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空洞のドレスから、女神降臨へ ―前本彰子展「紅蓮大紅蓮」を見て 小勝禮子


「80年代の美術4-前本彰子展」


 筆者が美術館の学芸員になったのは1984年だが、残念ながら当時は同時代の美術に対する知識も興味も薄く、学生時代に専攻していた19世紀のフランス版画や挿絵本を調べ、収集し、展覧会を企画していた時代だった。したがって、ちょうど同じ頃に作家として華々しい活動を始めていた前本彰子の作品をリアルタイムで見る機会を、うかつにも逸していたのであった。そんな筆者が初めて1980年代の前本の作品を見たのは、2019年にコバヤシ画廊で開催された「80年代の美術4-前本彰子展」(9月9日-9月21日)の折である。
 これは2018-19年に1980年代の美術を総括するような展覧会が複数の美術館[2]で開催される中で、そこに取り上げられる作家たちが重複しており、椹木野衣の言を借りれば、「すでに歴史的な評価の確立された作家たちを、改めて『80年代を起点』に束ね直す試み」[3]であり、「80年代をめぐる新たな歴史的発掘がそもそも目指されていない」[4]ために、当時活躍した何人もの重要な作家が漏れ落ちているという事態が起こっていた。現代美術には疎かった筆者であっても、1980年代の末頃には美術館の学芸員としてギャラリー訪問などはしていたし、90年代には現代美術展なども見るようになっていたので、上記の椹木の評言はまさに同意できるものであり、既視感がありすぎて発見がないという印象だった[5]。
 それに対して1977年に画廊を創立したコバヤシ画廊が、1990-91年にかけて33人の作家の個展を開催し、『THE EIGHTIES 80年代の美術』(1990年)という記録集を出版して「80年代」を逸早く総括していたが、美術館の企画展と同じ2018-19年に改めてシリーズ「80年代の美術」として、美術館の展覧会から「漏れ落ちた」[6]作家たちを加えた、赤塚祐二、鈴木省三、諏訪直樹、越前谷嘉高らの80年代の作品を紹介するグループ展や個展を行ったのである。「前本彰子展」もその一環であった。
 筆者はその時初めて前本の1980年代の作品、《BLOODY BRIDE II》(1984)(fig.1)と《大紅蓮》(1986)(fig.2)の2点の大作を見ることができた。特に、《大紅蓮》は背景の幕のようなドンゴロス布は6.5mにも及び、ほとんど舞台のような大作であり[7]、紅い布の地に黄色い星と青い樹のような形(炎だろうか?)が描かれ、ラメが散りばめられて煌めく背景に、マリー・アントワネットの時代のような腰の横に張り出したパニエ入りのドレスがくっついている度肝を抜くような作品であった。もう1点の《BLOODY BRIDE II》も奇抜さの点では負けてはおらず、ペール・グリーンとピンクを基調にした花園の背景に、この2色からなる大きな招き猫と、たくし上げられたスカートの裏側の赤い布にビニール管や人形、造花などがついているドレスが、やはり貼りついている。こうした過剰なまでのデコラティブな設えと対照的に共通する特徴は、そのドレスの中にあるべき女性の身体が不在であるということだ。しかもタイトルからおしはかるに、これらの一見華やかで楽しげにも見える作品で表現しようとされているのは、大紅蓮=八寒地獄、転じて地獄の炎であり、BLOODY BRIDE=血に染まる花嫁なのだ。

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fig.1 《BLOODY BRIDE II》1984年 ドンゴロス布、アクリル絵具、石膏、ラメ 228×228×45㎝ 個人蔵  画像提供:コバヤシ画廊


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fig.2 《大紅蓮》1986年 ドンゴロス布、アクリル絵具、ラメ 230×650×73㎝ 画像提供:コバヤシ画廊


