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【短編小説】ようこそ、山上温泉へ【ショートショート】

あらすじ
廃墟街となった観光地、山上温泉。廃墟巡りが趣味の主人公が一軒だけ営業している居酒屋を見つけたが、店内で不可思議なことが起こる。


 山上インターチェンジの出口でハンドルを左に切った。国道291号線へ進む。車道は利根川沿いに南北へ真っ直ぐ伸び、東西は青々とした木々が延々と続いている。土曜日の15時だというのに、高速道路を走っている間は、私以外の車をほとんど見かけなかった。正確に言えば、車を見かけなくなったのは渋川市を超えたあたりからだ。廃墟好きの私としては胸が高鳴る。大阪から約8時間、車を飛ばしてここまできた。お目当ては山上温泉に連なる廃虚街だ。

 山上温泉は群馬県利根郡にある観光地だ。かつてのバブル時代、団体旅行客向けに大宴会場を設けたホテルが乱立し、当時は盛況だったという。しかし、社員旅行という文化が廃れ、家族旅行や一人旅など少人数の旅が主流になったことにより、経営が立ち行かなくなるホテルや旅館が増加した。2000年代から廃業する宿泊施設が増え始め、2020年のコロナショックが追い打ちをかけ、現在は廃墟街となってしまったと言う。私は大阪在住の廃墟愛好家なので、関東地方の廃墟に行く機会がほとんど無く、訪れるのは今回が初めてだ。水上温泉の廃墟は以前から有名で、今回まとまった休みがたまたま取れたので、念願が叶った。

 車道から見える景色は、360°が緑ばかりだ。その中にぽつぽつと民家が見える。ホテルまであと5分の地点に来て、ようやく温泉街に入った。長時間の運転で身体は疲れているが、脳は興奮している。車の速度を時速20kmまで落とした。

 噂通り、温泉街は廃墟だらけだった。個人商店らしき小さな建物があるが、どこもシャッターが降りている。旅館の前も通るが、どこも入口に貼り紙が貼ってある。おそらく、無許可に侵入すると通報するという内容だろう。

 私はホテルの駐車場に車を停めた。車で来た客は私一人のようだ。階段を上がりホテルへ入る。テニスコート2つ分くらいのだだっ広いエントランスに驚きつつ、受付に行くと、東南アジア系の若い男の子が立っていた。とても目が大きい。名札を見ると「グエン」とあった。従業員はこの子以外に見当たらない。
「予約していた橋元です」
「一名様の、橋元様ですね」
「はい」
「確認しました。しょしょ、お待ち下さい」
 113号室の鍵を受け取る。私が礼を告げると、グエンは「ようこそ、山上温泉へ」と言い、深々とお辞儀をした。
 部屋にキャリーバッグを置き、先程車で通り過ぎた道に戻ってきた。土曜日なのに誰もいない。人影が全くない。扉を開ける音や業者が荷物を置く音もない。素晴らしい。作り物の世界に私一人だけが連れて来られたようだ。人工物に囲まれながらも、人間の視線がゼロの空間に立っている感覚を、私は噛み締めた。時間が経てば、廃墟が私を見ている感覚を得ることができる。

 民家、土産物屋、居酒屋、旅館。建物はどれも古く昭和を感じさせるが、まだ人が住んでいるような雰囲気もある。なぜそう感じるのか、しばらく歩いてみて、雑草があまり生えていないということがその理由のひとつだと気が付いた。廃墟に行くとだいたい建物の周りに雑草がぼうぼうと生えており、ひどいときにはススキが建物の窓から顔をのぞかせているときもある。しかし山上温泉の廃墟街にはそれがない。おそらく、地面がアスファルトでしっかりと舗装されているからだろう。普段観に行く廃墟はだいたい山奥にあり雑草が生い茂っているので、ここの廃墟はとても新鮮に感じられた。
 上機嫌で廃墟街を堪能して歩いていると、一軒だけ、灯りのついた居酒屋を発見した。意識が現実に引き戻される。非日常の空間がずっと続いていて欲しいと思っていたが、孤独に営業している居酒屋の登場は、存在が際立ってなかなかに魅力的だ。木造建てで派手さもなく今に潰れてもおかしくない佇まいだが、なぜこの店は閉店していないのか気になった。看板に「ゆうべ」とあったので、試しにGoogleマップで調べてみたところ、16時現在も営業中であることがわかった。夕飯はホテルで食べるつもりだったが、ここで一杯呑んで、情報収集するのもいいかもしれない。
 スマホがぶぶっと震えた。10分後に雨が降るらしい。梅雨が開けたばかりなのにまた雨か、と頭の中でつぶやく。私は雨宿りも兼ねて、萎びた居酒屋の暖簾をくぐることにした。

