見出し画像

温故知新(52)入の沢遺跡 マラケシュ 蝦夷 江釣子古墳群 オリンポス山 ギョベクリ・テペ スカラ・ブレイ 志波城 大島遺跡 モン・サン・ミシェル 八束城 メンフィス 太宰府天満宮

 宮城県栗原市築館城生野にある入の沢遺跡は、古墳時代前期後半(4世紀後半)の大規模集落遺跡で、大溝や塀に囲まれた極めて防御性の高い集落です。集落の存続期間は短く、意図的に焼かれたと考えられる竪穴建物から、内行花文鏡を含む銅鏡・鉄剣を含む鉄製品・勾玉を含む石製装身具や各種土師器類等が多数出土しています。入の沢遺跡は古墳時代前期の大型古墳分布域の最北端で、北海道を中心に広がる続縄文文化との境界に位置しています1)。また、弥生時代終末期に関東地方や北陸地方から、大規模な集団移住があったこともわかっています1)。古墳時代前期は、邪馬台国と関係があった投馬国と推定される青谷上寺地遺跡が争いにより衰退した時期で、神功皇后は391年に新羅征伐に向かったと推定されているので、入の沢遺跡がつくられたのは、藤原氏と関係があると推定される仲哀天皇(小碓尊)が反乱を起こしたと推定される時期と思われます。仲哀天皇(小碓尊)が名古屋城を占領したとすると、集団移住の理由がわかります。『古事記』にある倭建命が焼津で相武国造に火攻めにあい、草薙剣によって難を逃れたという話の「倭建命」は、仲哀天皇(小碓尊)と推定されることと整合します。

 多胡碑と羊太夫伝説で知られる多胡羊太夫(丹生氏の宇胡閉と推定)の居城だったといわれる八束城(群馬県高崎市吉井町)は、牛伏山の隣の八束山にあります。メンフィス博物館と八束城跡を結ぶラインの近くには、熊野皇大神社(長野県北佐久郡軽井沢町)があり、八束城跡とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くには、パレルモ、戸隠神社、善光寺とレイラインでつながっている清水寺(長野市若穂保科)があります(図1)。このことから、八束城は、須佐之男命(八束水臣津野命)と関係がある丹生氏の宇胡閉(羊太夫)の居城だったと推定されます。

図1 メンフィス博物館と八束城跡を結ぶラインと熊野皇大神社、八束城跡とギョベクリ・テペを結ぶラインと清水寺(信濃三十三番札所、十六番札所)

 八束城の近くには牛伏山(うしぶせやま)がありますが、鳥取県八頭郡智頭町には牛臥山(うしぶせやま)があり、備中松山城は臥牛山の頂上付近に建っています。モン・サン・ミシェルを発見したのは牛で、西洋では牛は太陽と月のシンボルであり、とくに都市をひらく際土地をト定(ぼくてい)する神聖な動物とされました2)。ギリシャ神話で、イロスという英雄が褒賞としてフリュギア王から牛を賜り、王は「牛がうずくまった土地に町を起こせ」と命じたといわれます。下記の太宰府天満宮の伝説にも牛が登場します。

大宰府の地でお亡くなりになられた道真公の御遺骸を牽いていた牛が、あるところで伏して動かなくなり、その場所に門弟の味酒安行が御墓所を造営したことが、御本殿の創建につながりました。

出典:太宰府天満宮 御神牛

 山形県長井市にある環状列石彌彦神社と入の沢遺跡を結び三角形を描くと、彌彦神社と入の沢遺跡を結ぶラインは、環状列石とマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。

図2 環状列石(長井市)、彌彦神社、入の沢遺跡を結ぶ三角形のライン、環状列石とマラケシュを結ぶライン

 江釣子古墳群は、7世紀後半から8世紀前半にかけて造られたもので、直径6~15mの円墳が約120基以上あり、勾玉(まがたま)、切子玉(きりこだま)、蕨手刀(わらびてとう)、直刀、馬具などが数多く出土しています。江釣子(えづりこ)の語源は、カムイヘチリコホで、アイヌ語で「神々の遊び場」を意味するようです。江釣子古墳群は、朝廷軍と戦った蝦夷の墓とされています。坂上田村麻呂は、桓武天皇(在位:781年-806年)の軍事と造作を支えた一人であり、二度にわたり征夷大将軍を勤めて征夷に功績を残したとされています。田村麻呂の生まれた「坂上忌寸」は、後漢霊帝の曽孫阿智王を祖とする漢系渡来系氏族の東漢氏と同族を称しています。