前本彰子の活動歴 1980年代から現在まで


 しかしここでは80年代の前本彰子の代表作の解釈に深入りする前に、これらの作品を発表した1980年代とそれ以後の前本彰子の歩みをざっと概観してみよう。1980年に京都精華大学短期大学部専攻科美術専攻[*]を修了した前本は、関東(横浜)に移ってBゼミスクールに入学、1982年に修了する。その間に、1981年から神奈川県民ホールギャラリーや横浜市民ギャラリーのグループ展で発表をはじめ、1983年から現在まで続くコバヤシ画廊での個展も開始する。1984年には「第5回シドニー・ビエンナーレ」(NSWアートギャラリー、シドニー)と「クリエイティブ '84―10人の女性画家」(有楽町朝日ギャラリー、東京)に出品。1985年「臨界芸術 85年の位相」展(たにあらた企画、村松画廊、東京)、1986年「Art in Front '86―世紀末芸術の最前線」(伊東順二企画、スパイラル・ガーデン、東京)、1987年「もの派とポストもの派の展開―1969年以降の日本の美術」(西武美術館、東京)、1989-91年「Against Nature: Japanese Art in the Eighties」(サンフランシスコ近代美術館他、全米七ヶ所巡回。91年帰国展、ICA Nagoya、名古屋)、1990年「Woman Artists of the Day―記号の森・現在の美術」(IMPホール、大阪)という具合に、当時20代後半~30代の若手の、美術学校出たての新人としては考えられないような、綺羅星のごとく重要な展覧会への出品が続いた。
 しかし1991年を境に美術館での出品歴は途絶え、1992年「魔女たちの舞踏会」(すみだリバーサイドホール・ギャラリー、東京)、2000年「立川国際芸術祭」(並河恵美子企画、立川市、東京)、2001年「あるコレクターが見た戦後美術」展(群馬県立近代美術館)[8]などにも出品したが、2005年のコバヤシ画廊での個展「身代わりマリー」を最後に個展での新作の出品はなくなっていた。その間、前本彰子は何をしていたのだろうか。

 それについては、平間貴大による「前本彰子インタビュー」[9]と前本自身のブログ[10]が詳しい。それによるとまず1986年から、Bゼミスクールにて「前本彰子ゼミ・現代美術演習」を開講(1986-2004年)、多摩美術大学油画科でも非常勤講師を務め(2001-2005年)、さらに都内の精神科病院のデイナイトケアで、「ゼッタイお姫さまゼミ」というクラスを長年持っていた(2000-2019年)。これらの授業内容については、『現代美術演習2』(中村一美、岡崎乾二郎、前本彰子の演習収録)、BゼミSchooling System編(現代企画室、1989年)として出版されたほか、自身の生き方をめぐるエッセイも雑誌に連載し、次々と出版された。『一緒にいこうパラダイス』(リブロポート、1992年)、『実践!ゼッタイお姫さま主義』(宝島社、2000年)、『自分を輝かせる25のちょっとした方法』(宝島社、2002年)、『つまらない毎日を変える26の方法』(大和出版、2003年)などである。
 さらに美術家としての活動は、従来の個展での発表形式に疑問を感じ、その都度相手を変えてユニットを組み、黒川潤との「DARK SEED」(2005-2010年)、大村益三との「ラディカル・クロップス」(2007-2009年)、そして加藤崇との「influence」(2008年)など、複数の美術家を誘い、自分で企画して展示の場を創り出す活動をしていた[11]。この頃はベリーダンスも習い、のちに教えることもしていたという(2003-2017年)。しかし2010年頃から作品が作れなくなって美術家としての活動を休止する。結婚をして千葉に転居し、二人の子どもを育てた時期でもあったが、作品が作れなくなったのは子育てもほぼ終わったころだったという。あまりにも超人的に多くの熱量を多方面(作品制作、美術教育、執筆、子育て、ダンス)に注いで来たので、疲れを感じたのかとも思ったが、前本によれば、ちょうどこの頃、新しい世代の美術家たちが台頭し始め、彼らの創る世界と自分の信じていた美術の地平とのずれを感じ、創作の意欲が湧かなくなったのだという[12]。
 作品を作れなくなってから、それでも何か作りたいともがく中で行き当たったフェルト手芸に熱中して、前本は「美術でないもの」「美術のかけら」として、自分が好きで身近なもの、猫、女の子、ナルト、噴火する富士山など、小さくて可愛い中にも毒やユーモアを含んだフェルトのブローチ、髪留めなどのアクセサリー類を作るようになる。そして高円寺に自作の雑貨の店「ストロベリー・スーパーソニック」を2016年[**]にオープン。お店の名前は、ベリー・ダンサーとしての踊り子名「ストロベリー」に音速「スーパーソニック」を付けたものという[13]。前本によれば、自分の居場所が欲しかったということでお店を出すことが目的ではなかったが[14]、結果的には今では[**]ボックスや壁面をギャラリーとして貸し出したり、若い世代の新しい仲間とツイッターを通じて知り合い、集まる場所になっていった。
 その後、2019年の80年代作品の回顧展の評判が高かったことと、あらためて見た過去の自作のエネルギーに勢いを得て、翌2020年にまず新作個展として15年ぶりに「宝珠神棚」展(6月28日-7月4日、コバヤシ画廊)を開催(fig.3)。美術の世界に復帰を果たし、さらに続いて2021年、絵画と立体作品の新作2点と80年代の旧作2点を対峙させた個展「紅蓮大紅蓮」の開催に至り、コロナ禍での東京都下に緊急事態宣言発令という逆風の中での開催だったが、みごとに美術家、前本彰子の復活を見せたのであった。


