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愛する人を亡くした後、何も残らないのは幸せなことか【葬儀屋が見た宗教の話】

日本で亡くなった方は、地域や宗教により違いはあれど
一般的にはひと晩かふた晩の時間をかけて、
通夜、葬儀、そして火葬という流れを辿る。


その間、集まった生きている人々の中心にいるのは
言わずもがな「故人様」
つまりは亡くなった方のご遺体である。


「亡くなっても、お耳は最後まで聞こえていると言われているんですよ」


葬儀屋はそんな言葉をよく口にする。
わたしはまだ死んだことがないので真偽のほどは定かでないけれど。
それでも葬儀屋としてこの言葉を投げかける。
遺された人にとって必要な言葉だと感じているから。


火葬までの間、「故人様」と過ごす時間は二度と取り戻すことのできない大切な時間である。
まるで眠っているかのように見える「故人様」に、生きている間に伝えられなかったことを問いかけ、生きている間にしてあげたかったことをできる限りしてあげて、最後の時を共に過ごす。
これは「故人様」がご遺体として存在しているからこそ出来るものであって、
たとえばご遺骨となってしまった後だと、なかなか同じようにはいかない。


それほどにご遺体は、多くの人の価値観では「生きている」に近いところに位置している。



しかし、中にはそうでない人々もいる。



人の死生観というもののほとんどは、その人が信仰する宗教
(もしくは宗教を信仰しないということ)に大きく依存する。
この世界には数多の宗教があって、その中には死について独特な考えを持つものもたくさんある。



前置きが長くなったけれど、
これはわたしが葬儀屋だったころに出会った、
とある宗教を信仰していたご遺族の話。



妻が亡くなりました。
私共はーーという宗教を信仰しておりますので、
そのつもりで宜しくお願い致します。


電話を受けた人によると、そんな第一声だったそうだ。
病院にお迎えに行った人によると、旦那さんは病院で大粒の涙を流していて、
親族であろうたくさんの方が旦那さんを囲んで涙していた、と。


大抵はご遺体にとりすがって泣く人が多いのだけれど、
そこにいる人々は亡くなった奥さんのご遺体に背を向け、旦那さんのもとに集っていた。
そんなことを聞いた。

(念のため申し添えておくと、ゴシップ的に話されていたのを聞いた訳ではなく
別の搬送に出ていて病院に行けなかったわたしがそのご当家を担当することになったので、情報共有として話してくれたのである)


さて、当時のわたしにはまだその宗教に基づいた葬儀の経験がなかった。
しかしご当家に不安感や不信感を抱かせる訳にはいかない。ただでさえ、担当が若い女だというだけで顔を見た途端「本当に大丈夫なんですか」なんて言われてしまうのが葬儀屋という世界なのだ。

先輩方に聞き込みをした。
皆「あそこの宗教は葬儀やらないよ」としか教えてくれない。面白がられているのか、先輩方もさほど経験していないのか。これでは何もわからない。


腹を括った。
ご当家が待つ親族控え室に向かい、ご挨拶をして、
本当だったら一番に故人様に手を合わせに行くのだけれど、敢えて何も触れずに本題に入る。



ーーをご信仰なさっているということで、そのことを踏まえて皆様のご希望に沿った形でお世話をさせていただきたいと存じます。
しかし、ご信仰をどこまで尊重されるかの程度や親族の皆様のご理解が得られるかなどによっても様々、過ごし方が異なってまいります。
一般的なご葬儀、という形はご希望でないかと存じますけれども、よろしければもう少し詳しくお話をお聞かせいただけませんか。



要するに、わからないので教えてください、ということなのだけれど、
幸い疑われた雰囲気はなく、喪主である旦那さんはこちらに希望を伝えてくれた。
そこで分かったこと。


その宗教では、死んだら何も無くなってしまう。
死ぬことは消えることで、お空から見守っているだとかそういうことも一切なく、
遺体はただ消えた後に残った抜け殻である。
その抜け殻である遺体に対して特別な感情を持つことはない、というか禁じられており、
よって遺体にお花を供えることなどをはじめとする一切の儀式は許されない。


もう随分前に聞いた話で記憶があやふやだったり、思い違いがあるかもしれないけれど、
大体こんな趣旨のことを教えてくれた。


「そこの宗教の人は葬儀をしない」とは、こういうことだったのだ。
故人様であるご遺体に関わる全ての儀式的行為は禁じられていて、
旦那さんはただ火葬の予約時間まで置いておいて運んでもらう目的でわたしたちに連絡をした、ということだ。


そこからの話は早かった。何せ、本来の打ち合わせで決めていくことが、その方々にとっては全て必要ないのだ。


お花もない。
お供えの食べものやお水もない。
祭壇、仏像、あるいは十字架、
会館の外に貼り出す名前の案内板も必要ない。
湯灌(ご遺体を洗い清めて着替えや化粧を施すこと)も、もちろん行わない。


お金を惜しんでいる訳ではなさそうだった。
皆さん身なりもきちんとしていて、旦那さんの名刺にはよく耳にする大きな企業の名前が書かれていた。
ただただ、何も必要としていないだけ。