 ギョベクリ・テペと江釣子古墳群を結ぶラインの近くには塞神社(秋田市河辺三内字五郎谷地溜池下)があり、江釣子古墳群とオリンポス山を結ぶラインの近くには日月神社(秋田県仙北市田沢湖卒田上清水)があります(図3、4)。塞神社の祭神は、八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)、息栖神社にも祀られている久那斗神岐の神)ですが、長崎県壱岐市にある塞神社には、猿田彦命の妻である猿女命(天鈿女命)が祀られているので、八衢比古神は猿田彦神で、八衢比売神は猿女命(天鈿女命)と推定されます。日月神社は、社伝によると、草創から1300年を迎え、旧仙北郡では最初に建てられた神社と伝えられ、お日様(天照皇大神)とお月様(月与美神)、伊邪那岐命、伊邪那美命、他三柱が祀られています。

図3 ギョベクリ・テペと江釣子古墳群を結ぶラインと塞神社、江釣子古墳群とオリンポス山を結ぶラインと日月神社
図4 ギョベクリ・テペと江釣子古墳群を結ぶラインと塞神社、江釣子古墳群とオリンポス山を結ぶライン

 江釣子古墳群とオークニー諸島のスカラ・ブレイを結ぶラインは、烏帽子岳(乳頭山)や亀ヶ岡石器時代遺跡の近くを通ります(図5)。烏帽子岳の東南には、約1200年前の平安時代に、桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂によって造られたとされる志波城(盛岡市上鹿妻五兵エ新田)があります(図
5)。

図5 江釣子古墳群とスカラ・ブレイを結ぶラインと烏帽子岳(乳頭山)、亀ヶ岡石器時代遺跡、志波城跡

 志波城跡モン・サン・ミシェルを結ぶラインは、亀ヶ岡石器時代遺跡の近くを通ります(図6)。志波城跡、烏帽子岳(乳頭山)、小袖海岸にある兜岩を結ぶ三角形のラインを描くと、烏帽子岳(乳頭山)と兜岩を結ぶラインは、志波城跡とモン・サン・ミシェルを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図6)。

図6 志波城跡、烏帽子岳(乳頭山)、兜岩を結ぶ三角形のライン、志波城跡とモン・サン・ミシェルを結ぶラインと鬼越蒼前神社(岩手県滝沢市)、岩手山、月山神社、亀ヶ岡石器時代遺跡、大島遺跡(盛岡市本宮荒屋13-1) 

 志波城跡とモン・サン・ミシェルを結ぶラインの近くには、鬼越蒼前神社(岩手県滝沢市)、岩手山月山神社(秋田県鹿角市十和田毛馬内)があります。月山神社は、坂上田村麻呂が蝦夷平定について祈願したと伝えられる古い神社で、藩主及び地域住民の信仰が深かったといわれています。志波城に近い盛岡市本宮荒屋(図6)には、9世紀後半~10世紀ころの竪穴建物群、高床倉庫、畑作地などが発見された大島遺跡盛岡市本宮荒屋13-1)があります。志波城は、亀ヶ岡石器時代遺跡と同じレイライン上にあることから、志波城を築いたのは、縄文系の氏族だったと推定されます。

 「王者のハプログループ」によると皇室のY染色体ハプログループはD1系統で、百済、出雲王朝はC2系統、中臣氏、藤原氏、新羅・朴氏王統、明はO1系統、北魏、高句麗、秦、漢はO2系統で、豊臣秀吉は縄文系のC1a1とされています。古代には多氏の尾張氏(伊福部氏)が大王家に后妃を出していますが、乙巳の変の後、蘇我氏(O2系統と推定)に代わり、中世には藤原氏(中臣氏)(O1系統)が天皇家の外戚となり、秦氏とつながった藤原北家が政治を動かすようになりました。中臣氏の祖の天児屋根命のY染色体は、新羅と同じハプログループO1b2a1aであると推定され、O1b2a1a1系統は日本人集団の25%が属しているようです。大王家(D系統)は維持されましたが、特に白村江の戦い以降、O系統の豪族は、丹生氏や物部氏などのD系統やC系統の縄文・弥生系の豪族と天皇家との関係を歴史から消し去ってきたと考えられます。

 国立遺伝学研究所の斎藤成也教授は、かりに20世代前、およそ500年ほど前までさかのぼると、数千人がひとりの先祖になっていて、(核DNAでみると)遺伝的には、過去に生きていたたくさんの人々からすこしずつDNAが受け継がれて、現在に生きているひとりの人間がいるのだと述べています3)。現代日本人に縄文人のゲノムが伝わった割合は、地域的には差があるようですが、14~20%と推定されています3)。斎藤成也氏が、出雲ヤマト人のゲノムDNAを、関東ヤマト人、中国人、オキナワ人のものと比較した結果、出雲ヤマト人よりも関東ヤマト人の方がやや大陸の人々に近く、出雲ヤマト人は、東北ヤマト人に近く、オキナワ人と共通性が認められています3)。

文献
1)瀧音能之(監修) 2019 「最新発掘調査でわかった「日本の神話」」 TJムック 宝島社
2)荒俣 宏 1997 「神聖地相学世界編 風水先生レイラインを行く」 集英社文庫
3)斎藤成也 2017 「日本人の源流」 河出書房新社