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fig.3《Gorgoneion》2020年 ミクスト・メディア 36×26×9㎝ 「宝珠神棚」展(コバヤシ画廊)より 画像提供:コバヤシ画廊


80年代の「超少女」、若い女性アーティスト・ブーム

 ここで個展「紅蓮大紅蓮」に並んだ新旧の作品について述べるためには、まず1980年代の前本彰子が、異例なまでに多くの重要な展覧会に出品した背景について振り返る必要がある。前節の活動歴で挙げた中で、1984年の「クリエイティブ '84―10人の女性画家」(有楽町朝日ギャラリー、東京)、1990年「Woman Artists of the Day―記号の森・現在の美術」(IMPホール、大阪)という女性だけの展覧会が開催され、ちょうどこの時期に『美術手帖』で特集「美術の超少女たち」(1986年8月号)が組まれたことに注目しなければならない[15]。「超少女」とはその後も長くキーワードとして、80年代に活躍してこの特集に入れられた当時30歳前後の女性作家(少女か!)について回る言葉となるが、そこに何か共通する美学的な概念や思想、様式的特徴があるのではなく、単に今、活躍する若い女性アーティストたちというようなゆるいくくりであったに過ぎない[16]。出典は宮迫千鶴の『超少女へ』(北宋社、1984年)だと推定されているが、椹木野衣も指摘するように[17]、宮迫が含意した当時のフェミニズム的な動向や「少女」を超える=否定する役割は、特集の「美術の超少女たち」には含まれていない。篠原資明によるエッセイ「超少女身辺宇宙」にも、「最近の女性アーティストの作品から私が受けた印象」として、「身近なもの、身辺性の含意を帯びたものへの愛、もしくは偏愛」が挙げられているに過ぎない[18]。幸いなことにと言うべきか、少し後の1990年代に台頭した女性写真家たちを指した「女の子写真」[19]という言葉ほど強いカテゴリーではなく、女性アーティストを「少女」「女の子」として軽んじ、ゲットー化する意図もそれほど強く意識的ではなかったものと思われる。
 しかしアメリカの美術批評家、ジャネット・コプロスが、「Woman Artists of the Day―記号の森・現在の美術」展に関連したエッセイ[20]で慧眼にも指摘するように、「超少女」という言葉はその後、「スティグマ(悪い徴)」として作用するようになる[21]。すなわち東野芳明ら当時の男性評論家たちが、女性アーティストたちを「超少女」として称揚して社会的なアイデンティティを与え、作品の自由さや新鮮さを讃えたにしても、彼女たちが若く魅力的な女性だというところに注目しているに過ぎないということである[22]。コプロスのインタビューに対して出品作家の一人、矢野美智子は、今、作品の発表の場には苦労しないけれど、それをアートとして真剣に扱ってもらうことが困難だと語っている[23]。


