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自己承認こそが精神安定の鍵

自己承認とは、あるがままの自分や完璧ではない自分のことも承認することです。そうすれば、何かの条件を満たさなくとも、ただ生きているだけで、幸せな気持ちになることができます。しかし、それを妨げる制約(条件)を抱えていると、幸せになることの難易度が高くなってしまいます。

「〜という自分でなければならない」
「〜という自分しか認められない」
「〜失敗してはいけない」
「いい子でなければならない」
「優しい人でなければならない」
「優秀でなければならない」

このような自分を承認することに対する制約を抱えている人は、ただ生きているだけでは幸せを感じないので、必死でその制約を守ろうと努力します。嫌なことでも我慢するし、そのためなら、楽しいことも犠牲にします。

側から見ると、ただプライドが高い人のように見えますが、実情は他者からの承認がなければ自分を認められないほど、自己肯定感が低いということの表れなのです。生まれ育った環境が原因となるケースが多いように思います。

しかし、その自分に課した制約を守り続けるというのは至難の業です。まるで鞭を打たれて走り続けるようなものなので、いつか疲れ果てます。気力もなくなり、パフォーマンスが落ちるので、遅かれ早かれ、何か大きな失敗や挫折をしてしまいます。やがて自分に課した制約を達成することができなくなり、自分のことを「生きている価値がない」と感じてしまいます。それが適応障害や鬱病のはじまりなのではないかと、当事者の一人として思っています。(現在、双極性障害の治療中です。)

そして、そこがターニングポイントとなると、私は考えています。一つの道は、自己承認を目指す道です。具体的には、自分で自分の価値を認められるように人生観を大幅に変え、これまで自分に課していた(または親や社会に課されていた)制約を壊すことを目指します。自己承認ができるようになれば、自分自身で自立して幸福度を上げることができるようになります。

一方で、それが出来なかった、もしくは、しようとしない人は、自分で自分を承認することよりも、他者に承認してもらうことを優先します。いわゆる「承認欲求」にとらわれる道を歩むことになってしまいます。なぜかというと、精神的に飢餓状態に陥っている人は「藁にも縋りたい」心境なので、たまたま目の前に自分を承認してくれそうな"何か"があれば、施しを期待してしまうからです。

しかし、他人には他人の人生があり、100%自分のことを承認してくれる他者には出会えるわけがありません。なぜなら、あまりにも負担が大きすぎるからです。身体的な介護と同じくらい、精神的な介護も疲労が溜まります。我が子のお世話でさえ、ノイローゼになってしまう親がいるのですから、ましてや他人のご機嫌をとることなんて、凄まじいストレスがかかるのは無理もありません。

また、精神疾患を抱えた人のサポートを一般人が簡単にできるわけもありません。精神科医の自殺率が、他の専門医よりも高いことが、それを物語っています。あくまで、他人は自分を慰めるツールではないし、例えパートナーや家族だとしても「親しき仲にも礼儀あり」です。必要以上に相手に甘えて、癒しを求めるのは、支え合いではなくて、時間や労力の搾取となります。そんな自分のわがままに無償でいつまでも付き合ってくれる人など存在しません。

そのため、期待通りに他者が慰めてくれないことに対して、次第に不満が溜まり、少しでも優しさを与えてくれた相手のことでさえ、逆恨みしてしまうことにもなります。やがて、人間関係が希薄になり、孤独になることで、さらに精神的に飢餓状態となり、希死念慮が深まるか、自分を承認してくれる"何か"を探し回ることになります。そして、それが目的となってしまい、「手段の目的化」が起きることで、それ以外の解決策を模索する余裕も発想も無くなってしまいます。

また、承認欲求にとらわれる道を選択すると、自分を承認してくれる"何か"に出会ったとき、その相手に依存してしまうというリスクがあります。精神が飢餓状態なので、自分を認めてくれる相手のことを、まるで自分の命を救ってくれた神様のように感じてしまうのです。つまり、言葉を選ばずにいうと、ちょろいんです。当の本人からすれば、これまで自分のことを100%承認してくれなかったどんな人よりも、自分のことを理解してくれているように感じてしまいます。自己承認できない人は、誰かから承認されることが最大の価値となってしまうので、自分のことを褒めてくれるだけで、その相手のことを信じたり、好きになってしまうんです。

しかし、先程も書いたように、精神的に飢餓状態に陥っている人を100%承認するという行為は、ものすごく負担となります。はたして、そんな大それたことを無償でサービスしてくれる人なんて、この世の中にいるのでしょうか。

