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『幸福サブスクリプション』|上・短編

〔ブルーバードは食後に三錠——〕
〔クサイ・エンドリフィンの良いところ——〕

 会場の前の人達は、複数枚並ぶお節介な看板を横目に捉えながら、長い長い行列が消化されるのを待っている。ここはこの区唯一の、第12回目・定期カウンセリング会場。今日は平日ともあって、並んでいるのはサラリーマンやOLばかりだ。多分私と同じように、わざわざこのためだけに午後休を取っている——もしくは取らされている人達だろう。

 クサイ・エンドリフィン。なんだか妙ちきりんな響きだけど、これはれっきとした幸せホルモン?のひとつらしい。恋愛をした時に溢れる脳内物質が、確かベータ・エンドルフィンとかいうやつで、クサイ・エンドリフィンはその“はとこ”みたいなもの……と、私の彼氏——正確には元カレが言っていたのだけれど、正直今でも、この関係性を理解できてはいない。ただとにかく、幸せホルモンだ。

 幸せホルモン。恋愛をしたり、美味しいものを食べたり、とにかく幸せになった時に、ドバッと流れる脳内麻薬。「麻薬」と言っても怪しいものではなく、人の体内で作られる神経伝達物質のひとつだ。これは、テレビの受け売り。

 ただこの読みづらい看板曰く、クサイ・エンドリフィンに限っては、そういう物質を人の手で組み合わせた“人造”脳内麻薬であるらしかった。こう聞くと胡散臭く思えるけれど、ある程度の安全性は一応立証済み。躁鬱になるとか、重病を誘発して寝たきり生活になるみたいな批判の数々も、時が経つにつれ下火になっていったことを覚えている。むしろ「クサイ」なんていう面白い響きが見過ごされる訳がなく、メディアやインフルエンサーを経由して、若者世代を中心に注目を集めていった。

 それこそ、関心を得るそもそものきっかけになったのが、確か若者の自殺率の上昇だった気がする。数百年前に、いろいろな不幸が重なりに重なった連続厄年みたいな時期があって、それ以来この国の自殺率がびっくりするほどに急勾配の右肩上がりになったんだとか。これは確か大学の授業かなんかで学んで、なんというか、全部が全部後の祭りなんだよなって、それくらいの感想しか湧かなかった。

 私の必修のクラスでは二人。妹の中学のクラスでは五人。急に来なくなったと思ったら、そのまま、いなくなってしまった。

 ともかく、過去は過去で今は今だ。今を生きる私たちは、やっぱり今を変えていくことしかできない。そうして練り上げられた努力と技術の結晶が、今日の定期カウンセリングなのである。この会場で発行される行政認可の診断書は、言ってしまえば、“ブルーバード”の無料引き換え券のようなものだ。“ブルーバード”というのは、どこかの非政府組織が開発したサプリメントのことで、なんでもクサイ・エンドリフィンの投与と分泌促進を兼ね備える唯一の代物であるらしい。三十錠で一万円近くするらしい幸せを、診断書があれば、薬局で無償で手に入れることができる。実際ここ数十年の自殺率は低下傾向にあるようで、私の元カレも「ベンサムの夢が実現したね」とよく分からないことを言いながら、何だか嬉しそうにしていた。少なくとも、社会が良くなっているのは本当のことみたいだ。

 *

 「はい、どうぞ」
 カウンセリングの内容に当たり障りはあるけれど、これが手に入るなら、私はそれでいい。薬局によって、ついでにほろよいとか買って、帰ろう。

 *

 『ねえ、あのさ』

画面上そこまで打ってから、私はアイツの名前をしばらく口にしていなかったことを思い出した。

『12回目って行った? 今日行ったよ』
『まじ? 俺全然だな。最後に行ったのは大学の頃だ』

つかさ、よりにもよってブルーバードじゃなくてもいいんだよ。何度も言ってるけど、気持ちの問題だし。プラシーボ効果ってやつ。いやまじで副作用とかはないけど、自殺率低下も、これはこれで結果論でしょ。別に相関が根拠で裏付けされてる訳じゃないし——、

『……まあだからさ、お前も過信しないようにな』
『分かってるよ』
『まずは、疑わないと』

だから浮気されたんだろ、とでも言いたいのだろうか。私は画面を閉じて、部屋のベッドに横たわる。

 私も私だ。私は社会を、他人を、自分を疑えない。疑うことがもう辛い。だからかな、この人に見捨てられたのも。その挙句まだ信じて、ストーカーみたく、チャットだけの関係にしがみついている。

きっと、ブルーバードについても同じなんだ。気持ちの問題だからこそ、私は信じることが出来ている。これを続けている限り、不幸にはならないんだって、そう思っている。

 思えている限りは安全なんだ。例えるなら拳銃のセーフティ。このサプリは、私の自殺を食い止めるための金属部品でしかない。でももしもこいつが壊れたなら、その時にはきっと全部が全部暴発して、全部が全部ダメになる。うん。

 これのどこが、幸福なんだろう。

 *

 翌朝。
私は気道が詰まっていることを思い出して、両足をバタつかせ、身を捩り、また捩り、吐き、泣き、やっとのことで首元の圧迫を取り除く。ベッドフレームやタオルと同じくらい、私も頑丈だったみたいだ。一丁前に嬉しいことが、なお恥ずかしくてしょうがない。

