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SNS炎上と自他の区別

基本的に、他人がどう思おうが、何をしようがその人の自由なんじゃないかと思う。誰かが自分と異なる考えを言っていたとしても、「そうなんだ」と思うだけで、それを否定したり、逆に自分が間違ってるだなんて思う必要もない。中には、「あなたは間違ってます!謝罪してください!」みたいな極端な反応をする人もいて、たまにそういう炎上がSNSでも起こるケースがある。

でも冷静になって考えたいのは、「他人が何を思おうが、何をしようが、その人の自由」ということ。そもそも他人なんだから考え方が違うのは当たり前。それでも公共の福祉や平和を保つために、法律やルールがあって、基本的にそれを犯さない限りは、誰かに批判される筋合いなんてない。

それでもなお、他人についてあれこれ口出すとしたら、それは自他の区別が付いてない証拠。おそらく生きづらさを抱えてしまう。また幼い頃から、そういう息苦しい教育を親や学校から受けていたのかもしれない。「私のいうことを聞きなさい!」と強く怒られたり、親の好む服装を着ないと不機嫌になられたり、馬鹿にされたりしたのかもしれない。

例えば、電車の中で、足組んでたり、足を開脚して余分な場所を取っている乗客がいたら、なんか気に入らないなーと思う。こいつぶん殴ってやろうか、とか、なんか不幸なことが起こればいいのに、とか思う。そう思うこと自体は、別に私の自由。性格悪いだの、心が狭いだの言いたい人はいるかもしれない。別に関係ないから気にしないけど。だけど、犯罪者にはなりたくないから、実際には殴ったりしないし、注意もしない。もし注意したとしても、そもそも初めからそんな気の使えないやつに何を言っても伝わらないだろうし喧嘩になるだけだから、ただそっと席を立ち、他の車両に移るのみ。それに、足を組んだりして幅をとることはマナー違反かもしれないが、法律違反とまではいかないし、もし注意するとしたら駅員の仕事だろう。

もちろん、この例えだと、大部分の人が、足を広げているやつのことを悪いと思うかもしれない。ただ、世の中には判断が難しいことも多い。例えば、席を立たない若者に腹を立てた老人が、無理矢理若者を立たせたところ、その若者は足を怪我していた、ということもある。もしかしたら、足を広げているやつも、股の病気か何かかもしれない。会社を遅刻している人がいたとしても、もしかしたら適応障害になっていて、毎朝電車に乗るだけでやっとかもしれない。

だから、結局、他人には他人の事情や考え、自分と別の価値観があるのだから、他人の言動が自分の価値観と異なるからといって、いちいち目くじらを立てないということが大事なのだと思う。その基礎となるのが「自他の区別」なのだし、それができていないと、世界は敵だらけのように感じてしまう。きっとSNSは、そこの区別が曖昧になりやすい構造をしているのかもしれない。アクセスするSNSは多様性溢れる世界なのに、自分が操作しているスマホ端末自体は自分の所有物なので、ついSNSで目にする情報も自分の所有物だと捉えてしまい、自分の価値観でジャッジをしてしまう作用が働いているように思えてならない。

また、もし自分の考えや価値観が倫理的に正しいと感じたとしても、「自分と異なる考えの人を否定すること」自体は、多様性を台無しにするような行為だし、それは、「自分の価値観を否定されてもいい」と、自分から進んで戦禍に身を置くようなものだと思う。否定されてもいい人間しか、誰かを否定してはいけない。例えば、ゴリラの村に行って、みんながバナナを食べてる中、自分だけコーヒーゼリーを食べてたら、おかしい奴だと思われるかもしれない。そこで、「異端者がいるぞ!」と追い出したい気持ちになるのは、動物として自然かもしれない。でも、そういった気持ちに従ってきたから、いつまで経っても学校からいじめがなくならないし、世界から戦争もなくならない。だから、そこで異端者を追い出したい気持ちに従うのではなく、「まー色んな価値観の人もいるよね。コーヒーゼリーを無理矢理食べさせてきたりしない限りは放っておこうか」という冷静な判断ができれば、きっと世界は1ミリくらい平和になるかもしれない。

つい考え方が異なる人を強く否定したくなる、啓蒙したくなるときが、私にもよくある。でも、その独善的な欲求に身を任せていては、ただ争いを生むだけ。そんなときは一旦立ち止まって、「別に他人の自由だよな」と考えるようにしようと思っている。そのような習慣が身につけば、逆に誰かに自分の考えや価値観を否定されたとしても「別に何を思おうが自分の自由じゃないっすか?」と思えるので、精神的ダメージも受けないかもしれない。

きっとSNS炎上を終わらせるのは、「自他の区別」なのだ。

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