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乾緑郎『戯場國の怪人』 史実と虚構、この世とあの世を股にかけたスーパー伝奇

 ミステリと並行して独自の時代伝奇小説を描いてきた作者によるオペラ座の怪人オマージュ――に留まらない、凄まじい奇想に満ち満ちた物語です。女形の溺死の謎を追ううち、市村座に潜む謎の怪人と対峙することになる平賀源内や深井志道軒たち。一連の怪事の背後に潜む「戯場國」の驚くべき姿とは……

 宝暦十三年の夏、舟遊びをしていた市村座の役者たちの一人・荻野八重桐が怪死した事件を、作品にするよう依頼された戯作者修行中の平賀源内。市村座に伝手を求めて、江戸にその人ありと知られた講釈師・深井志道軒を頼った源内は、志道軒とその娘のお廉と共に、八重桐を姉と慕う名女形・瀬川菊之丞を訪ねます。
 菊之丞から、舟遊びの日に謎めいた烏帽子姿の貴人に口説かれたと聞かされた三人。さらに源内たちは、その貴人とおぼしき謎の人物が市村座の五番桟敷を常に押さえ、その桟敷に入った者は様々な怪異に襲われるという事実を知るのでした。
 そこで菊之丞の身辺警護役を務めることになったお廉は、菊之丞の床山を務める髪結いの青年・仙吉と共に市村座に張り込むのですが――菊之丞を巡るある怪異の噂を耳にすることになります。

 そんな中、五番桟敷に通された広島藩の前藩主とその供が怪異に襲われる事件が発生、この怪異を撃退した供の一人・稲生武太夫は、かつての経験から、市村座で容易ならざる事態が起きていることを知ることになります。
 この武太夫を仲間に加え、怪異に挑むお廉・源内・仙吉の面々。深夜の市村座である人物を待ち伏せるお廉たちは、ついに怪異の正体を目の当たりにする。

 はたして何故市村座で怪異が起きるのか。菊之丞に迫る烏帽子姿の貴人とは何者なのか。そして志道軒が語る、芝居狂いが落ちる地獄・戯場國とは。千年の因縁も絡み、戯場國で奇怪な舞台の幕が上がることに……

 オペラ座の地下に潜み、美しき歌姫に懸想する仮面の怪人を描いた、ガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』。タイトルや、美しき女形に懸想し、地下や桟敷席(それが五番なのにはニヤリ)に出没する怪人をみれば、本作がその時代劇オマージュであることは間違いないでしょう。
 しかし本作はオマージュに終わらず、やがてそこから大きく離れた奇怪な世界観を見せることになります。

 その世界観の中心となるのが、タイトルにある「戯場國」なる世界です。博覧強記の志道軒が語るには、博打狂いや傾城狂いがそれぞれ落ちる地獄があるように、芝居狂いが落ちる地獄――それが戯場國。
 そこでは今はこの世に存在しないはずの山村座に、生島新五郎や二代目市川團十郎といった亡き名優たちが集い、芝居好きの亡者たちが観客となって、いつ果てるとも知れぬ芝居が上演されているというのです。

 ここまで来ればわかるように、本作は伝奇も伝奇、スーパー歌舞伎ならぬスーパー伝奇と言いたくなるような、史実と虚構、この世とあの世を股にかけて繰り広げられる物語です。
 登場人物も上で触れたように多士済々ですが(個人的にはあの稲生武太夫が登場するのがもうたまりません)、題材となっているのは『根南志具佐』『風流志道軒伝』といった源内の戯作、さらに初代團十郎刺殺事件や江島生島事件といった芝居にまつわる実際の事件まで、多岐に渡ります。

 そしてさらにこの物語の中心に潜む怪人の正体はなんと――と、さすがにこれは伏せますが、いやはや、一体何をどうすればこのような物語が思いつくのかと、天を仰ぐしかありません。
 もとより作者の時代伝奇は、いかにも「らしい」題材を用いつつも、やがてそこから遙かに飛翔して、余人には真似の出来ぬ世界を描いてきました。本作はその最新の成果というべきでしょう。

 虚実どころか彼岸と此岸、更には現在と過去が複雑に入り乱れるだけに、物語が入り組み、それぞれの登場人物に感情移入をしにくいきらいはあるかもしれません。
 しかしそれでもなお、現実と舞台の上が絡み合い溶け合った末に生まれる、どこか解放感に満ちた世界は、不思議に蠱惑的に感じられます。

 実はオマージュ元では比重が小さかったように感じられる、舞台の持つ魔力というものについて非常に自覚的である点も含め、本作でなければ描けな魅力に満ちた、妖しい光を放つ逸品です。


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