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ガーリーフォトの戦術――長島有里枝『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』  中嶋 泉


はじめに

 「女の子写真」。この言葉が聞かれるようになってから長い。だが最近でも「女」と「写真」の関係になんらかの意味を見出そうとする言葉は後を絶たない(例えば「インスタ女子」など)。しかし、多くの人々が一眼レフのデジタルカメラを使いこなし、カメラ付きスマートフォンが普及しきっている現在、この言葉にどれだけの有用性があるのだろうか。いや、そもそもあったのだろうか。
 本書『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』(大福書林)は、写真家で著述家の長島有里枝によって執筆され、2020年に刊行された。本書で説明されるように「女の子写真」とはもともと、写真批評家や評論家、研究者が、「1990年代前半に頭角をあらわした20代の女性写真家の作品」(本書2頁)を取り上げて作り出した呼称であり、特定の意味をともなった言説である。彼らいわく、「女の子」の写真は、撮影方法や撮影の対象に、共通する「女の子」的特性を持ち、「女性」ないし「少女」の感性を映し出している。すなわち、日常風景を、「あまり技術が要求されない」コンパクトカメラで、身近なものをファッショナブルに撮影し、セルフヌードを撮る……。本書では、長島が、自分自身も当事者であったこの「女の子写真」評論を相手取り、女性の撮り手に対するこうした期待や思い込みに、精緻な分析で挑んでいく。
 本書は、その学術的位置付けをするならば、ほかに類をみない日本の現代写真批評史であり、膨大な調査に裏打ちされた批判的写真論研究の書である。ただしここで問われるのは、写真論じたいが持つジェンダー構造であるため、本書はフェミニズム写真論と呼ぶべきものでもある。そしてここで長島は、主に二つのことを行なっている。まず「女の子写真」言説を批判的に読み直し、その妥当性を検証すること、次に、女性写真家の創造性を捉え直して新しい語りを生み出すことである。議論は基本的に時系列で進められ、全編を通してこの二つの試みが畳み掛けるように繰り返される。著者の切れ味の良い語りに引き込まれるように読み進めば、1990年代から2000年代にかけての写真文化が、重度にジェンダー化されてきたこと、そして女性による写真がその中心的現場であり、また抵抗の場であったことが、次々に明らかになるだろう。


女と写真言説

長島は、冒頭で一気呵成に「女の子写真」語りに対する反論を行う。


[…]そこでは若い女性の表現や創造物が不用意に「女性原理」と結びつけられ、「男性原理」が価値基準を形成する写真の本流から他者化される。若手女性写真家の台頭はコンパクトカメラの普及と安易に結びつけられ、肉体的にも知的にも、女性は男性に劣るという偏見が助長されている。表向きには若手女性写真家への賛辞の体をなす論考も、細部にミソジニーや偏見に満ちた表現が繰り返される、不愉快なものとなっている。このような「女の子写真」とは、女性写真家を未熟で「男性」に満たない存在とみなし、男性写真家に独占される写真表現の領域から周縁化するカテゴリーであるといえる。(本書5、6頁)