80年代の前本彰子の作品の意味と評価


 ここで最初に保留にした80年代の前本彰子の作品解釈に戻ってみよう。当時、前本の立体のドレスや招き猫などを貼り付けた突飛な作品はどのように評価されたのだろうか。前本自身の記憶によれば、当時の男性評論家による批評には、「おどろおどろしい」とか「どろどろした女性性」程度の言葉しか見当たらなかったという[24]。
 ここで再び、「記号の森・現在の美術」展に出品した日本人女性アーティストについて論評したコプロスのエッセイに戻れば、まずコプロスは、前本が、日本には数少ない特殊な社会的テーマや理論的に難しい主題を扱う作家だとする[25]。そして、1989-91年に北米を巡回した「Against Nature」展に出品した《Silent Explosion-夜走る異国の径》(1988年)(fig.4)について、強烈なフェミニスト的な怒りによる作品だと解釈する。紺青のドレスの腹部が切り裂かれ、紅い溶岩流のようなびらびらのついた布が床に流れ出し、背後の壁には同じく赤い炎が燃え盛っているこの作品は、まさに毎月経血を流し続ける女性の生理や性的な暴力を連想させるものだとコプロスは語るが、前本自身はそうした解釈については肯定していない[26]。そして同じく「Against Nature」展出品作の《Bloody Bride Ⅱ》(1984年)(fig.1)については、たくし上げられたドレスの赤い裏布にびっしりとつけられたたくさんのキューピー人形や小さい球、スパンコール、造花などが見えるが、コプロスおよび前本自身によれば、この作品には結婚して子供を産むという女性身体の運命(さだめ)に対する叛逆の意味を込めているという[27]。前本は上京してBゼミに通っていた頃から、外出して人に会うことに対する恐れがあり、パニック障害気味であったという。そうした精神的な不安定を抱える中で、自身が子宮を持たされた女性であり、出産役割を担わされていることに対する恐怖を感じていた。たくし上げられたドレスの中は、まさに女性の胎内のイメージなのだという。
 しかしコプロスが考えたようなフェミニズムの怒りという社会的なテーマとは違い、当時の前本は世の中の女性全体の問題ではなく、あくまで20代の若い女性である自身のリアルな感覚として、「出産の恐怖」を表現していた。前本は筆者の問いに対して、「私がもっと強く意識して世界(女性)全体のこととして前に打ち出していれば、日本の美術も少し変わったかもしれません。反省するところでもあり、そこを突っ込んでくれる批評家がいなかったことも残念極まりないです。」と語った[28]。確かに1980年代から90年頃の日本の社会や美術界では、フェミニズムの視点を持った批評などはほとんどなきに等しかった。例外は、「記号の森・現在の美術」展図録にエッセイを寄せた小池一子であろう[29]。しかし小池も個々の出品作品には触れておらず、前本の作品の批評は書いていない。
 実際、先述したように1986年には『美術手帖』が「美術の超少女たち」という特集を組み、1984年「クリエイティブ '84―10人の女性画家」(有楽町朝日ギャラリー、東京)の他、1985年の「第5回シドニー・ビエンナーレ」には安齊重男の推薦[30]により前本彰子と矢野美智子の20代の女性アーティスト2人が日本から出品し(fig.1,5)、1989-91年に北米を巡回した「Against Nature: Japanese Art in the Eighties」展の出品作家9人のうち、女性2人とは言え、平林薫と前本彰子が出品している。「クリエイティブ '84―10人の女性画家」展図録に東野芳明は、「彼女たちの作品が、一見、派手な色彩、素材の『図画工作的な』使用、ナイーヴなイメージの発散によって、抑制的な非表現的な70年代への反動と考えられやすいが…(略)70年代から学ぶべきものは吸収し」と断ったうえで、「揺れ動く自由な感性が織り出されている」、「ユートピア幻影のような世界」と書いている[31]が、東野の感覚的な言葉に過ぎず、評言にはなっていない[32]。そもそも片岡球子、桂ゆき、合田佐和子、荘司福、津田一江、前本彰子、三岸節子、矢野美智子、山本容子、吉澤美香という10人の作家には女性であるということ以外、何の共通点もない。
 しかもこの展覧会に取材した写真週刊誌『フォーカス』[33]の記事は、「なぜか美人で独身⁉ 『10人の女性画家』展に見る現代“女流”気質」というふざけたもので、内容も同様の「美人で独身」という共通点(?)を挙げたものに過ぎない。この中の年長者で70代の院展の画家、片岡球子、荘司福の二人を後ろに立たせ、若手の「美人」画家を前景に配した写真には、カメラマンの作為が感じられる。
 このように、1980年代半ばから90年頃に「女性画家」展がいくつも開催され、そこに当時活動を始めたばかりの20代~30代初めの若手の、「ニュー・ウェイブ」の女性画家たちがピックアップされて出品したにせよ、それは彼女たちが若いうちだけの一過性のもので、まともに個々の作品の内容を分析するような企画や批評は、日本の美術界にはほとんどなかったと言ってよい [34]。
 それではこのような状況の中で、若い女性画家としてもてはやされた前本彰子は何を考えていたのだろうか。『美術手帖』のインタビューで前本は、「今は女性も出てきたし、こういうのもはやってるし、パーッと今、もち上げられているけれど、これからかならず下り坂だと思うんです。それは自分でも意識しています。」と明晰に自己分析した上で、『花伝書』を読んで「三十半ばが勝負です。」と語り、「女・子どもの手なぐさみ」から出た自分の作品の中にも、「美術の根本となるべき大切な要素がある」として、それは「誰か他人のために」「心を込めて」つくることだと言い切っている[35]。前本彰子の創る行為はこの二つのキーワードによって、現在まで終始一貫していると言えよう。


