようです2)。ツタンカーメンの鉄剣は、隕鉄で作られていたようですが、富山県では、1890年に隕鉄が発見され、流星刀が作られています。記紀にある「布留御魂」の「ふる」とは隕石のことで、隕鉄を精錬した剣という説があります。
伊須流岐比古神社では、伊須流岐比古神(石動彦)と白山比咩神(しらやまひめのかみ)が祀られています。石川、福井、岐阜の3県にまたがる白山は、古くから霊山信仰の聖地で、石川県白山市には白山本宮加賀一ノ宮の白山比咩神社があります。伊須流岐比古神は、かつての本地仏が虚空蔵菩薩(三昧耶形は宝剣)なので加具土命(月読命)と推定されます。仲姫命を「伊集岐」としたのは、仲姫命を品陀真若王と応神天皇を結び付けた菊理媛神とみなしたためかもしれません。
大虫神社は、白山比咩神社と天王山古墳群を結ぶラインの近くにあることから(図3)、丹生氏と菊理媛神(白山比咩神)や、瓊瓊杵尊(饒速日尊)、丹生津姫命との血縁関係を示していると推定されます。丹生廣良氏は、「越前国丹生郡正税帳」にある「丹生直伊豆智」は、紀州の丹生氏の「丹生祝氏本系帳」に見える「丹生祝伊賀豆」と同人と考えられ、越前の丹生は紀伊の丹生氏が開発したものと考えられると記しています1)。
『日本書紀』によれば、継体天皇は450年頃に近江国で誕生し、幼い時に父の彦主人王を亡くしたため、母・振媛が、故郷である越前国に連れ帰り、「男大迹王」として越前地方を統治していたようです。福井県坂井市丸岡町高田に高向神社(図4)があり、高田は「高向の宮跡」と呼ばれる史跡で、継体天皇の母・振媛命が、継体天皇を育てた宮の跡とされています。母の故郷である高向(福井県坂井市)から古代北陸道を南に向かった越前国中西部に現在より広い「丹生郡」がありました。
越前市池泉町(越前国今立郡)にある味真野神社(あじまのじんじゃ)(図4)は、継体天皇の宮居の跡と伝わり、『日本紀略』によると今立郡は元は丹生郡だったようです。越前国敦賀郡(角鹿郡)六郷の1つに、伊部郷(いべごう、いべのさと)があり、伊部郷(丹生郡越前町織田)の劔神社では、仲哀天皇の忍熊皇子が「劔御子神」の神名で祀られています(図4)。これは祟る性質を持つ「敗者の霊」として祭神の忍熊皇子が重要視されたためとする説があります。劔神社の歴代の神官は、天太玉命(比古麻命 伊弉諾命 孝安天皇)を祖とする忌部氏です。五十狭茅宿禰(上海上国造の一人)は、『古事記』では、上海上国造の祖を天穂日命の子の建比良鳥命とし、『日本書紀』では、神功皇后の命令で稚日女尊を活田長狭国に祀ったとされ、『先代旧事本紀』では胸刺国造の祖としているので、五十狭茅宿禰が、忍熊皇子と行動を共にしたというのは、史実ではないと思われます。
瀧原宮とレイラインでつながっているイタリアのブリンディジと仁徳天皇の宮があったと推定される岐阜県本巣郡北方町若宮の若宮八幡神社を結ぶラインの近くに、劔神社や大虫神社があります(図4)。これは、丹生氏と仁徳天皇の妃の黒媛との血縁関係を示していると推定されます。
また、大虫神社と建部大社を結ぶラインの近くに氣比神宮があり(図5)、丹生氏と加具土命や倭建命(孝元天皇、成務天皇)との血縁関係を示していると推定されます。
神功皇后の父は、息長宿禰王(おきながのすくねのみこ 気長宿禰王)とされ、息長氏は近江国を本拠としていました。息長宿禰王に関連する地域が、山城国の筒城(筒木)地方(京都府京田辺市)で、継体天皇の「筒城宮(つつきのみや)」がおかれた地です3)。筒城(筒木)は、仁徳天皇の后で、葛城襲津彦の娘の磐之媛命(いわのひめのみこと)が生涯暮らした地とされています。磐之媛命が黒媛とすると、葛城襲津彦は品陀真若王ということになり、息長氏や継体天皇と繋がります。また、金田屋野姫命が神功皇后と推定されるので、息長宿禰王は建稲種命で、息長氏は尾張氏と推定されます。尾張氏の伊福部氏は、『新撰姓氏録』では「山城国神別」で、「伊福」は「息吹」を表すと考えられるので「息長」に繋がります。真弓常忠氏は、伊福部氏本来の職掌は、「息吹」すなわち、吹子によるタタラ炉の操作で、製鉄技術集団を部民として管掌する氏族だったとしています4)。
