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続・雑談のやうに、noteを書きたい

長くビジネス書や教育本、エッセイなどばかりを買っていたが、最近はまた小説を読んでいる。

日常の機微を淡々と描きながらも、じわじわとした感動を与えてくれる話が好きだ。
そこにはさまざまな人々の生活や日常があることを想像させる。

私たちの世代は

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たとえば、瀬尾まいこさんが好き。
元中学校教師の作家だからか、子ども~青年になる過程が出てくることが多い。
子どもの目線や感情からうかがえる大人たちの振る舞いを、読者は小説を通して観察することとなる。
のんびりしたような起伏のあまりない描写なのに、読み当たりが爽やかなのだ。
そこが好み。


以前、こんなnoteを書いた。

雑談のように、noteを書きたい。
型にあまりはまらず、話すように書きたい。
わたしらしく書きたい。
そんな内容だ。

さて、その後わたしはそういう風に書いているだろうか。
たぶん、書くようにしている。
好き勝手には書いている。テーマもけっこう幅広い。
自己校閲しながらも、ヘタな文章力と拙い語彙力を駆使しながら書いている。
でも、”書くようにしている”なあと思う。
どこかで、読む相手を意識して取り繕っているような気はしているのだ。

書いたからには誰かに読んでほしい、いいねしてほしい、この人いいなと思ってほしい。
noteでエッセイもどきを書いていると、そういった思惑ははからずも生まれてしまう。
noteでの「よい文章」とはなにか、「読まれる文章」とはなにかを頭の隅で意識して、そこにわたしらしさを足して…。
中途半端だなあと自分でも思う。
もともと感情が出やすい人間だからか、昂ぶりやエゴが出るとますます中途半端になる。

でも、その意識は書く・書きたい人間には当たり前にあることだと思う。
人っていうのはどこかでわたしを見てほしいという承認欲求があって、
表現者としてその欲が出るかもしれないし、性格として出るかもしれない。
それ自体は悪いことではない。
やっぱりそれが人ってもんだなと思う。

人のなかにある当たり前の感情や欲望や、日常での思い。
わたしはわたし以外の人の近況や体験、経験を知ることも好きなんだなと、最近思う。
わたし以外の人々が一場面で何を考え感じ、日々を過ごしているか。
だから小説もそんな淡々としたストーリーが好きだし、noteでもそんな記事が好み。
雑談のような内容に、ホッとしたり感動したりするのである。

そこにはまだまだ及ばない拙さがあるけれど、小説家に固定のファンが付くように、
わたし自身もわたしと同じような雑談のような描写が好きだなという方にハマればいいなと思う。

「雑談のように、noteを書きたい」は、すこし目標がアップデートされたのでした。


_終わり

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