 店の中は意外に明るかった。どうやら寿司も握れる居酒屋のようだ。5席ほどのカウンターが奥まで伸びており、カウンターの先には4人掛けの座敷が1つ設けられていた。カウンターのアクリルケースの中には寿司のネタがぎっしりと入っている。鮪の赤身がひと際目立っていた。美味そうだ。
 店内を見回したが、誰もいない。とりあえず座ろうとしたが、勝手に席に座るのは良くないだろうと思い、しばらくその場で立って店員の登場を待つことにした。カウンターはよく手入れがされているのか、汚れひとつなく、綺麗だ。木の手触りが気持ち良い。レジの横にはバスケットボールくらいの大きさの招き猫が置いてある。経年劣化のせいか、目玉が消えて白目になっていた。ホコリは被っていない。壁にずらっと貼られたメニューを眺める。ぶり大根580円に目が留まる。こいつと刺し身を頼むのがいい。その後店内をしばらく見回していたが、飽きてきた。誰も出てくる気配がない。
「すいません」
 大きな声で呼んでみたが、返事はなかった。奥の厨房は暖簾で見えない。客席はカウンターと座敷だけのようだが、突き当りに扉があることに気が付いた。店に入ってすぐ左手がレジで、右手にトイレの扉があるので、突き当りの扉はトイレではなさそうだ。厨房や2階の住居に繋がっている可能性が高い。私は座敷のところまで行き、扉を開けた。
「すいません」
 返事はない。扉を開けてすぐ右手が階段になっており、左手は厨房に繋がっている。厨房の中を覗く。コンロが2つ。鍋はない。部屋中央には大きなテーブルがあるが、何も乗っていない。
 もしかすると、仕出しで留守にしてるのかもしれない。今は16時だ。普段客なんて来ないだろうから、留守にしても構わないと思ったのだろう。店からすれば、私という存在のほうが非日常だ。とりあえず席に座って店主の帰りを待とうと思い、カウンターへ戻った。入口からの2番目の席を見て、身が固まった。水の入ったグラスが置かれていた。
 咄嗟に後ろを振り向いた。誰もいない。厨房に繋がる暖簾も微動だにしていない。なにかのイタズラか、嫌がらせを受けているのではという考えが頭をよぎった。誰もいない風を装って、目を離したすきに水のグラスを置いたのではないか。かなり馬鹿馬鹿しい考えだが、この状況に納得できる答えが他に浮かばながった。私は少し躊躇しながらも、カウンターに身を乗り上げて、板前が魚を捌くスペースを覗いてみた。しゃがんだ人物を想像していたが、誰もいなかった。調理台にはまな板も包丁もない。調理台の下にスペースがあるので、そこに誰かが隠れているのかもと思い、さらに身を乗り出して覗き込んでみたが、大きい鍋が等間隔に並んで置かれているだけだった。
「すいません、誰かいますか」
 また大声で呼びかける。どこからも反応はない。もう一度厨房の中を覗いてみようかと思ったとき、引き戸に雨粒が当たる音が聞こえてきた。

