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『幸福サブスクリプション』|下・短編

 その後世界が変わるのに、そう長くはかからなかった。半年後に計上された下半期の自殺者・行方不明者の数は過去最高で、でもそんなこと言われないでも分かるくらい、明らかに子供の声が聞こえなくなった。景色が心なしか色褪せて、ほんの少し、街が臭くなった。

 もちろんこうなるまでに、全くの抵抗がなかったわけではなかった。たとえば例の調査委員会が、「ブルーバードの服用を必ずしも否定するわけでは無い」という見解を度々認めてくれたり、厚生労働大臣が主導のもと、政府が手当たり次第の財政改革に励んだりと、色々な努力が毎日のように尽くされていった。でもそれでどうにかなるわけではなく、というのも予算不足や人手不足とかいう現実的な理由に留まらない、むしろ空想的とも言える沢山の思惑に足を引っ張られた結果、今日の日常が出来上がってしまった。

 「生き残り」なんていう如何にもな言い回しが、メディアやネットで頻繁に用いられるようになったのは、数か月前のことになる。別に間違えてもいないこの肩書きを、ただ無視さえ出来れば良かったものを、わざわざ流行語に取り上げて、あろうことか“魔女裁判”にまで発展させた最初の人物は、一体どこの誰だったのか。またほんの少し配慮の足らなかったこの冗談に、「デスゲームじゃないんだから」なんていう悪意の尾ひれをくっつけては、犯人捜しならぬ“裁判員捜し”を盛り上げようとした最初の輩は、一体どこの馬の骨だったのか。はじめこそ沢山の人が抗って、そんな話をしている暇じゃないと説得にまわろうとしていたけれど、そんな声も時が経つにつれ、だんだんと埋もれていった。今となっては、「こんな国じゃ当然の選択だった、名誉の自殺だ」とか、「自殺者は高卒・専門卒、とんで院卒エリートに多いらしい」とか、「鉄食器や陶器よりも安全な紙製品を使おう」とか、「死ぬ前に大切な人へ感謝のお手紙を」だとか、「生き残りはサイコパス」だとか、表現の自由を味方に、言いたい放題だ。

 そしてこうなれば最後だったのか、今では最早「誰が何を言ったか」なんてことを問題にする人は、世間からいなくなってしまった。以前は規制されていたSNSや広告、漫画、映画といった娯楽も、世の為かなんなのか緩和されていったし、またいっその事とち狂った方がマシとも言うように、痴漢、万引き、強盗、ひき逃げ、殺人だって増えてきた。私の妹が引きこもったのも、同級生から受けた強姦未遂が原因だったらしいが、私にはその同級生に罰を与えられる気力がないし、また彼らにも、罰を受ける余裕はない。私たちサイコパスは、今わの際目がけて全力疾走するハラハラドキドキ・チキンレースで、一人ひとり忙しく生きている。

 しかしこうはいっても、あれからの私自身に、大きな変化があったわけじゃなかった。職場で多少の異動があったのと、定期的なカウンセリングがなくなったのとくらいで、ちょっとの期間通院してからは、社畜たる毎日を続けていた。もちろん、私だけのサブスクも続けていた。本来なら通院も続けたかったけれど、どうやら私よりもよっぽど大変な、不幸の瀬戸際を歩く人が大勢いるようで、首の痣がなくなってすぐに、追い出されてしまった。

 また一度だけ、職場の先輩から治験バイトに誘われて参加したことがあったが、それも大したことはなかった。ブルーバードの失脚で、医薬品業界の諸企業はまたとないビジネスチャンスに直面したらしく、それも新サプリメントの臨床試験だったのだが、私にはいまいち、ブルーバードとの違いが分からなかった。確かに臭みがなくなって、ちょっと飲みやすくなったとは思った。ただ治験後のカウンセリング会場付近、涙ながらに叫び続けるデモ行進を見て、「この人たちは長生きできるのか」と考えた自分を憎んだきり、もうどうでもよくなった。
 