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Fig.4 《Silent Explosion-夜走る異国の径》1988年 ドンゴロス布、アクリル絵具、石膏、ラメ 303×203×280㎝ 愛知県美術館蔵、画像提供:コバヤシ画廊


Fig.5 《Water in My Mind Ⅱ》1984年 ミクスト・メディア 228×228×21.8㎝ 個人蔵  画像提供:前本彰子 撮影:安齊重男


「紅蓮大紅蓮 前本彰子展」2021年


 そこで2021年、緊急事態宣言下で開催された個展「紅蓮大紅蓮」で、ほぼ16年ぶりに発表された大作の新作について見てみよう。ここで前本は今まで見てきた1980年代の代表作のうちから、重要な展覧会に出品して来た《Silent Explosion-夜走る異国の径》(1988年)(fig.4)と出品機会の少なかった《大紅蓮》(1986年)(fig.2)を再度展示し、それに対峙するように久しぶりの絵画の大作《火ノ魂国奇譚》(2021年)(fig.6)と立体作品《悲しみの繭》(2021年)(fig.7)を相対させた。
 《火ノ魂国奇譚》には、豊満な裸身にタトゥーのような唐草模様をまとった女神が左手を差し伸べる先に、巨大な赤い毛むくじゃらな生き物(猫)の頭部が上下反転して対峙する。女神の爪には赤い毛がついているので、彼女は右の巨大猫と争ったのだろう。しかし彼女自身のたなびく髪の毛も赤いので、右の巨大猫は彼女の別の姿・化身と読めないこともない。彼女が漂う青い海には、透明な球体・泡につかまる小さい人や猫の姿が見える。これはいったい何の情景だろうか。
 もう1点の《悲しみの繭》は、軍部が政権を掌握したミャンマーで民主化を求めて街頭デモをする市民が次々に犠牲になるという痛ましい事件を直接のきっかけに発想されたという。青い顔の面(人と猫の合体した顔)は、目を見開いたまま紅い涙を顔中に吹き飛ばし、口から犠牲になった人の数だけの赤い蝶を吐き出す。しかし制作中に犠牲者の数が増えすぎて、とても蝶を作り切れなくなったという。この猫人の面は耳と顎を金属の鎧で覆われて、白い蝶のかたちのフェイク・ファーを背景とし、最初に犠牲になった女性が生きていれば着たかもしれない花嫁の白いヴェールを床まで垂らしている。これもまた前本の創ったある種の神の姿であろう。民主化に生命を捧げた人々への思いを顕現する姿とも言えよう。前本は結局、展示しきれなかった蝶とヴェールの切れ端を、来観者全員[**]にお守りとして配った。ミャンマーの犠牲者市民への思いを来観者と共有することになる。この行為まで含めて、前本の《悲しみの繭》という作品と言えるだろう。
 こうしてみると一見、手工芸的な技法で作られた猫人面や、豊満で官能的な裸婦像にも見える絵画に、前本は世界の政治に翻弄され、苦しみもがく現在の人間の姿を表わそうとしているのが了解されてくる。女神の左右の眼球が違うところを見ているのは、世界をあまねく見渡すためか。彼女自身の身体は闘いで乱れてはいないが、彼女の圧倒的な力は右の獣の姿で表されているようにも見える。そして海面に浮遊するちっぽけな人や猫のかたちの生命の萌芽のようなものたちへの眼差しは優しい慈しみに満ちている。前本彰子のアートは、日本では珍しく社会的テーマを扱っているとした1992年のコプロスの批評が、この新作にも当てはまるのが実感される。現在に生きている前本は、ことさらに社会・政治的な事件をそのまま表現するタイプの作家ではないが、かつて東野芳明や篠原資明が「超少女」作家を概括したような、自分が生きる世界全体から逃避し、自分の周囲の日常だけに自閉する作家ではないのだ。「誰か他人のために」「心を込めて」つくると言い切った26歳のアーティスト、前本の信念は、その後の人生と少しの中断を経てもなお生きていたと言えるだろう。
 前本が1980年代にも裸婦像の絵画を描いていたことを、今回の調査で筆者は初めて知った[36]。今回の《火ノ魂国奇譚》の裸婦は、1989年の裸婦のような素朴な健やかさから隔たっており、より複雑な内面を抱えているように見える。そこには、1980年代の身体が不在の、空洞のドレスで女性を象徴した30歳前後の前本の心象から、大きく世界に視野を開いていることが観取されるのである。
 美術家、前本彰子が復活した今、今後、どのような女性像、女神たち[37]が創られていくか、たいへんに待ち遠しい思いである。それは、前本自身が1987年に自分が目指す作品として書いた、「見た人の価値観をひっくり返す、生半可な眼差しでは正視できないくらい強烈な“精神(スピリット)”を持つ、クリエイティヴなもの」[38]であるに違いないだろう。


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Fig.6 《火ノ魂国奇譚》2021年 アクリル、カンヴァス、パネル 162.1×260㎝ 画像提供:コバヤシ画廊

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Fig.7 《悲しみの繭》2021年 ミクスト・メディア 210×70×70㎝ 画像提供:コバヤシ画廊



1980年代の前本彰子の作品に関して、前本彰子氏およびコバヤシ画廊から多くの資料提供を受けました。記して感謝いたします。


前本彰子展「紅蓮大紅蓮」[1]