 これまでに50回は廃墟に訪問しているが、不思議な経験をしたことは一度もなかった。代わりに怖い経験をしたことはある。深夜に廃墟の周辺をうろついていたとき、廃墟の中でバーベキューをしていた不良たちに見つかり、追いかけられた。その時は無事に逃げることができたが、もし捕まっていたら殴られたり金を奪われたりしていただろう。今回のように、心霊現象かイタズラかわからない出来事は初めてだ。廃墟巡りという奇天烈な趣味をしていたら、一度はこういう経験をするかもしれないと、多少思ってはいた。しかし実際に直面してみて、「ついに来たか」という感覚だ。私は心霊現象を信じていないので、今目の前で起こったことは何かイタズラか、ドッキリか、そういう類のものと想定して、対処したいと思った。何かタネや仕掛けがあるように思う。
 私はショルダーバッグをカウンターに置いて、中を探るフリをした。バッグの中で、スマホのビデオ撮影の開始ボタンを押したと同時に、右手でハンカチを取り出して額を拭う素振りをしながら、左手でスマホを出してバッグに立て掛けさせた。スマホのカメラはグラスが置かれた2番目の席から玄関までを撮影している。グラスの他にも何かが置かれるかもしれないので、カメラで撮影してやろうと考えた。
 私は突き当りまで行き、扉を開けた。左手の厨房に向かって、「誰かいませんか。すいません」と大きな声で呼びかけた。厨房まで行き中を覗いてみると、微かに醤油の香りがした。甘辛く何かを煮込んだ時の香りだ。さっき厨房を覗いたときはこんな香りは漂っていなかった。もしやと思い、扉を閉め、カウンター席を見る。カウンターの3番目の席に、ぶり大根が置かれていた。
 心臓の音が、次第に大きくなるのを感じた。皿の上で、たった今鍋からよそったかのようなぶり大根が、湯気を立てている。入店時に私はぶり大根を食べたいとは思ったが、「ぶり大根をください」とは口から発していない。なぜぶり大根が欲しいとわかったのかわからない。それに、3番目の席に置かれていたということは、カメラに映らないように意識して盛り皿を置いたということだ。このカメラを意識した行動が、いかにも人間くさい。しかし、ほんの一瞬目を離した間に、皿にぶり大根を盛って、カウンターに置くことができた説明がつかない。私はぶり大根に近づき、立ち上がる湯気に鼻を近づけた。いいにおいだ。本物のぶり大根にしか見えない。ここに店主がいて、目の前で皿に盛って出されていたら、喜んで口に運んでいただろう。だが今は食べ物には見えない。
 さて、私は入店時にぶり大根と刺し身を一緒に食べたいと思った。次に目を離すと刺し身が出てくる可能性が高い。法則性について考えていると少し冷静になってきた。落ち着いて客観的に自分の置かれた状況を考えると、私は今、何者かにおちょくられている。イタズラだろうが心霊現象だろうが、私が驚いている姿を見て、笑っているのではないかと思えてきた。もしそうであれば、とくに腹が立ちはしないが、どうやってグラスや皿を置いたのかは気になる。そこだけは突き止めたい。私は、カウンターの5席全てが画角に収まるようにスマホを置いた。スマホを触りたくてもカウンターの内側から手を伸ばせば必ず犯人の姿が映る。超広角のモードにしてビデオ撮影の開始ボタンを押した。
 突き当りの扉を開ける。後ろを振り向いてカウンターを見るが、変化はない。身を乗り出して左手の厨房に向かって「すいません」と呼びかけた。振り返ってカウンターを見る。変化はない。スマホを置いたからだろうか。もう一度同じことを繰り返したが、変化はなかった。もしかして、ぶり大根を完食しないと次の品が出てこないのだろうか。それはやりたくない。今は半身しか扉を超えていないことがいけないのかもしれない。私は扉を超えて、厨房に入った。「すいません」と大きな声で呼びかけた。反応はなく、静寂のままだ。すると、「こんっ」と音がした。カウンターの方だ。私は慌てて扉に戻りカウンターを見た。ぶり大根の隣に鮪の刺し身が盛られた皿が置いてあった。駆け寄ってみると、スマホは仰向けに倒れていた。