京田辺市天王高ケ峰に息長氏所縁の朱智神社があり、京田辺市普賢寺にある大御堂観音寺には、十一面観音立像(国宝)が安置されています(写真1)。白山比咩神の本地仏も十一面観音で三昧耶形(さんまやぎょう/さまやぎょう)は水瓶です。十一面観音の大きな特徴の一つは、左手に水瓶を持っていることなので、左手に水瓶を持った古代ギリシャのアフロディーテ像と関係があると思われます。
大御堂観音寺と瀧神社(三重県熊野市)を結ぶライン上に、箸墓古墳と倭文神社(奈良市西九条町)があります(図6)。これは、息長氏と豊玉姫命との関係を示していると推定され、大御堂観音寺の十一面観音立像は、豊玉姫命を表し、白山比咩神(菊理媛神 十一面観音)は豊玉姫命と推定されます。
瀧神社の祭神は、天照皇大神、保食神、大歳神となっていますが、大歳神が祀られているので、天照大神は、母である倭国香媛(神大市比売 大日孁貴)と推定されます。また、倭文神社(奈良市西九条町)の祭神は、中臣時風・秀行が常陸国より勧請した武羽槌雄神(織部の神)とされていますが、倭文神(豊玉姫命)が祀られていると推定されます。
『播磨国風土記逸文』に、息長帯姫(神功皇后)が朝鮮半島への出兵の前にニホツ姫(丹生津姫)から神託を得たという話が載っていることなどから5)、息長氏は、丹と関係があったと考えられます。『新撰姓氏録』に「息長丹生真人」が記載され、「息長真人」と同祖で、出自は応神天皇で稚渟毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ 応神天皇の第五皇子 継体天皇の高祖父)の後裔とされています。したがって、男大迹王は、息長氏と同族で、丹の交易を行っていた可能性が考えられます。杙俣長日子王の娘が息長真若中比売(仲姫命と推定)とされていますが、丹生氏の系図によると、「伊集岐」の子が「長日」なので、仲姫命の子が杙俣長日子王で、稚渟毛二俣王と同一人物と推定されます。共通する「俣(また)」は、兄弟の仁徳天皇と系統が分かれたという意味かもしれません。「長日」の子の「椋垣(くらかき)」は、摂津国能勢郡倉垣村と関係がありそうです。
倉垣(大阪府豊能郡能勢町)は、唐古・鍵遺跡とモロッコのマラケシュを結ぶラインの近くにあります(図7)。このラインは、奈良県生駒市の往馬大社(往馬坐伊古麻都比古神社)、國中神社(大阪府四條畷市)、観音寺(京都府福知山市)、室尾谷山観音寺(福知山市)、十二社大権現神社(福知山市)、遍照寺(京都府京丹後市)の近くを通ります(図7)。
大御堂観音寺(普賢寺)と生國魂神社(大阪市天王寺区)を結ぶラインは、朱智神社や八王子神社(東成区)の近くを通り、唐古・鍵遺跡とマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図8)。
「椋垣」の子の「田迷」も地名とすると、福井県三方上中郡若狭町(図9)の「田名(たな)」と関係があると推定され、息長氏(丹生氏)が、近畿地方から北陸地方へ移動したことを示していると思われます。「田迷」の子の「峯主」は、丹生氏の居た埼玉県飯能市に多峯主山(とうのすやま)があるので、山に関係があると推定され、伊須流岐比古神社のある石動山(いするぎやま)と関係がありそうです。倉垣(大阪府)と石動山を結ぶラインの近くに若狭町、大虫神社、高向神社が位置しています(図9)。
継体天皇の父の汙斯王(うしのおおきみ)(彦主人王(ひこうしのおおきみ))が「峯主」とすると、「彦」は「伊須流岐比古」を表しているのかもしれません。彦主人王の母は、牟義都国造(むげつのくにのみやつこ)伊自牟良君の女の久留比弥命で、美濃国伊自良(みのこくいじら 現山県市旧伊自良村)を本拠とする説があり、黒媛と関係があるかもしれません。若宮八幡神社(本巣郡北方町若宮)から10kmほどの所にある山県市伊自良町伊自良中学校の裏山に、6世紀後半~7世紀前半に作られた大門(だいもん)古墳群があり、これらと、若宮八幡宮(本巣郡北方町)と能褒野神社は直線上にあります(図10)。能褒野神社は、仁徳天皇や黒媛と関係付けられていると推定されることから、能褒野神社に祀られている倭建命は、品陀真若王と推定されます。