なんてったって自分の希死念慮を信じた結果がこの通りなんだから、つまるところ向こう数十年、こういう自分のことをすら疑わないといけなくなった。もう逃げ場はない。

 洗面所に向かい、鏡を正面にして首を回す。ゴリ、という関節の音。痣で出来た太めのチョーカーが、電球色のLED灯に照らされて気味が悪い。生暖かくてむず痒いし、これじゃ休んでも仕方がないだろう。なんにせよ私は、慣れた手つきで欠勤の連絡を入れた。焦る理由もなくなり、とりあえず一息。かといってあのベッドに戻る気にもなれなかったので、なんとなくその足でキッチンに向かう。冷蔵庫を開けて、寂しい棚奥に押し込められたいつかのヨーグルトに手を伸ばす。立ち上る酸っぱい香りにそれなりの葛藤はあったものの、ぼーっとした意識で小さじ二杯分くらいの量をすくい、パサパサに乾いた唇へ運ぶ。

 ——まっず。

別に食っちゃいけないものでもないだろうけど、私の両腕は必死に空を切り、近いはずのゴミ箱を掴もうとした。その蓋を開けた刹那、さっきのチョーカーも弾け飛びそうな猛烈な勢いで喉が開く。空っぽになっていく胃とは反対に、何をやってんだろう程度の羞恥心が、私の頭を占領していく。

 気づくと、外はだいぶ明るくなっていた。私はゴミ箱に手をかける形で倒れていたらしい。痺れる身体を起こしてから、カーテンを開けてテレビをつける。ちょっと楽になって、多少機敏に動けるのが分かった。

吐くのは初めてじゃなかった。五年前、アイツと付き合い始めてしばらくたったあの日から、吐いたり剥いだり切ったり——首を吊ったのは流石に今回が初だけど、こういう手段自体は定期的に取っていた。“定期的”というと、まるでブルーバードのようで皮肉めくけれど、実際私にとっては、これが幸福のサブスクリプションも同然。ブルーバードを服用するのを辞めたあの日から、これこそが私の幸せなんだと、そう思うようにしている。

私は臭いゴミ袋に蓋をするために、なんだかんだ捨てられずにいた未開封のブルーバードを、ただただ無心で投げ入れはじめた。半ばやっつけだ。

 きっかけは、アイツとの出会いだった。あの頃からアイツは、ブルーバードやクサイ・エンドリフィンには否定的な立場で、「そんなんに頼らないでも幸せになれるから」と、私のことを心配してくれていた。また私も、アイツの言うことには疑いを持てなくて——というより、この人とならそれもあり得るのかもしれないだなんて思っちゃって、ある日を境に、ブルーバードの服用をやめていった。最初は何度か憂鬱にもなったけど、それ以上に、普段の生活の質が上がったように感じられて、総合的には幸せだった。

 アイツの浮気は確かに不幸だったけど、そうはいっても、ブルーバードの服用を再開する理由にはならなかった。何故なら、服用を辞めてさえいればアイツがいつか戻ってくると、本気で信じていたからだ。私はそうやって、私個人の決断をアイツとの約束にすり替えて、一年、二年、三年。いつの間にか約束のつもりもなくなって、ブルーバードは当然のように、棚の奥に積み上がっていった。

 今日まで未開封のまま捨てられないでいたのは、多分、私が不安だったからだ。おかしな話、幸せになるために始めた我慢は段々と形だけのもの、むしろ不安になるだけのマイナスになっていた。私はそこまできてようやく、どうやら幸せになれるらしいブルーバードを再び服用しようとも思ったけれど、その時には今更諦めることが悔しくて、何が何でも自力で幸せになってやると、更なる痩せ我慢を重ねることにした。然しそれでも、お手軽な幸せを捨ててしまうのは末恐ろしくて、いざという事態に備えていった結果、今に至る。思えば昨晩こそ非常事態だったのに、どうしてこいつの服用を思いつかなかったんだろう。つらい時って本当に頭が働かなくなるんだなと、改めて思い知る。

 腐臭が立ち込めるゴミ袋に、埃の被ったブルーバードが混ざってしまった。これはものすごい光景だ。幸せの象徴なだけに、なんだか罰当たりのように思えてしょうがない。

——もしもアイツがこれを見たなら、一体なんていうんだろう。やっぱり「ベンサムが泣いてるよ」みたいなよくわからない言葉を、むかつく笑顔で零すのかな。なんなら拍手をするかもな。あと、もしもアイツが私の我慢を知ったなら、なんていうんだろう。褒めてくれるのかな。心配してくれるのかな。叱るのかもしれないし、もしかしたら、もしかしたら——、

『番組の途中ですが速報です——』
『——査委員会が、クサイ・エンドリフィンの安全性について——』
『——これを踏まえて——発売を一時中止するとの——』 

 嘘のようなニュースが、テレビから聞こえた。私は慌ててリモコンに駆け寄り、音量ボリュームを大きくする。さっきまでふんぞり返っていたコメンテーターが頭を抱えていて、また女子アナランキングで一位を取った彼女の目には、いっぱいの涙が浮かんでいる。司会者の声は震えていて、「若者の皆さん、大丈夫です。私たちは皆さんの味方です。どうか、抱えこまないでください。抱えこまないでください」と、何度も強く繰り返している。画面下側、慌てたように飛び出るのは相談窓口の電話番号。追って上側、誤字だらけの【速報】。


上下編です。
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