 *
 
 「ねえ、あの子見てきてよ」

お母さんが後ろから、私の肩をつっついた。少し見なかったうちに、白髪が増えている。

「うーん」
「あの子、昨日までは喜んでたんだよ。久々にお姉ちゃんに会えるって」
「なんていえばいいのか分かんなくて」
「明日になったらまた仕事なんでしょ。次にお休み取れるの、いつになるの」

 ぶつくさ言いながら私は腰を上げた。私から妹にかけられる言葉なんて何もない。それはお母さんも、妹だってわかっているはずだ。もし顔を見せるだけ、雑談するだけで変わるところがあるにしても、それはそれで私が会いたくない。そういうのが一番怖い。
私がドアをノックすると、これはオーク製なのかどうか、深い響きが向こう側で広がってから、「ん」という力ない返事が聞こえた。

「久しぶり」

困り眉で投げかける言葉じゃなかったな、と反省しつつ、妹の部屋を見渡す。優しいアロマの香り。意外なことに、一面よく整頓されている。

「……ドア閉めて」
「うん」
「元気だった?」

うん、と相槌しながら、今度は妹の全身を眺めた。明るい茶髪のポニーテールはよくとかされていて、前髪の触角は、迷うことなく真っすぐ重力に従っている。デニムのショーパンに、高校のジャージ。引きこもりという言葉が全く似合わないほどに、清潔な印象だ。

「このジャージ着てたの」
「え?」
「体育、見学しててさ。ナプキン取り替えにトイレ行ったら、囲まれちゃった」
「……」
「ラッキーだったよ。結局あいつらびっくりして、逃げちゃったもん。一応一人だけ『俺分かってっから』みたいなやつがいたけど、そいつも顔近づけた途端に梅干しみたいな顔をして」
「もういい。やめて」
「やめないよ。私はお姉ちゃんとは違う。逃げない。自分を傷つけるだけ傷つけて、それで幸せみたいな卑怯な真似、絶対にしない。そんなの不健全で、めちゃくちゃ気持ち悪い」
「うん」
「うんじゃないでしょ!? 恥ずかしくないの!?」
「恥ずかしいよ。でも死ぬよりはマシだから」
「ありえない。ありえないよ。じゃあ今すぐここで、その絆創膏取ってみせてよ。私も脱ぐよ。指の痣がまだ残ってるの。あいつらに掴まれてついた痣、三か月も経ってんのに全然消えない痣」

 半裸になった妹を、脇の下から持ち上げるような姿勢で抱きしめる。

「ごめんね。本当にごめん」
「あいつら殺したい。殺してもまた殺したい。でもそれだけじゃやだ。足りない。耐えきれない。死なせないで殺したい。殺し続けたい」
「うん」
「うんじゃないでしょ……」

 号泣する妹からは、それでも穏やかな森林の香りがした。

 妹の言う通り、私と彼女は全然違う。妹は強い。自分のことを第一に大切にできる、天性の才能の持ち主だ。一方の私は弱くて汚い、卑怯者だ。どれだけ自分がやつれて傷ついても、何かが守れているならばそれでいいと、守るものがない今だって考え続けている。

 どっちのほうが幸せ者なんだろうと、何度も何度も考えてきた。しかし毎度、分からず仕舞いだ。これも考えに考え抜いた末の結論というわけじゃなく、「どんぐりの背比べかぁ」という発想の転換であるあたり、やっぱり私は、逃げてる卑怯者なんだろう。更に「逃げてるんじゃなくて事実だから」なんていう予防線をこっそり準備しているあたり、とうとう大概にしないといけなさそうだ。

 そしてまた、大概にしないといけないということ自体は重々理解しているんだよと内心確かめるように繰り返しているあたり、本当に救いようがない。

 *

自分のマンションに戻って数か月後、お母さんから連絡が来た。曰く、妹が登校を再開したらしい。それはそれでめでたいことだけど、じゃあ例の同級生たちがどうなったのかというと、なんでもあの後に数人が行方不明になってしまって、それっきりなんだと言う。

