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結婚したらうつ病になった


22歳のフリーターだった頃、同級生は就活を終えたのが頑張ってるのかよく分からなかった頃、4つ歳上の彼氏からプロポーズをされた。ここでは省略するが変わった家庭環境で過ごしたせいで彼氏の異常性に気付けなかった低学歴の馬鹿な私は舞い上がってしまいそのままプロポーズを受け入れて22歳の冬に結婚した。

ミタちゃんは結婚するのが早そう
と、友達にも学校の先生にも友達のお母さんにも言われた。なんでだろう。
でも本当に早く結婚したしフリーターで生きていくには不安だったので将来の不安要素を取り除くためにもこの道を選んだ。

入籍してから数ヶ月で子供を授かる事ができた。実は、元から子を持つつもりはなかった。私自身が子供という生き物が苦手だったし生き物は死ぬまで面倒を見なきゃいけないとは思ってるから責任感のない私は無理だと思った。 
でも結婚してみると不思議なことにあちらのご両親は孫を熱望している。
まだかって言ってるよ、と結婚して数ヶ月のセックスに興味の薄い夫はそう言った。
お前どの口が言ってんだ!!!
と思った。
しかしながらその圧に耐えきれなくなり妊活とは名ばかりのとりあえず性行為に勤しんでいたら子を成すことができた。

本当に痛かったけど無事出産することができた。
陣痛の痛みに解放されたと同時に子育てが始まってしまった。と思った。

専業主婦をやらせてもらえてたので子育てに専念した。眠くても寝れない下ろしたくても下ろせない。地元を離れ静岡という知らない土地に子と私1人の空間は不思議だった。
でも本能なのかわからないけど周りの人が思ってるよりかは母親を出来ていたと思う。


子が3歳になる前にそろそろ働かないか?と夫から言われた。
一生専業主婦で生きれると思っていた私からすると衝撃すぎる発言だった。保育園に預けれる訳でもないし田舎も田舎だったので働き口なんてスーパーのレジ打ちしかなかった。そんなのは無理だったのである。

最寄りの駅から1時間離れた場所にある田舎のメイドカフェの求人を見つけた時コレだ、と思った。
すぐに面接をしてもらいオーナーから随分遠いけど大丈夫?と聞かれた。
フリーターだった頃、45分かけて渋谷へバイトしに行ってた私からすると大した距離じゃなかった。
その時私の年齢は26歳。とてもじゃないけどメイドカフェで働いていい年齢じゃない。

でも私には顔が良いという武器があった。

メイドカフェは月6日~12日ほど働いた。
今まで働いたどの仕事より楽しかった。田舎だったからか擦れた女の子はいなかった。
ご主人様、お嬢様はどの人も大体おだやかで静岡の暖かい気候が人をこうさせるのかと思った。
ずっと赤子と共にし、無口な夫を持ち、日頃人の言葉を喋らなくなってた私にはあまりにも楽しすぎる場所だった。


夫は絵に描いたようなモラハラ男だった。

薄々気付いてはいたが見て見ぬふりをしていた。私が悪かったのかも、と思い何度も私から謝った。理不尽なことが沢山あった。

それでも生活させてもらえてるしメイドカフェの仕事はいい息抜きになった。
あと2年くらい働きたいと思ってた矢先のことだった。

私がメイドカフェで働き始めてから2年が過ぎていた頃、事業が傾き経営が難しいから辞めて転職して神奈川に戻る。と夫が言い出したのである。

目の前が真っ暗になった。

経営が傾いてることは正直どうでもよかった。父親の経営してる塾を夫が継いでやっていくことは不向きだろうとはずっと思っていたからだ。

そんなことより、引越しが嫌だった。
半ば無理やり連れてこられた静岡という土地に完全に慣れ親しみこのままここに骨を埋めたい。この仕事楽しい!と思っていたのを奪われそうになったからだ。