「御野国肩県郡肩々里(かたがたぐんかたがたり)戸籍」には国造大庭と虫奈・小万の親子が見え、御野国(美濃国)肩骨(?)郡の「省々里大宝二年戸籍」には、丹生人部、丹乃井売の名があるようです1)。
武烈天皇が後嗣を残さず崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議し、はじめは、仲哀天皇5世孫の倭彦王を迎えることを試みて失敗しています。その後、応神天皇の后である仲姫命(伊集岐)の5代後の「丹生麿」を継体天皇として擁立したと推定されます。
継体天皇は、『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記されます。「迹」は、「倭迹迹日百襲姫」と同じく、垂迹(すいじゃく)に由来すると思われます。「上宮記一伝」によれば、継体天皇の曾祖父は、意富臣と関係があると推定される意富富杼王(おおほどのおう)なので、継体天皇(男大迹王)も多氏と考えられます。多氏の尾張氏は、しばしば后妃を出した氏族で、遠祖である奥津余曾の妹、余曾多本毘売命(世襲足媛)は第5代孝昭天皇の皇后となり、子は第6代孝安天皇となっています。
継体天皇は、春日和珥堂女君の孫の手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とし、尾張目子媛を妃としています。宝賀寿男氏は、部曲(かきべ)の和珥部の分布は、大和から北方の山城、近江、若狭、越前、加賀と日本海沿岸地域に伸びる線が濃厚で、また美濃、尾張、丹波、出雲、播磨、備中などの方面にも分布すると記しています6)。
手白香皇女の真陵は、オオヤマト古墳群内の西山塚古墳に比定する説が有力とされ7)、前方部を北方に向けていますが、北方には和珥部の分布する若狭があります。継体天皇は、多氏(国津神系)であったため、天津神系の手白香皇女を后としたと推定されます。継体天皇の後を継いだ安閑・宣化天皇は、母が尾張連草香の娘目子媛(めのこひめ)で多氏であったため、手白香皇女の姉妹と婚姻関係を結んだと考えられます。
継体天皇は、507年に「樟葉宮(くすはのみや)」(大阪府枚方市)で即位し、511年(継体5年)に「筒城宮」(京田辺市)に遷都し、その後、518年(継体12年)に「弟国宮(おとくにのみや)」へ遷都しています。「樟葉宮」のあった「河内国」には、物部氏の勢力があり、大阪府藤井寺市惣社にある志貴県主神社(しきあがたぬしじんじゃ)の主祭神は多氏の祖の神八井耳命(かんやいみみのみこと)で、配祀神が伊勢大神(天照大神)、春日大神(天児屋命・比咩大神・武甕槌命・経津主命)、住吉三柱神、神功皇后とされています。西山塚古墳(北緯34度34分)は、志貴県主神社(北緯34度34分)と同緯度にあり(図11)、手白香皇女と多氏の関係を示していると推定されます。白石氏は、著書に「古墳というものが被葬者の系譜を可視的に表現する機能を持っていた」と記しています8)。
「弟国宮」は、長岡京市北部と考えられています。律令制以前の丹波国は、現在の京都府の中部と北部、兵庫県の北部と中部の東辺に加え、大阪府の一部にも及んでいたことから、継体天皇は丹波国を勢力範囲としていたと推定されます。継体天皇擁立の影の功労者として、河内馬飼首荒籠(かわちうまかいのおびとあらこ)が知られています。荒籠は、6世紀初頭に楠葉地方(現在の大阪府四條畷市)に住む馬飼を生業とする渡来系部族の首長で、男大迹王は、馬の飼育や交易も行っていたのかもしれません。顕宗天皇や仁賢天皇が、即位前に、丹波国や播磨国に逃れ、長い間牛馬の飼育に携わっていたとされることとも関係があると推定されます。
中谷正人氏によると、『古事記』のなかで、オケ(後の仁賢天皇)とヲケ(後の顕宗天皇)兄弟が播磨国で発見される部分で、ヲケが詠む歌の中で兄弟の祖父である履中天皇の形容詞に「物部」を使っていて、これは「物部氏の一族の天皇」ということを意味するとしています。