棺すら、かなり渋られた。
何か適当な布で包むとか、そういうのでは駄目なんですか、と言われた。
火葬場はご遺体が棺に入っていることを前提とした設計がされており、棺に入っていればローラーの上に乗せて転がすだけで移動できるところを、布で包んだご遺体だとおそらく担いで動かさなければならない。燃やしても大丈夫な材質かどうかの確認も必要だ。
というか、棺なしの火葬を行った事例というのは今まで聞いたことがなかった。そんなことをすれば火葬場に居合わせた人も、ぎょっとしてしまって自分の悲しみどころではなくなってしまうかもしれない。
結局、火葬までご遺体の温度を低く保ってドライアイスの減りを遅くし腐敗を防ぐため、ということでなんとか一番シンプルな棺を選んでもらった。



お通夜は無かったけれど、その日の夜にはたくさんの人々が会館を訪れた。
奥さんはこんなに慕われていたのだな、と思ったし、
珍しい宗教は信者さん同士の結び付きが強いから亡くなった時にはほぼ知らないような人も来てくれたりするんだよな、と身も蓋もないことも考えていた。


ご遺体に当てているドライアイスの残量を確かめるために控え室に入ると、
旦那さんに呼び止められ、奥の部屋に招かれた。



沢山の人がここに来てくれていますが、
皆さんは死者を偲ぶ為に来てくれている訳ではないので、あなた方には決して誤解しないで頂きたいのです。
死を悼んだり、遺体に話し掛けたりする為ではなく、皆さんはあくまで遺族である私共に慰めの言葉を掛け、元気付ける為に来てくれているのです。分かっていただけますか。



旦那さんは切実な表情をしていた。
きっと予想より人が来てしまって、自分達にそんなつもりはなくても
周りから一般的な通夜のようなことをしていると誤解されること自体が、
この人にとっては背信行為であり、耐えがたいことだったのだろう。
大丈夫です、わたしたちは分かっていますよ、というようなことを返した。



翌朝、一番早い時間に火葬予約をしていたので
わたしは定時より大分前から会館に出勤し(いつもそうだったけれど)、霊柩車の準備をした。

火葬場に向かう時間になって、霊柩車の後ろの扉を開け、その前に棺を移動させた。
あとは皆で車に運び込んで、出発するだけ。
ご遺族の皆さんに声をかける。
これよりご出棺となります。霊柩車にお乗せしますので、皆様お手添えいただけますでしょうか。


それは儀式ですか?
旦那さんはその場を動かずに尋ねてきた。
私ももう心得ている。
いいえ、お棺は大変に重いので、わたくしだけでは動かせないのです。お手伝いいただけませんか。
旦那さんはわずかに安堵の表情を見せ、棺に手をかけてくれた。



火葬場に着く。
手続きが終わり、炉の扉が閉まる。

車を走らせ、ひとりで家に戻っていく旦那さんの姿を見送る。
骨は拾わないそうだ。
私共の考えではそのようになっております、とのこと。
だから火葬が終わっても、奥さんのご遺骨を目にする人は火葬場の職員さん以外にいない。



ここまで読んでくれた人は、この旦那さんのことを薄情な人だと思うだろうか。
奥さんを愛していなかったと思うだろうか。



そうではないのだ。
旦那さんは奥さんのことを真に愛していたと、わたしは感じていた。



親族の方がこっそり見せてくれたいくつかの写真には、夫婦ふたりで色んなところに旅行に行っていたのだろう、様々な景色の中で身を寄せ合うふたりが写っていた。
ちらりと見えてしまった旦那さんの携帯の待ち受け画像は、病室でふたりが柔らかく微笑んでいるものだった。
火葬場に行く日、喪服ではなく私服姿の旦那さんが着けていたマフラーは、なんとなく市販のものではないような印象だった。
誰かの手作りですか、なんて勿論聞けなかったから、本当のところは分からないけれど。
何より、ぽつりぽつりと奥さんのことを話してくれた旦那さんの表情が、全てだった。



死という恐ろしいものから心を救うために存在しているのが宗教だと、私は思っている。

死は分からないから怖い。
死んだあとはこうなるんですよ、ということを宗教から学び、既知のものとなれば恐ろしさが薄れる。
大切な人が亡くなってしまっても、神様の元で幸せに暮らしているとか、念仏を唱えればそこにいてくれるとか、そういった考えを信じることができれば辛さがほんの少しだけましになる。
そうやって人は救われる。
それが宗教というものだと思っている。



あの時、あの旦那さんは、
どんな形で宗教に救われていたのだろう。



わたしの価値観から見ると、まだ骨になっていない限られた大切な時間を「故人様」と共に過ごすことなく
手元には骨すら残らない、そんなの辛すぎやしないかと思ってしまう。

けれども、人の心を救うのが宗教であるならば
あの時の旦那さんは、宗旨に基づいた行いをしたことで確かに救われていたのではないか。



ならば愛する人を亡くした後、何も残らないことは
どんな救いをもたらすのだろうか。



あの日からずっと、わたしは考えている。




あなたの応援は、わたしの記憶の供養になり、続けることが苦手なわたしのガソリンになります。具体的にはおそらく記事に書いたことやあなたの存在に思いを巡らせながら飲むお酒になります。