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兇賊ジゴマに挑んだ女性文学者が切り開いた道 三上幸四郎『蒼天の鳥』

 第69回江戸川乱歩賞受賞作である本作は、大正末期の鳥取を舞台に、実在の作家と虚構の兇賊が交錯する物語――娘とともに『兇賊ジゴマ』の活動写真を観に行った先で、そのジゴマに男が刺殺される現場を目撃してしまった女流作家が、その後も自分の周囲に出没するジゴマの影に挑む姿を描きます。

 女性の地位向上を目指し、「新しい女」の潮流を訴える作家・田中古代子。作品が中央文壇に認められたことを契機に、彼女は本格的に作家活動を行うため、娘の千鳥と内縁の夫・涌島とともに、故郷の鳥取県気高郡浜村から東京への移住を計画していました。
 そんな折、かつて一世を風靡した活動写真『兇賊ジゴマ』が鳥取で上映されると知り、古代子は娘を連れて出掛けていきます。

 ところが、上映中に館内で火事が発生、取り残された古代子と千鳥が目撃したのは、舞台上に立つ「ジゴマ」の姿――そしてそのジゴマは、館内にいた男を刺殺したではありませんか。
 自分たちにも襲いかかってきたジゴマを無我夢中で退け、浜村まで逃げ帰った二人。しかしその後、その周囲には謎の男たちが出没するようになります。

 そして再び姿を現す「ジゴマ」と、さらなる殺人事件の発生。古代子は否応なく一連の謎に立ち向かわざるを得なくなるのですが……

 日本では明治末期に公開され、大ブームを巻き起こした『ジゴマ』。変装の名人である悪漢・ジゴマを主人公にしたこの作品は、ある意味本国フランス以上の人気を誇った末に、公序良俗に反するという理由で、国から上映禁止とされました。
 それから十年以上を経た大正末期を舞台とする本作は、その「ジゴマ」が現実世界に飛び出し、さらに主人公・古代子と娘を襲うという、何とも不可解かつ魅力的な謎に始まる物語です。

 しかし「ジゴマ」が現実に現れたという最大の謎は脇に置くとしても、そもそも何故ジゴマは鳥取の中心からは離れた小さな村に現れるのか。いや、何故ジゴマは古代子がこの町に住んでいることを知っていたのか? その不気味さが、古代子を追い詰め、苦しめることになります。

 幸い、古代子は決して孤独ではありません。社会運動家であり警察や特高にも屈せず活躍してきた夫・涌島や、作風は違えど自分と同じ女性文学者で親友の尾崎翠、さらには故郷の幼馴染たちが、彼女を支えてくれます。何より、まだ幼いながらも文学の才能を見せる千鳥を守りたいという想いが、彼女に力を与えるのです。

 そして涌島の活躍もあり、徐々に明らかになる「ジゴマ」一味の正体と、その恐るべき陰謀。その一味を一網打尽にするため、古代子も立ち上がります。彼女らしく、そして彼女でなければできない形で……

 間違いなく本作のクライマックスであるこの場面は、シチュエーションの巧みさもあって大いに盛り上がりますが、しかし何よりも胸を打つのは、そこで語られる古代子の想いと覚悟であることは間違いありません。

 現代よりもはるかに強く、女性に対する偏見と差別が横行していたこの時代に、女性のために立ち上がった古代子。そんな彼女が、自分の前に立ちふさがる怪人の理不尽な脅威に対して、女性として――そしてもう一人の「怪人」として挑む。その姿は、いささかストレート過ぎるきらいはあるものの、しかし強く胸を打つものであることは間違いありません。

 と、ここで恥を忍んで白状しますと、私は古代子の史実について全く知らなかった――というよりも(一体どこを見ていたのか)古代子や千鳥、涌島や翠が実在の人物であることに気付きませんでした。
 その彼女たちの事績を知っていれば、物語はさらにドラマチックに感じられたのかもしれません。しかし、いささか言い訳めきますが、それを知らなかったからこそ、物語の結末に記された、彼女たちのその後の姿が、より鮮烈に心に残ります。

 あるいは、彼女たちは一種の時代の徒花であったようにも感じられるかもしれません。しかし、彼女たちが切り開いた道の先に今がある――本作はその一つの象徴である、というのは贔屓の引き倒しかもしれません。
 それでも本作が、この時代に彼女たちが確かに生きた事実を、虚構を通じて描いてみせた物語――ミステリにして歴史小説の佳品であることは間違いないと感じるのです。


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