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脚注


[1]前本彰子展「紅蓮大紅蓮」コバヤシ画廊 2021年4月26日(月)-5月8日(土)
[2]「起点としての80年代」展、金沢21世紀美術館、高松市美術館、静岡市美術館、2018-19年。「ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代」展、国立国際美術館、2018-19年。他に、村上隆をキュレーションに迎えた「バブル・ラップ」展も80年代の美術を扱っていた。熊本市現代美術館、2018-19年。筆者はこのうち、「起点としての80年代」展を静岡市美術館で見たが、「ニュー・ウェイブ」展、「バブル・ラップ」展は見ていない。
[3]椹木野衣「月評第122回 泡と砂の中の80年代」『美術手帖』2019年4月号「REVIEWS」より(https://bijutsutecho.com/magazine/review/19465
[4]同上。
[5]しかし考えて見れば、1970~80年代生まれの学芸員たちにとっては、現在有名な作家の80年代の作品というのは未知で、それを「発掘」し、「歴史化」する喜びがあったのかも知れない。
[6]鈴木省三、諏訪直樹は、国立国際美術館の「ニュー・ウェイブ」展に出品していた。
[7]実際にその後、映画の背景装置としても使われた。「ロビンソンの庭」、山本政志監督、1987年。
[8]《宝珠物語》1985年を出品。同作品の初出は、1985年「臨界芸術 85年の位相」展、村松画廊。
[9]平間貴大「前本彰子インタビュー」https://note.com/qqwertyupoiu/n/n1844ebe91bf9
[10]ストロベリー・スーパーソニックのブログ https://blog.goo.ne.jp/love-pride-art/e/25e95465b675d7f99d97a12ddec7998a
[11]注9、および注10参照。
[12]前本彰子への電話インタビュー、2021年7月14日。平間貴大「前本彰子インタビュー」も参照。
[13]平間貴大「前本彰子インタビュー」。
[14]前本彰子への電話インタビュー、2021年6月29日。前本にはその後も何度かメッセージのやり取りで当時の心境などを聞き、資料などを提供してもらった。
[15]当時『美術手帖』の編集部員だった三上豊氏から、自分がつけたタイトルだったと口頭で聞いたことがある。
[16]この特集に取り上げられたのは、五十音順で飯田三代から綿引展子まで39名であった。『美術手帖』1986年8月号。
[17]椹木野衣「『アール・ポップ』から始める―80年代の美術をめぐって」、『美術手帖』2019年6月、pp.108-111。
[18]篠原資明「超少女身辺宇宙」、『美術手帖』1986年8月号、pp.66-71。
[19]これについては、当事者による研究と反論の書、長島有里枝『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ』(大福書林、2020年)を参照。https://note.com/misonikomi_oden/n/ne968e19d2447
[20]Janet Koplos, “Some Kind of Revolution ?”, Art in America, May,1992, pp.97-111, 153,155. 
[21]The “Super Girl” Stigma, Ibid.,p.105.
[22]Ibid.. コプロスは、東野芳明の以下のテキストを参照し、東野のこの文章は批評ではなく(女性アーティストの)自伝だと断じている。 Yoshiaki Tono, “Imagineering”, Artforum, Jan.1986,pp.72-75. 
[23]Koplos,ibid.,p.105.
[24]そういう類の批評文を今回は見つけられなかった。更なる調査が必要である。筆者が参照したのは、高島直之「ART in FRONT’86 都市へ都市から」、『美術手帖』1986年6月号、pp.142-143。Y.A.(秋田由利)、前本彰子の解説『THE EIGHTIES 80年代の美術』、コバヤシ画廊、1990年、p.86。