継体天皇は、即位前から、百済の武寧王と密接な同盟関係が結ばれていたという説があります9)。大伴氏は、摂津国住吉郡(現在の大阪府堺市)を本拠地としていました。平安時代末期には、隣接する百済郡が住吉郡に編入されています。大伴金村が、物部系の継体天皇を擁立したのは、男大迹王が百済の武寧王と同盟関係にあったためと推定されます。継体天皇は、526年(継体20年)にようやく大和に入って磐余玉穂宮(奈良県桜井市西部)を営んでいます。大伴金村は、512年(継体6年)には、百済から任那4県の割譲要求があり、これを承諾しましたが、540年(欽明元年)に物部尾輿(おこし)らから弾劾を受け失脚しています。金村の子とみられる嚙(くい)は、587年(用明2年)の丁未の乱では物部征討の軍に加わっています10)。
石見国には、物部氏の祖である宇摩志麻遅命(孝元天皇 倭建命と推定)を祀る石見国一宮 物部神社がありますが(図12)、513年に継体天皇の勅命により社殿が創建されたようです。社伝によると宇摩志麻遅命は、尾張・美濃・越国を平定した後、新潟県の弥彦神社に鎮座し、さらに播磨・丹波を経て石見国に入り、安の国(安濃郡名の起源)と名づけたとされます。丹波市にある石見神社は、鳥取県日野郡日南町にある大国主命の復活の地とされる大石見神社(おおいわみじんじゃ)や石見神社や石見銀山とほぼ同緯度にあります(図12)。文献史料によると、石見銀山は1527年に発見され、14世紀初め頃に地表に露出した自然銀を採掘したとの伝承もありますが、明確ではないとされています。継体天皇(丹生麿)は、物部氏と同族と推定され、石見銀山とも関係があると推定されます。景行天皇が着船した豊後国海部郡には丹生郷や、木浦鉱山があったことからも、継体天皇は、石見銀山から産出する銀で百済と交易を行っていたのかもしれません。大麻比古神社とパレルモを結ぶラインは、大石見神社や石見神社(日南町)の近くを通ります(図12)。
オルテリウスが1570年に出版した世界地図帳『世界の舞台』に所収された『韃靼図』(タルタリア図)では、日本はアジア大陸と北アメリカ大陸のほぼ中間に東西に長い島として描かれ、本州中央上部右寄りにMinas de plataすなわち「銀の島」と表記され、石見銀山と考えられています。石見銀山の発見は1527年とされ、この地図は、1561年頃に作成された地図に描かれた日本を参考にしたと考えられています。
『日本書紀』によると、527年(継体21年)に新羅に攻略されていた南加羅 (みなみから)と㖨己呑 (とくことん)を再興するため出兵しようとした近江毛野(おうみ の けな)率いる大和朝廷軍の進軍を、新羅と組んだ筑紫君磐井がはばみ、翌528年に物部麁鹿火(もののべ の あらかい)によって鎮圧された磐井の乱(いわいのらん)が起こっています。最初に石見銀山の支配権を握った周防大内氏は、百済の聖王(聖明王)の第3王子である琳聖太子の後裔と称していることから、百済と新羅の間で、石見銀山の利権争いがあったのかもしれません。近江毛野は、和珥氏の同族である淡海国造(近江国造)族とする説があります。第5代孝昭天皇皇子の天足彦国押人命(天押帯日子命)を祖とする近江の和邇氏同族諸氏には、都怒山臣・小野臣・近淡海国造(近江国造)があり、継体擁立に深く関わったとされています。
丹生氏系図によると「丹生麿」は、670年(天智9年)に大丹生直(おおにうのあたい)姓を賜ったようなので、天智天皇と丹生麿は繋がりがあると推定されます。継体天皇の墓と推定される今城塚古墳は、丹生川上神社 中社とマラケシュを結ぶラインの近くにあり、このラインは元伊勢外宮 豊受大神社の近くを通ります(図13)。これは、継体天皇と丹生氏や豊受姫命との関係を示していると推定されます。
