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命は皿のようなもの

「生きていることに感謝するべき」という考え方があります。命があるだけで恵まれているんだから、わがまま言ってはいけないという意味合いです。

しかし、「もう死んでしまいたい」と希死念慮を抱えるくらい傷付いている人にとっては、「生きていることに感謝するべき」という言葉は、自分自身を責める言葉にもなり得るので、危険な気がしています。

生きていることに感謝もできない自分は、なんてダメな人間なんだ…そう自分を追い込んでしまう理由にもなるということです。

そういう時期を経て、私が思うのは、「命は皿のようなもの」ということです。

皿に感謝できるのは、上に盛る料理がある時だけですよね。料理がない時は、特に皿に感謝することはないと思います。

命も同じで、楽しいことや嬉しいことなど、生きる喜びがないと、生きていること自体に感謝することは難しいのではないかと思います。

だからこそ、趣味や交友関係はかなり大事なんですよね。それがあるから、楽しく生きていられるし、逆にそういった喜びがない場合、生きていることに感謝できないのは当たり前なのではないかと思います。

そして、大切なのは、自分で自分を喜ばせることができる、自由な領域を持つということです。つまり、皿の上に乗せる料理は自分で用意するということです。

もし誰かに満たしてもらうことばかり期待していると、結局、その相手に依存してしまうことになるので、不満を抱きやすいし、それが相手の負担となってしまい、きっと人間関係もうまくいかないと思います。

そんな不安定なものよりも、例えば、もっと趣味を充実させたり、温泉や旅行に行ったり、運動をしたり、自立して自分を喜ばせることに時間を使った方が、何倍も有益なのではないかと思います。

ただ、それを妨げる考え方があって、「役に立つことをしなければならない」という思い込みです。自分の場合は、親にそのように育てられたので、趣味や旅行などに時間やお金を使うことに罪悪感がありました。昔、ギャンブルにハマっていた時は、ギャンブルで稼いだお金じゃないと、趣味や遊びにお金を使えないような罪悪感があったからだと、今になって思っています。

基本的に、趣味や旅行などの遊びは、役に立たないものです。もちろん、後々になって話のネタになったり、役に立ったという意見もあると思いますが、それはあくまで結果論です。全く役に立たない可能性も高いですし、はなから役に立つことを期待して行うものではないことは間違いありません。

そのため、自分が楽しいことや嬉しいことなのであれば、いちいち「これ何の役に立つんだろう…?」みたいなことは考えないということです。そもそも自分は誰かの役に立つための道具じゃないんです。そういう扱いをこれまで誰かにされたことがあるかもしれませんが、それは間違っています。それは労働者という立場でもきっと同じです。

皿の上に乗せる、綺麗で美味しい料理があるから、皿に感謝する気持ちが湧きますし、その料理は自分で食べるためのものじゃないとダメなんですね。

逆に考えると、誰かに対する優しさは、本来はその労力を自分自身に割くことができたのに、その人が身を削って与えてくれたものなので、ものすごい有難いことなんですよね。本来は自分で食べる分の料理を、譲ってくれるのが優しさなんです。

だから、それを当たり前だと思ってはいけないし、それを当たり前だと思う人には、あまり近づかないようにしようとも思っています。時間も体力も使うので、文字通りエネルギーを吸い取られるような気がします。

人生は短いので、本来は誰かに割く時間なんてあるはずないんですから。その上で、時間や労力を使ってくれる人には、感謝をするべきだし、最低限それができないなら、良好な人間関係は築けないのではないかと思っています。自戒も込めて、それを念頭に置いて生活したいと思います。

自分の体験談については、また別の機会に書きたいと思います。最後までご覧いただきありがとうございました。






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