[25]Koplos,op.cit.,p.106.
[26]Ibid..コプロスによる前本彰子へのインタビュー、1990年6月26日。
[27]Ibid.,および筆者によるインタビュー(注12参照)。
[28]メッセンジャーでの筆者の問いへの前本の回答、2021年6月30日。
[29]小池一子「時代の記号への洞察力」、「Woman Artists of the Day―記号の森・現在の美術」展図録、編集:株式会社西武百貨店、発行:松下IMPビル竣工記念特別展実行委員会、1990年4月29日―5月13日、pp.6-7。アメリカ10名、日本6名の女性だけの出品者からなるこの展覧会の企画者が誰なのか、残念ながらこの図録には明記されていない。
なお、コプロスが指摘するように、アメリカ人作家は33歳から67歳まで年代が幅広いのに対して、日本人作家は27歳から35歳までと若い世代に偏っていた。コプロスのエッセイは、日本には中堅の女性アーティストはいないのかという疑問から始まる。Koplos,op.cit.,p.98。しかしこうした若い女性偏重の日本の美術界の風土は、現在に至るまで改まってはいない。出品作家を男女同数にするという「画期的」改革を行った2019年のあいちトリエンナーレも、日本人女性アーティストは40歳以下がほとんどだった。
[30]安齊重男(安斎重男と表記)「ビエンナーレ展に参加する若手アーティスト二人」、『婦人画報』、1984年1月号、p.286。第5回シドニー・ビエンナーレのディレクターはLeon Paroissienであり、彼自身が来日して出品作家の作品を直接調査したという。安齊の推薦で、当時20代の女性二人が日本代表に決まったのは異例であった。シドニー・ビエンナーレについては、以下に概要とビエンナーレに参加した出品作家2人の感想が掲載されている。『ルナミ・ジャーナル』33号、1984年7-8月。
[31]東野芳明「『10人の女性画家』展によせて」、「クリエイティブ '84―10人の女性画家」展図録、朝日新聞社、1984年、pp.4-6。
[32]東野によれば、同じ1984年に東野の企画により「戯れなる表面」という7人の女性作家展が開催された。「TAMA VIVANT'84 戯れなる表面」、TAMA VIVANT企画室、1984年。出品作家は、岩瀬京子、内倉ひとみ、杉山知子、松井智恵、安田奈緒子、矢野美智子、吉澤美香。岩瀬京子を除いて、「美術の超少女」にも登場する作家たちである。
[33]「なぜか美人で独身⁉ 『10人の女性画家』展に見る現代“女流”気質」、『フォーカス』1984年12月21日号、pp.20-21。
[34]1997年前後の一連の美術館の企画展は、ジェンダーの視点を取り入れた最初の波であり、それは当時、「ジェンダー論争」という批判を引き起こした。北原恵「日本の美術界における『たかが性別』をめぐる論争1997-98」、『インパクション』110号、1998年10月15日、pp.96-107参照。
また並河恵美子が芸術監督となり、前本も出品した2000年の「立川国際芸術祭2000」は、アジア各国からの招待作家も含めた女性アーティストだけの、ジェンダー視点による展覧会であった。
[35]「作家訪問 前本彰子 私を見ているワタシ」、『美術手帖』1983年11月号、pp.120-125。
[36]1989年なびす画廊の個展に出品された《誘惑》、《水の目玉、火の木の実》、《アバディーン・ベイビー》(すべて1989年)など。その他、木版画《極楽寺舞い》(1988年)でも裸婦が描かれていた。前本彰子氏の資料提供による。
[37]2020年の「宝珠神棚」展(コバヤシ画廊)は、まさにさまざまな女神像が鎮座する神棚が7点出品された。これは、ストロベリー・スーパーソニックの可愛い雑貨の制作から、美術家としての精神性を込めた制作に戻った最初の個展であった。
[38]前本彰子「日本現代美術家残酷物語」、季刊誌『WACOAワコア』第7号、1987年、pp.28-29。