 私は保存した動画を再生した。画面にはカメラをセットした自分が映っている。画面の中の私は扉を開けて半身乗り出し「すいません」と呼びかけた。画面から消えもう一度「すいません」と呼びかけたあと、スマホは倒れ画面が真っ暗になった。画面が暗くなる直前まで巻き戻し、スロー再生してみた。グラスとぶり大根がぶれながら画面の上方向に飛んでいく。何度もじっくり見返したが、刺し身が置かれた瞬間は映っていなかった。
 「こんっ」と音がしたのは、スマホが倒れた音だろう。ビデオにも似た音が録音されていた。何か物に触れることができるのであれば、例えばいま私の首を締めたり目を突いたりできるわけだ。さすがにそれは御免被りたい。ここが潮時だと、私は思った。
 ショルダーバッグを肩に通した。刺し身の横に会計の紙が置いてあるのに気付いた。もしかしたらついさっき現れたのかもしれない。合計1,360円だった。私は財布から1,000円冊一枚と100円玉4枚を取り出し、白目の招き猫の横にある、青いコイントレーに置いた。私の負けだ。

 店を出ると、やや強い雨が降っていた。傘は持ってきていない。店の周りに傘でも落ちてないかと周囲を見回すと、傘立てに傘が一本差してあった。店に入るとき、傘も傘立ても無かったはずだ。私は傘を手に取りしばらく眺めた。綺麗に巻かれているところを見るに、新品のようだ。私は傘を広げて、ホテルへ向かった。
 ホテルに戻るとグエンが受付にいた。ここからはよく見えないが何か手元で書いているようだ。構わず話しかける。
「すいません、ここのホテルから歩いて2、3分の『ゆうべ』という居酒屋はご存知ですか?」
「はい、近くで開いてる居酒屋はゆうべだけです」
「さっき行ったら、変なことがあって。なんと言うか、誰もいないのに突然料理が出てくるんですよ」
「どういうことですか」グエンは眉をひそめた。「意味がわからないです」
質問を変えることにした。「あの、ゆうべの店主とは会ったことはありますか?」
「ありますよ。今日も会いました」
「会ったんですか」驚いた。「あの、僕にも会わせてくれませんか」
「なんでです」
「申し訳ないですが、今から、お願いします」
 グエンはさもおかしな客だという顔をして奥の部屋へ消えた。電話をかけている。グエンが「わかりました」「そうですか」と話しているのが聞こえた。1分もしないうちにグエンは戻ってきた。
「橋元さんが、山上温泉に住んだら、全部教えると言ってました。何のことか、わからないですが」
「そうですか」私は、唾を飲み込んだ。「ありがとうございます」

 私は部屋に戻り、壁を背にしてへなへなと座り込んだ。部屋には布団が敷いてあった。この布団はグエンが敷いてくれたのだろうか、あるいは、違う誰かが敷いたのだろうか。
 「ここの住人になる」という条件から、幽霊やイタズラといったものではなく、何か山の神や精霊、妖怪といった類の存在を感じさせる。ここに住むということは、「あちら側」に一歩足を踏み入れることを意味しそうだ。何も確証はないが、この場所で一晩過ごすのも危険な気がしてきた。というより、シンプルに気味が悪い。今は確実に車を運転してどこにでも行けるので、動けるうちに動いておきたい。私は急いでチェックアウトすることにした。
 ホテルの受付に行きグエンに「急用ができたのでチェックアウトしたい」と告げると、顔色を変えずに「わかりました」と言った。私は宿泊代金を支払い、「突然で悪いね」と言った。するとグエンは「残念です」と言って軽く頭を下げた。
 ホテルを出て傘をさした。車へ向かう。
 残念です、とは何が残念なのか。『客にサービスが提供できなくて残念』という意味で解釈するのが普通だが、『あなたを住人にできなくて残念です』という意味かもしれない。あそこに一晩泊まったり、家を借りたりするのはリスクが高すぎる。
 とりあえず今晩は埼玉か東京で宿を取ろうと思い、車を南へ走らせた。雨が弱まる気配はない。慌てて発進させたのでしばらくライトを着けずに走ってしまっていた。周囲はほんのり暗く、あと30分もすれば夜の闇がこの山を覆うだろう。私は廃墟に行くと、廃墟が私を見ている感覚を得ることがある。物が視線を持つ感覚だ。例えば私が電柱を見ていると同時に、電柱も私を見ているというような。この感覚が先程からずっとあり、後部座席から視線を感じている。車の中でこの感覚を持ったのは初めてだった。何かがついてきているのか、あるいは、何かを連れてきてしまっているのか。
 少し休憩しようと思った私は、サービスエリアで車を停めた。傘を差して、車を離れた。


※この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

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