【正月】だれかの不機嫌で、私の1日の気分が決まる場所【モヤモヤ】
毎年、正月はモヤモヤする。
なぜなら、血縁という縛りで集まらなければならないからだ。
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私には、家族というカテゴリーがよくわからない。
幼少期は、とにかく長時間一緒にいなければならない対象者の集団=家族だと思っていた。
自分の知っている家族とは、だれかの不機嫌で、私の1日の気分が決まる場所。
親による気まぐれな情緒と気分が、家庭内最優先事項。
しかし、それをきまぐれとして扱うことは許されず、絶対的な同調、神のごとき指針となって、押し付けられる。
1人の不機嫌が絶対になって、今日の場の空気を作って他人を操作する、そんな毎日だった。
それを毒親の態度とは知らずに、無垢な子どもは受け入れようと努力する。結果、大人になってもトラウマとなり、だれかのきまぐれさと態度は、絶対的押し付けを望んでいるようにしか目に映らなくなる。
フェミ系母子家庭×一人っ子の閉ざされた環境下の影響なのか、子どもの頃から、そういうきまぐれな人は恐怖を与えるパワハラにしか見えない。
それは親だけの話ではない。
他人の不機嫌は、自分の脳的に非言語コミュニケーションを用いたパワハラに感じちゃうのだ。私の目に入った誰かの気分は、いつだって自分の心を弄る罪悪感と隣り合わせである。
それは、PMSによるしかめっ面だろうが、
テレビの今日の占いで不機嫌になったことだろうが、
私にはこう見える。
「ふざけんな、おまえのせいだ、どうしてくれるんだ、くそガキ!」
それは、ジハード・十字軍、直立せねばならない教育勅語を叩きこもうとする姿と同じものにしか見えなかった。
永遠に逃れられない
「くそったれ」な認識だ。
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閑話休題
あるとき、とある人が言った。
「私は、ある人と昨日ばったり会って話した。」
「そして、また今日も見かけた。」
「けど、お腹いっぱい。2日間連続で会いたい人ではなかったので。」
「だから、認識はしたけど、話しかけなかった。」
その話は、とても興味深かった。
確かに、好意を持っている相手でも会いたくない気分のときがある。
それを言語化してくれた姿が目に映ったとき、自分の奥底からワクワク感を浮上させたのだ。
それは、家族にも当てはまると。
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自分にとっての家族とは、どうしても人生の拘束具に感じちゃう。
毎日が、親の気分と不機嫌に振り回されるのはもちろん、その原因と解消の対象は「私」とされていた。
そして、それ以外の方法を知る由がない、そんな環境だったから。
だから、好きで一緒にいる人は、
「家族だけど家族じゃない存在」
だとどこかで思ってしまっているのだ。
一方で、家族以外との関係にも影響がある。
今でも、
「あなたと一緒にいる時間はお腹いっぱい」
って言われると、"普通"に心が傷付く。
それは、幼少期に親から「私の不機嫌はあなたのせい」という、自罰的なスイッチを埋め込まれているから。
こういう感覚が珍しいとは自分で思わないのだが、機能不全ではない家族で育つと違うのかもしれないけど・・・
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考え出すと、だれかの不機嫌と気まぐれは、世界を滅ぼすきっかけかもしれないとか思い始めた。
現実はそんな大人が世界を生き続けている社会でもあるから。
それを安易に本人の問題として放置し、些細なことだと切り捨ててしまう空気は、何かしらの憎悪を生んでいる。無意識下を引っ掻き回すようにして怒りの琴線に触れる。
それは誰を対象としているかは"関係のない憎悪"として浮上し「救われなさの呪詛」としてネット上のテキストとしてあふれている。
そんなネガティブな情緒がたっぷり凝縮している現代では、だれかの不機嫌が、誰かの心に根深く突き刺さったままであることが、ことのきっかけとなっているように感じちゃうのだ。
今世界で起こっている紛争や弾圧や戦争といった"起こり"さえも、
どこか同じものに見えている。
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