 そもそも「女の子写真」という言葉は、いつから、なぜうまれたのだろうか。著者はそれを、女性写真家の歴史のなかから探し始め、写真批評と女性写真家の関係から手繰り寄せていく(2章)。
 女性写真家は、「女の子写真」が現れたとされる1993年より前の、1990年頃日本で急増しはじめ、そのときすでに、女性を特殊視し、カテゴリー化する評論は始まっていた。木村伊兵衛賞を受賞した女性写真家の批評に見られるように、女性は過度にその身体性と結びつけられ、「知的」な撮影行為をするとされる男性写真家に対し、「自然」な創造行為を行う性的な対象とされた。その女性性は、さらに、「若さ」と結びつくことでより価値づけられるのだが、その「若さ」は他方で「未熟さ」と結びつけられる。こうした性別的語りは女性写真家にとっていかなる軛となるのか。著者は、女性作家は「留まれば幼稚で未熟、成長すれば価値を喪失する」、「“賞味期限”つき」(本書23頁)の存在であると論じる。女性である限りにおいて、「賞賛」されても「批判」されても、行先は特殊視されるか消えるかしかない。アーティストの性的差異化は女性の作り手に選択肢をもたらさないのだ。
 1990年代も半ばに差し掛かると、女性たちのヌードのセルフ・ポートレイトが登場し、写真言説のジェンダー化をさらに引き寄せるきっかけとなった(2、3章)。著者の調査によれば、女性たちの多くが1994年頃から、自分で自分のヌードを撮るようになり、それは「セルフヌード」と呼ばれた。ヌード写真は、撮る/撮られる、主体/客体、男性/女性という、二項対立概念の両極化が最大限に拡大される領域である。だから、自分で「撮り、そして撮られる」という両方の立場を担った女性のヌードのセルフ・ポートレイト には、この二つの関係性を撹乱させる意義があったはずだったが、「男たち」はこれをたちまち女性たちの「自己露出欲」の現れというスキャンダラスな解釈へと「矮小化」し、撮り手の性的身体を強調していった。著者、長島有里枝の初期作品『セルフポートレイト! 1、2』がUNRBANART#2に入賞したのは1993年11月のことである。著者が述べるように、自分や自分の家族のスナップやヌードを含めたこれらの初期写真も、先んじて写真家と被写体の権力関係に着目した作品だった。しかし撮影者としての作品コンセプトよりも担い手が「女性であること」への注目が習慣化しているメディアでは、撮ったのがほかならぬ「女の子」であったことが最大の関心事となっていく。


新進作家の論評では、性別に関わらず彼らの「若さ」を強調するレトリックが用いられがちであるとしても、男性作家が「チャレンジ精神旺盛な『男の子』」と呼びあらわされた場合、おそらく読み手は強い違和感を覚え、そのような論考の信憑性を疑う。にもかかわらず、それが「女の子」である場合には、やすやすと黙認される。(本書56頁)


この後HIROMIXらを筆頭に増え続ける女性写真家に、「女の子による写真」というカテゴリーが適用されるようになり、ついに「女の子写真」という、主客の関係があいまいな名称とともに、一つのジャンルに仕立て上げられていく。



「女の子写真」理論と「僕ら」のアイデンティティのあやうさ

 つまり、「女の子写真」は、「女の子」を写真制作の正当な主体としていない、あるいは主体にしないことを目的とする言説だった。著者は言う。


結局、「女の子たち」が「被写体」(客体)から「撮影者」(主体)へと役割を変えてもなお、彼女たちが鑑賞(あるいは監視)の対象だという言説は構築され続ける。若い女性を「僕ら」が支配し、消費するという構造は、温存されたままだ。(本書69頁)


 一見賞賛しているように見える「女の子写真」言説の特徴を、著者は、性別構造の他者化、つまり疎外と階層化の諸側面として解明していく(5、6章)。まず女性性に過度に注目する言説は、女であることを特別な魅力として語るいっぽうで、主流の美術潮流から差異化、周縁化し、それによって女性たちの創作活動を劣位に置く。また、「女の子」の性別と若さに評価の主軸を置くことで、それ以外の意味を置き去りにし、「女の子」らしくないとされる読みの可能性、例えば政治的意図や計算されたコンセプトが検討されることはない。そして、その言説は、呼称や表現を変えて再生産されていく。若い女性の写真をめぐる状況に関しては、この間、いくつもの対抗言説があらわれてきたにもかかわらず、「女の子写真」はさまざまな言葉で言い換えられ、延命され続けてきたのだった。
 それでは、これはどのような論理で可能になるのか。著者は、例えば、「女の子写真」の生みの親とも言える飯沢耕太郎の2011年の著書『「女の子写真」の時代』における理論的根拠を検証する(7章)。同書で飯沢は、「女の子写真」を「日本においてはじめて、女性原理が明確に写真の中に形をとった表現のあり方」(強調筆者)[1]であると評し、アーティストで写真評論家でもあった宮迫千鶴が1980年代に女性の写真を論じる際に示した「男性原理」と「女性原理」に基づいて説明しようとする[2]。彼は、男性原理として「緻密・コンセプチュアル・秩序づけ」を、女性原理として「ゆるみ・感覚的・偶然性」をあげるなど、宮迫自身ですら懐疑的であった性の二元論的ステロタイプをほとんど無批判に用い、それを現代の男女の写真家に当てはめていく。長島はこれに対し、「セックス」もまた、「ジェンダー」と同様に社会的構築物であるというJ.バトラーの理論を参照しながら、性の自然化された用法の誤謬を暴いていく。すなわち、女性原理があるために若い女性から「女の子写真」が生まれるのではなく、「「女の子写真」というカテゴリーで括ることによって」、それぞれに異なる試みをする若い女性の写真家が、「女の子」というセックスに自然化されているのだ。
 長島は、「女の子写真」理論の弱さを突きながら、返す刀でそうした表現を好む「僕ら」(その頃のカルチャー誌で流行していた男性の一人称)の脆弱なアイデンティティにも切り込む(3、4、7章)。
 著者が指摘するように、書き手が自分を「私」や「俺」ならぬ「僕」と名指すことは、自らを幼児化してみせ、書き手とその対象の間にある権力関係を隠蔽する働きがあるが、「女の子」と「僕ら」のあいだには、この頃、さまざまな性的関係性のレトリックが入り込んでいた。父娘関係だったりロマンチックな異性愛だったりするそれは、「僕ら」を一見無害な存在にみせ、「女の子のため」、「女の子にかわって」語っているようにみせる。だがなぜ「女の子」について語らねばならないのか? 著者は「女の子」たちに対する「僕ら」の過剰にも見える思い入れに注目し、彼らが「僕ら」と「女の子」の間に特定の関係を敷き、それを強調するような言説を振りまくのは、それまで受動的な「対象」だった「女の子」が「突如、主体となって彼らの前に立ちはだかった」ことの反動ではないかと指摘する。