『よかったね』

カマかけであり、また純粋な本音でもある労いの言葉を、妹に送りつけた。そうしたら数分後に『うん! 毎日が幸せ』という元気いっぱいの返信が来て、更に追って、剝き出しの歯で「ニシシシ」笑うキャラクターのスタンプが送られてきた。こんなの、私には死んでも出来ない振る舞いだ。改めて感心する。

 私は浴槽にお湯をためながら、買い溜めたカッターの一つを左手に取った。こっちの手の不慣れで安定しない感じが、最近の好みだ。こんなことにマンネリを警戒するだなんて、自分は本当に暇なやつなんだと思う。

 なんというか、「生き残りはサイコパス」というのも案外事実なのかもしれない。アイツも昔言っていた。「死にゆく人たちは皆、善悪のジャッジメントに夢中になった末、それでも何も変わらないと気づいたから死んでいくんだ」と。確かあれはとあるお昼時、ゼミの友達数人とアイツと私の計五六人で、食堂のテーブルを囲んでいた時のことだ。箸を持つアイツは、カツ丼のカツを器用に一口サイズへ切り分けながら、気味悪くにやついて、

「これは持論だけどね。きっと何もかも、下らなくなっちゃうんだよ。生きていたって死んでいたってくだらない。不幸も幸せも全部がくだらないと、考えるようになるんだよ」

「『“変わらない”ことに、絶望する』ってこと?」と首を傾げるのは、1年後に失踪したショートカットの彼女。

「いいや。好きの反対が無関心だと言うように、生の反対は死でなく、無だね」

それに「中二病っぽいな」と肩をすくめる、昨年捕まったらしいラグビー部主将の彼。

「そう思えているうちは幸せ者だね。おめでとう」

「他人事じゃん。もしもこの中で自殺者が出たらどうすんの」と、この翌日自殺したゼミリーダーの彼女——あれ、そうか。そういえば、ここで反論したのは私だ……悪いことをした。

「他人事でいいんじゃないの。他人事にしていないと、耐えきれないよ。全部が自分事になったなら、その時点で私なら死んじゃうよ」

その後しばらく場が沈黙してから口を開いたのが、今度こそアイツだ。その声も、今となってはハッキリ思い出せないけれど、でも言った内容は覚えている。

「まあ本当のところは、死にたくなってからじゃないとわからないけどね」

 きっと楽しいことも辛いことも、現実には平等に存在しているんだろう。ありていな結論はやっぱりありていなだけに的を射ている。そしてその平等なイベントに、私たちは首を突っ込んだり引っ込めたり、または引きずり込まれたりするんだろう。

 だからこそ問題は、そんなイベントをどう解釈するか、に尽きるんだ。ブルーバードよろしく、完全無欠の“幸福”そのものなんて、絶対に存在しないから。童話の兄妹が、青い鳥を「幸福」だと見立てたように、私はこの状態を、妹はあの状態を、とりあえずの「幸福」に仕立て上げた。それだけだから。

 ——そうなら、やっぱりここらで大概にして、打ち止めにしちゃいたい。疲れた——んじゃない。厳密には……そう、くだらなくなった。ああ凄い。本当にくだらなくなった。たとえ次の「幸福」が身近なところにあったとしても、こんな世界のどこかにあったとしても、よりにもよってこんな日常の中でそれを探さなくてはならないこと自体が、わざわざコストをかけて嫌な思いをしてまで考えなくちゃいけないこと自体が、もはや馬鹿げている。くだらない。やっていられない。いやでいやでしょうがない。何度も何度も、痺れる全身に確かめる。

 そうして私は産毛を剃る時と全く同じ、解説にも及ばない心情で、太ももの内側、深い深いところを摺り上げた。 

 *

『やっほ。生きてる?』

突然携帯が震えて、通知が表示された。久しぶりに見る名前だ。懐かしい。

『うん。生きてるよ』

ボーっとはしているけれど、意識はある。ていうか、めちゃくちゃ痛い。

『そっちは?』
『おお。毎日死んでるわ』

なんだそれ。冗談じゃない。
自分の笑い声が、つけたばかりの切り傷を、一層ヒリヒリ震わせた。 

-- 終 --


上下編です。
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