残念ながら、現実には、そんな都合の良い人は中々いません。普通に考えたら、分かるはずです。ご飯を食べて、仕事をしたり学校に行ったり、好きなTVを見たりしている間に、あっという間に寝る時間です。どこかの時間を削らない限り、他人にかまっている暇なんてないのです。

もしいるとしたら、それ相応の対価を交換条件に「承認を販売する人」だけです。その相応の対価とは、ある人には、お金だったり、奉仕や労働力だったりします。神様だと思っている人の正体は、幸運の仮面を被った、ただのビジネスマンなんです。中には、弱みに付け込んでかなり高額な商品・講座を販売しているような人もいますが、あくまで承認を販売しているだけなので、特に悪いことだと思っていません。ぼったくりだとしても人助けという意識なんだと思います。

そんな自分を承認してくれる"何か"に出会って、その対価となる高額なお金などを払っている人のことを、「怪しいからやめなよ」と周りは止めようとするかもしれません。しかし、自分の命を救ってくれた神様に対して悪口を言っている敵だと判断されてしまうので、例え本気で心配したとしても、その優しさは無下にされてしまうばかりか、攻撃の対象となってしまいます。そして、それこそが、その"何か"の思う壺だったりします。なぜなら、自社の商品だけを購入してくれるリピーターを確保できれば、収益は安定するからです。つまり、顧客を囲い込み、依存させることができれば、ビジネス的には勝ちなんです。

しかし、その何かに依存するということは、その何かがなければ生きてはいけないという関係性が成立してしまいます。生きるも殺すも、その"何か"次第です。やがて、その相手から承認を得るためだったら、どんなことでもしてしまうようになります。いわゆる、マインドコントロールです。ホストに貢ぐために借金をしたり、宗教団体の教祖から見放されないように大金を寄付する信者などが、例として想像できます。

そういう人のことを、「悪い大人に騙された被害者」「洗脳された可哀想な人」だという見方もできます。しかし、ドライに考えれば、「承認」という商品を自由意思で購入してるだけという見方もできますし、自業自得です。他人から承認されることに甘え、常に価値観を他人に委ね、ある意味、楽をして生きていこうとしている姿勢に帰責事由があるからです。そういうスキがあるから、損をしてしまうんです。例えば、高額なダイエット商品を購入してしまう人がいますが、食事や運動などに気を配れば、ある程度は痩せるはずですが、そういう努力をしたくないという甘えが心の何処かにあるから、高額な対価を支払うはめになるのです。

もちろん、どんな生き方をしようと人それぞれですし、それを否定する権利は誰にもありません。ただ、自分の人生を振り返ると、他人の承認を得ようとしていたことが、自分だけではなく、周りの人さえも苦しめていたと感じていて、そういう過ちを誰にもしてほしくないと思っています。

なぜ、自己承認ができないと周りを苦しめることになるかというと、自己承認ができないと、自分のことしか考える余裕がないので、誰かのことを自分から愛そう、大切にしようという意識が欠けるからです。「自分を承認してもらいたい」という承認欲求が優先するので、何をするにも「承認」という見返りを求めます。何をするにも「褒めてほしい」「認めてほしい」「嫌わないでほしい」という気持ちが最優先事項になってしまうので、相手からすれば、かなり押し付けがましい存在になってしまいます。

また、そもそも大切な人が不幸な顔をしているのは、それだけでかなり失礼なことだと思っています。周りに大切な人がいるだけで幸せなはずなのに、それを無視して不満な顔をするのは、まるでその人が側にいても幸せじゃない、価値がないと言っているのと同じじゃありませんか。不機嫌で不満げな表情をすることは、それだけで大切な相手に無力感を与える行為なんです。

少し私の話をすると、私の母親は、癇癪持ちで不機嫌な人間でした。大人になってからも、必ず不機嫌な声で電話に出て、夫や義理の母、兄の悪口を言って、いかに自分が不幸かを泣いたり怒ったりしながら主張していました。しかし、何を言っても、どんなプレゼントをしても、何回電話をしても、自分の不幸を嘆き、私に対しても「ずいぶん冷たいね」と批判をしてくる始末でした。私が辛い時には、何も支えてくれなかったのに。

それ以来、会社でのストレスと重なり、私の体調が悪化して現在に至りますが、今思えば、母親の醜悪な態度は、きっと自分がこれまで妻や周りに取っていたものと近い、決して他人事ではなかったことに気付き、現在ではものすごく反省してます。自分で自分を承認できないということは、自分だけではなく、周りでさえ不幸にします。そのことは、自身への戒めとして、心に刻もうと思っています。