おそらく彼らは、「女の子」たちを脅威と感じた――自分たちの(職業という)社会的役割を奪われるんじゃないかとか、見下していたものが対等あるいは自分を超えた存在になるんじゃないかとか、なによりそうした優位性を失ったあとの自分には、存在価値がなくなるんじゃないかとか――。自らの地位の“失墜”を免れるには、脅威の種が芽吹くまえに踏み潰す必要があった。その最も有効な手段が、若い才能を「女の子」という檻に入れ、それが美しい部屋であるかのように言葉を偽り、そこから出られない呪いとしての「女の子写真」の言説を構築することだったのではないか。(本書300、301頁)


 こうして、男性論者がリードしているように見える言論や彼らのアイデンティティは「女の子たち」に依存していることが明らかになっていく。「女の子写真」を必要としているのは、実に、「僕ら」、すなわち男性評論家たちなのである。


「ガーリーフォト」の戦術

 長島は最後に、「女の子写真」の語りによって奪われてきた、女性の作り手としての主体性、そしてその社会政治的意味を取り戻す議論を展開する(4、5、9章)。その際に取り上げられるのが、1990年代の女性写真家の活動と同時代の「ガーリーカルチャー」である。「ガーリーカルチャー」とは、男性中心主義的文化に対抗する若い女性(ガール)たちによって1980年代以降、主に特に英米で広まった文化実践で、ポップカルチャーやサブカルチャーと親和性を持ち、音楽やファッション、ジンなどを通じて現れた。彼女たちの、批判的にメディアを利用しながら、自発的に少女性、若い女であることを定義し直すというその傾向は、第三波フェミニズムとも呼応している。
 日本では、「ガーリーカルチャー」の紹介者たちが、長島やHIROMIXらをこの運動と関連づけて「ガーリーフォト」と呼び、彼女たちの写真に、男性たちによる「女の子」らしさとは異なる、自己規定的な「ガール」性を見出した。
 長島は、ここで「ガーリーフォト」という概念を持ち出すことによって、1990年代のヌードのセルフ・ポートレイト」(および、それと関連づけられる「女の子写真」)に別の解釈の余地があることを指摘する。すなわち、女性によるヌードのセルフ・ポートレイトは、1990年代に世間を騒がした「ヘアヌード」ブーム(写真にうつる陰毛の有無を騒ぎ立てる風潮)などに対して登場した、女による「社会の“視線”に対するプロテスト」(本書336頁)であった。たとえば、長島の初期写真にみられた、「バッドガール」風のイメージ。長島は自分のヌードを撮影していたが、それらは性風俗チラシ写真の「女の子」図像から、スキンヘッドの「逸脱する女」のイメージまで自在に行き来し、見る者の視線を撹乱する。ファッショナブルでもあるこれらの写真はまた、若い男性(ボーイ)を中心に展開してきたカルチャーのイディオムに対抗する、ガーリーな美学を示してもいる。この時期の女性によるヌードのセルフ・ポートレイトに象徴される「ガール」的試みは、これまでネガティヴな意味を担ってきたものを「脱構築し、ポジティヴなものへと再定義する戦術(tactic)」であり、自己の性に関する自己決定権を表明している。
 本書は写真批評論という性格から、具体的な写真分析については最小限に留められているが、1990年代の「女の子写真」と呼ばれた写真的実践を、この「ガーリーフォト」の戦術として見直すとどうなるか、最後に少し考えてみたい。