話し合いとは名ばかりのモラハラを振りかざされて広い3LDKのマンションから武蔵小杉の狭い2DKへと越すことになった。
私がフリーターのときに貯金していたお金から買ったニトリのローソファは狭い2DKには入らなかったのでジモティーで手放した。悲しいなんてもんじゃなかった。
立派な食器棚、大きいテレビ台、セミダブルのベッド、全部捨てた。

その頃にはストレスにより不眠症になっていた。なんなら、美容室に行ったら円形脱毛症になっていますよ、ストレス抱えていませんか?と美容師に言われて驚いた。
メンタルクリニックと言うのだろうか、中々予約が取れなくて眠れなくなってからだいぶ経ってから診察をしてもらった。
これといった病名を言われるわけでもなく生い立ちから話すことになり話していたら私の人生ってなんかおかしいということに気付いた。
薬をもらっても合わなかったりするので自分に合う薬が見つかるまで時間がかかった。

引越しを終えて2ヶ月経ったくらいでひと段落したのでメイドカフェにはよくある卒業イベントを組んでもらえた。
たくさん大好きなご主人様とお嬢様に来てもらえたと思ってる。
ライブパフォーマンスもするのだがどうしても辞めたくなさすぎてステージ上でうずくまって泣いてしまった。
コロナ禍真っ只中だったので声出しができなかったためみんなを困らせたと思う。
静岡という場所を好きになれたのは夫のおかげでも子供のおかげでも義両親のおかげでもなく、コロナ禍なのにも関わらず足繁くお店に通ってくれるご主人様とお嬢様のおかげだったのである。

卒業したと同時に不眠症が悪化した。円形脱毛症は恐ろしくて見ないふりをした。
心の拠り所にしていた場所がなくなって気持ちが不安定になったのかもしれない。
いい歳してTwitterで見た咳止め薬をたくさん飲んでODというのも散々した。
死にたかったけど死にたくなかったのです。

めちゃくちゃ省略して
2年も経たずに夫が転職するとまた言い出し私たちは武蔵小杉から私の地元である湘南へと戻ることになりました。
夫のモラハラは治ることはありませんでした。モラハラについては別の記事でまとめたいと思っています。
引越したので通院していた病院も変えて新しい病院にしたらまた生い立ちから説明。
辛かったですね、今も辛いですね、と言われた。女の先生だ。
どうやら私の生い立ちは中々に辛いものがあるらしい。その生い立ちのせいで夫のモラハラにすぐに気付けなかったのも悲しい話だ。

薬を飲まない日は全く眠れないためこのまま一生薬漬けだと思ったので自立支援医療というサービスを受けるべく病院に診断書を作成してもらうこととなり3週間待った。

届いた診断書を見るとうつ病と書かれていた。
初めてそこで病名を知る。2年経ってようやく。

なんかストンと落ちた気がした。

結婚したらうつ病になった。

結婚したら幸せが待ってるわけではなく、ただ生活が流れていくだけでそこに子育てだとかペットを飼うだとかマイホーム購入だとかの選択肢が出てきてそれらを選びながら死ぬのを待つんだなぁ。と思った。

30歳の今、結婚出産ブームだ。
インスタには同級生の結婚しました、出産しましたのストーリーで溢れかえっている。
子どもの写真を投稿している様を見るとこのままその感じで幸せで生きててくれと思う。
私のインスタには子どもの写真は3枚だけ。顔は載せていない。もちろん夫の姿もない。

私が幼稚で馬鹿だったからこうなった。
もうちょっと賢くなれればよかったと自分を恨む。
けれど、我が子を産んだことだけは間違いなかったと思う。これは私のどうしようもない人生の唯一の成功体験。

でも、去年の12月自殺未遂した。 もう生きるのが辛くて。あ、多分これ死ぬやつだと思った。咳止め薬は購入制限がかかっているので同じような成分が入っている風邪薬を丸ごと飲んだ。薄れゆく意識の中、子供がママ大丈夫?と不安そうな顔をしていたのを見て私はなんて無責任なんだろうかと思った。
しかしながら生き延びてしまった。

結婚してても子供がいてもうつ病になるし自分が信じて選んだはずの男はモラハラだったし自殺未遂はするという話だった。
長くなってしまった。

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