また、他者への「承認してほしい」という欲求が強いと、自分の好きなことややりたいことがわからなくなるというリスクもあります。例えば、ブランド物を身につけようとも、学校で良い成績をとろうと、誰かにチヤホヤされない限り満足することができません。だから、自分の好きな物事よりも、誰かに褒められそうなカッコ良い物事を選択するようになり、次第に、自分の好きな物事がわからなくなっていくのです。また、褒められるために選んだ物事や考え方は、それを本当に好きで選んでいる人からすると、「にわかな人」「チヤホヤされたいだけの人」だと見抜かれてしまうので、尊敬されたり憧れられるようなことはありません。またブランド物を身につけても「ほら、私ってすごいでしょ」という見栄っ張りな思考になってしまい、その押し付けがましさが嫌われてしまう原因にもなります。

もし自己承認ができていれば、周りからどう思われるかなんてどうでもいいので、自分の心の満足感のために、自分の好きな物事を選択することができます。例えば、ブランド物を身につけるにしても、「この製品はとってもデザインがおしゃれだし、作り手のこだわりが感じられて、身につけているだけで幸せ。このブランド品を買うために仕事も頑張ったから、その頑張った証のようにも感じられて、とても嬉しい!」というふうに、心の満足に焦点が当たります。周りに対して変なアピールすることもないので、価値観の押し付けもなく、好意を持たれやすいというメリットもあるのではないかと思います。

また、注意しなければいけないのは、「〇〇すれば自分を承認できます!」「〇〇すればもっと幸せになります!」という内容の自己啓発書や宗教、セミナーなどです。中には参考になるものもありますし、心理学などに関する知識は自分を助けてくれるでしょう。しかし、あくまで、100人いれば100通りの方法があって、自分に合ったオリジナルの方法で、自分を承認しようとしない限り、いつまでたっても、モヤモヤが残るのではないかと思っています。それこそ、誰かに与えてもらおうという依存心や甘えがあると、誰かが良いと言ったことを盲信してしまったり、まるで信者のように、その相手の言いなりになってしまうのではないかと思います。

例えば、アンミカさんと全く同じ考え方や生き方をしようとしても、「アンミカもどき」にしかなりません。アンミカさん本人が100%のアンミカさんなら、それを真似している人は、どんなに頑張っても70%くらいまでしか到達できないじゃないかと思います。そういうアンミカさんっぽいインスタグラマー、たくさん見かけますよね。そんな他人のモノマネばかりしている人に自分の価値観は育ちませんし、せっかく自分自身の個性があるはずなのに、それを殺すことにもなってしまいます。それはすごくもったいないし、それこそ自己否定と同じなのではないでしょうか。

これまでお話ししたように、他人からの承認欲求にとらわれる道を選ぶと、いろいろな弊害があり、精神不調の根源なのではないかと、当事者として思っています。

ですので、勇気を出して、自己承認の道を選ぶことが、結局は一番の近道なのだと思いもますし、そのためには、「優秀な自分じゃないとダメだ」とか「親孝行しないとダメだ」とか、自分に課している制約・条件を一つずつ否定していくという地道な作業が必要なのではないかと思っています。おそら認知行動療法が効果的なのではないかと思います。

そして、承認欲求にとらわれいたこれまでの人生は、ものすごく辛かったのですが、それも一つの人生経験になったのではないかと思っています。会社を休職したり、双極性障害になったからこそ、得たものもたくさんあると思っています。ボブ・マーリーも次のように言っています。

「雨を感じられる人間もいるし、ただ濡れるだけの奴らもいる」

引き続き、私自身も双極性障害の治療中なので、自分で自分の幸せを作れるように、自己承認の道を選んで生きていきたいと思っています。

最後までご覧いただきありがとうございました。

【参考図書】
石原加受子『いつも「悩んでしまう」から抜け出すレッスン』
石原加受子『仕事も人間関係も「すべて面倒くさい」と思ったときに読む本』
加藤諦三『自分に気づく心理学』
岸見一郎 古賀史健『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』
橋本翔太『「他人からどう思われているか」気になったとき読む本
細川貂々 水島広子『それでいい。自分を認めてラクになる対人関係入門』
山岸涼子『天人唐草』
アンミカ『アンミカ流 ポジティブ脳の作り方』
A-Work『CATCH THE FREEDOM』(ボブ・マーリー名言集)

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