 日本の現代文化、サブカルチャーの男性中心主義は熾烈である。筆者は、著者である長島とほぼ同世代だ。私たちは幼い頃、遠目に「女子大生」を持ち上げる文化を目撃し、高校生のときには「女子高生ブーム」に遭遇している。つまり、欲望とミソジニーがないまぜになった「女」の商品化が、年々若年化し、エスカレートしながら続くのを目の当たりにしながら、20代にたどり着いているのがこの世代だ。その流れにおいて、1990年代文化の筆頭にあがるのが「ヘアヌード」であり、荒木経惟に代表されるプライヴェートフォト(私写真)の一傾向であろう。本書でも荒木は、「女の子写真」の流れを生み、支えた男性写真家の一人として登場するが、「女の子写真」がこれらの男性写真文化のなかで意味付けられてきたとしたら、「ガーリーフォト」は、写真のこの男性中心主義には与しない思考の枠組みを与えてくれる。
 長島の初期写真には、家族も含むヌードのセルフ・ポートレイトがある。本書でも強調されているように、これらの写真は、写真が作り出す、撮る/撮られる関係の権力構造に言及するものである。一般的に家族写真とは、極めて私的であるとともに、「家族」という関係を社会化するという点で公的なイメージでもある。さらに家父長制社会においては、家長である「父」がそれを主に撮影するという意味において、家族支配の欲望や所有を示す図像でもある。長島の作品のなかで、一般的な家庭風景としての家族写真――父母と姉弟が自宅の居間で前後に並び撮影される――が、その家族写真としての構図はそのままに全員「ヌード」になるとき、穏当な家族関係のイメージが拭い去られ、ジェンダーによって固定された役割を剥ぎ取られた、不安定で読み取りにくい個別の人間関係が現れる。それを撮っているのが、ほかならぬ「娘」であるという事実が、これらの家族ポートレイトを、近代写真の父権主義に対する、女からの挑戦にしている。すなわち、これらの写真をみたときに最初に目をつけるべきところは、「スキャンダルな被写体」ではなく、「ガール」に撮られる家族ポートレイトにおける新たな意味生成の局面なのである。
 「ガーリーカルチャー」が領域横断的に発生していたように、1990年代の長島の試みも狭義の写真芸術を超えたイメージ文化に応答するものである。長島の初期作品のセルフ・ポートレイト(「セルフヌード」と呼ばれた)は、上でも述べたように、性風俗風の扮装やピンナップ・ガール風のポーズを再利用して、自分を被写体に撮影している。手作りの痕跡が意図的に残されたそれらの装いは、観る者を誘い込もうとすると同時に、それらが「作られた」女性的記号でしかないことを瞬時に暴いてしまう。また、こうした長島の作品が独立したイメージではなく、写真集というかたちで発表されていることも重要だ。これらを含めた長島の最初の写真集である『YURIE NAGASHIMA』(風雅書房、1995年)では、こうした誘惑的な「少女」の写真の間に、坊主頭にピアスや指輪をたくさんつけ、ブーツカットのデニムを履きこなす「現実の」女性の日常生活の光景が挟み込まれている。そのパンキッシュな女は、鋭い眼差しをこちらに返し(あるいはこちらを見返さず)、「あなたのものにはならない」、と覗き見的視線を牽制しているようだ。こうした長島のヌードのセルフ・ポートレイトは、異性愛的な視線に媒介されたヌードとは別の実践だと言える。言い換えると、写真集のこうした実験的な作りによって、彼女の写真は、女性(ガール)の自己観察と分析のためのオルタナティヴな空間になり得ている。既存の女性を示す記号や逸脱的なイメージを再利用し、自分自身でそれを操り、再構成してみる。それは女性(ガールズ)が、自分がおかれた環境に抵抗し、自分が納得できる居場所を切り開くための戦術だ。こうした実践が、同じような境遇の若い女性(ガールズ)の心を捉え、「自分もやってみたい」と思わせたとしても全く不思議はない。それがおそらく「ガーリーフォト」のムーヴメントを生み出したのではないか。だがこうした女性たちの写真的試みの意味を正確に理解できるかどうかは、写真のジェンダー構造をどこまで意識的に見ることができるかにかかっている。長島の作品や「ガーリーフォト」をみるとき、人々は常にそれを試されているのだ。