[*]京都精華大学HPの沿革と大学からの資料提供、および本人に確認した結果、従来、京都精華短期大学絵画専攻科修了としていた前本の学歴は、京都精華大学短期大学部専攻科美術専攻修了が正しいことが判明した。
前本が修了した1979年から4年制の京都精華大学が開学したため、記憶の混乱が生じた。前本は短期大学の2年と専攻科の1年の合わせて3年、京都精華大学短期大学部に学んだ。
(編集注:論考公開直前に判明したため脚注とは別に追記する対応いたしました)

[**]2022年12月12日修正

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小勝禮子 KOKATSU,Reiko
1955年埼玉県生まれ。専門は近現代美術史、ジェンダー論。
1984年より2016年まで栃木県立美術館学芸員。主な展覧会に、「揺れる女/揺らぐイメージ」展(1997年)、「奔る女たち 女性画家の戦前・戦後」展(2001年)、「前衛の女性1950-1975」展(2005年)、「アジアをつなぐ―境界を生きる女たち1984-2012」展(福岡アジア美術館ほか、2012-13年)、「戦後70年:もうひとつの1940年代美術」展(2015年)など。共著に、香川檀・小勝禮子『記憶の網目をたぐる―アートとジェンダーをめぐる対話』(彩樹社、2007年)、北原恵編『アジアの女性身体はいかに描かれたか』(青弓社、2013年)など。2020年よりアジアの女性アーティストをめぐるウェブサイト「アジアの女性アーティスト:ジェンダー、歴史、境界」を管理・運営。
https://asianw-art.com/
https://researchmap.jp/laira0004701



修正 2023/09/26
・fig.5
 画像差し替え
《Water in My Mind》→《Water in My Mind Ⅱ》
・80年代の前本彰子の作品の意味と評価 第4段落
(figs.5)→(figs.1,5)
 


レビューとレポート第27号(2021年8月)