今城塚古墳では、築山古墳や造山古墳と同様に、石棺に使われた阿蘇ピンク石(馬門石(まかどいし)、熊本県宇土市網津町の馬門地区で産出する阿蘇溶結凝灰岩)が見つかっていることから、継体天皇は、神八井耳命を祖とする阿蘇国造と関係があると推定されます。馬門石石切り場跡は、宇城市不知火町高良にある高良八幡宮とアレクサンドリアを結ぶラインの近くにあり(図14)。近くには、大歳神、石作神、豊玉姫を祀る大歳神社(宇土市網津町馬門)があります(図14)。高良八幡宮には、應神天皇、天児屋根命、住吉三神が祀られていますが、元は天児屋根命ではなく高良玉垂命(豊玉姫命)が祀られていたと推定されます。
安閑天皇の同母弟の宣化天皇の陵墓は、大和国高市郡にあったとされ、宮内庁は、橿原市の鳥屋ミサンザイ古墳を比定しています。鳥屋ミサンザイ古墳とスカラ・ブレイを結ぶラインの近くに今城塚古墳があり、メンフィス博物館と鳥屋ミサンザイ古墳を結ぶラインの近くに、住吉大社(大阪市住吉区)、河内大塚山古墳(大阪府羽曳野市・松原市)、允恭天皇の陵墓と推定される岡ミサンザイ古墳(大阪府藤井寺市)があります(図15)。メンフィス博物館と鳥屋ミサンザイ古墳を結ぶラインは、日前神宮・國懸神宮(和歌山市)と今城塚古墳を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図15)。
孝霊天皇と関係付けられるメンフィスとつながる住吉大社に祀られている筒男命は、孝霊天皇と推定されるので、岡ミサンザイ古墳の被葬者が孝霊天皇と血縁関係があると推定される応神天皇の孫の允恭天皇と推定されることと整合します。河内大塚山古墳は、安閑天皇の陵墓として造営されたものの、531年の辛亥の変によって継体天皇が急になくなったため、未完成に終わったとする仮説があります8)。今城塚古墳と鳥屋ミサンザイ古墳の被葬者は、継体天皇と宣化天皇でほぼ確定しているので、これらの古墳と関係付けられている河内大塚山古墳は安閑天皇の陵墓と推定されます。
継体天皇は『古事記』では、527年に逝去したとし、『百済本記』は、531年頃に天皇のみならず太子皇子がともに亡くなったと伝えています。『上宮聖徳法王帝説』では、第29代欽明天皇の治世期間を41年間とし、継体天皇の亡くなった辛亥の年に即位したとしていることから、蘇我氏などの欽明天皇を擁立した勢力と、大伴氏などの安閑・宣化両天皇を支持した勢力の対立があったとする説があります11)。『日本書紀』の記載によると安閑・宣化両天皇は、当時の倭人の習俗に逆らって妃との同墓合葬が行なわれたとされ、その後、欽明陵には血縁関係のない蘇我稲目の娘堅塩媛が合葬されています7)。第27代安閑天皇は、子女がなかったにもかかわらず、数十社で祀られているのは12)、天皇の祟りを鎮めるため神として祭ったのではないかと思われます。
辛亥の変の年の531年に、北魏僧の善正と、豊後国日田郡(大分県日田市)の狩人藤原恒雄は、九州の霊山である英彦山を開いたとされます。善正は中国北魏の孝武帝の子で、孝武帝が殺される3年前に日本に渡来し、藤原恒雄に会い殺生戒をおしえ、藤原恒雄は出家して名を忍辱とあらためたとされます。蔵王権現は、奈良時代に役小角(えんのおづの)によって初めて祭られたとされ、江戸初期の林羅山の著した『本朝神社考』には、安閑天皇の御霊は修験道の蔵王権現と同じと記されているようです。
文献
1)丹生廣良 1977 「丹生神社と丹生氏の研究」 きのくに古代史研究会
2)グラハム・ハンコック 大地舜/榊原美奈子(訳) 2020 「人類前史 下」 双葉社
3)宝賀寿男 2008 「神功皇后と天日矛の伝承」 法令出版
4)真弓常忠 2018 「古代の鉄と神々」 ちくま学芸文庫
5)蓮池明弘 2018 「邪馬台国は「朱の王国」だった」 文春新書
6)宝賀寿男 2012 「古代氏族の研究① 和珥氏」 青垣出版
7)白石太一郎 2013 「古墳からみた倭国の形成と展開(日本歴史 私の最新講義)」 敬文舎
8)白石太一郎 2018 「古墳の被葬者を推理する」 中央公論新社
9)水谷千秋 2013 「継体天皇と朝鮮半島の謎」 文春新書
10)古川順弘 2021 「古代豪族の興亡に秘められたヤマト王権の謎」 宝島社新書
11)上田正昭 2012 「私の日本古代史(下)」 新潮選書
12)豊田有恒 2022 「ヤマトタケルの謎」 祥伝社新書