おわりに

 本書を読み、「女の子写真」という言葉が登場してからの30年近い時間の経過を思う。著者は執筆のきっかけについて、1990年代当時受けた不本意な批評に対し、「反論することができなかったあの苦々しい気持ちに整理をつけ、失った自尊心を当然あるべき状態にまで回復したいという思い」(本書XI、XII頁)があったことを述べている。日本では批評家と作り手、特に男性批評家と女性アーティストの非対称が甚だしく顕著だ。写真史がはじまって以来、常に女性の写真家、写真の撮り手は存在した。存在したが、その存在や多様性を正当に位置付け、評価し、解釈する方法が十分にあったとは言えない。「女の子写真」という、(若い)女性の写真を一括しようとするこの言葉ほど、女性の写真に対する批評の貧困を語るものはない。だが著者は、そんな「女の子写真」について、無視するのではなく、あらためて取り上げることの必要性を強調する。彼女の「男性社会からの強い抑圧と、それへの抵抗の歴史という側面までを語り継ぐことで初めて、女性たちが誇りと尊厳をもって自らそう呼ぶにふさわしいものとなる」(本書277頁)という言葉は力強い。そして、女性による1990年代の写真の潜在的な抵抗の力を数十年ぶりに再評価、回復したのが、本書である。本書がほかでもないアーティスト本人によって書かれなければならなかったことの意味は重い。しかし、著者が連帯を呼びかけているのは救いである。


「[…]本書は写真を撮ることや、観ることが好きなすべての人々に向けて書かれている。わたしたちの持ってしかるべき自尊心が、特定のジェンダーだからという理由で傷つくことがもう無いように、という願いがわたしのなかにあり、本書に込めたその思いが必要な人に届けば、これ以上嬉しいことはない。」(本書XII頁)


 「女の子写真」の欺瞞が暴かれるそのさきに「ガーリーフォト」の可能性が見えてくる。その筋道をつけてくれたのが本書であり、この本「以前」と「以後」では女性が写真を撮ることの意味は大きく違って見えるだろう。撮られてきた女性たちはカメラを手にし、多様に異なる自分たちの女性的(ガーリーな)文化実践として写真を新たな表現空間、この時代を生き抜くための必要な戦術を提供するものにするのだ。


[1] 飯沢耕太郎『「女の子写真」の時代』NTT出版、p.iii.
[2] 前掲書、p.196.

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参考文献
『STUDIO VOICE』vol.243(特集:ヒロミックスが好き)、INFAS パブリケーションズ、1996年3月号
飯沢耕太郎『「女の子写真」の時代』NTT出版、2010年
長島有里枝『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』大福書林、2020年
―『YURIE NAGASHIMA』風雅書房、1995年
『長島有里枝 そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々。』(展覧会カタログ)公益財団法人東京都歴史文化財団東京都写真美術館、2017年

Gillis,S and Howie,G and Munford,R(eds.)Third Wave Feminism: A Critical Exploration, Palgrave Macmillan, 2007.


中嶋 泉
大阪大学大学院文学研究科准教授。著書に『アンチ・アクション―日本戦後絵画と女性画家』(ブリュッケ、2019、2020年度サントリー学芸賞受賞)他。

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「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトヘ
著者:長島有里枝 https://www.mahokubota.com/ja/artists/yurie-nagashima/ (MAHO KUBOTA GALLERY)
出版社:大福書林 https://www.daifukushorin.com/book.html

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レビューとレポート第24号(2021年5月)