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行動の動機の違いがストレスの大小を決める
同じ行動でも、後ろから蹴っ飛ばされて前に進むのと、前方の太陽を目指して走るのとでは、全く意味合いが異なります。人生においても、行動の動機の違いが、ストレスの大小を決めるのではないかと思っています。
例を出すと、私は「不機嫌で周りを困らせるような人にはなりたくない」と、昔から思ってきました。なぜかというと、不機嫌な両親の顔色を伺うのが、ずっと苦痛だったので、同じような思いを誰にもさせたくなかったからです。
しかし、それは、ある意味「過去に縛られていることにもなる」のではないかと、妻に言われてハッとしたことがあります。これはまさしく、後ろから蹴っ飛ばされて前に進んでいるのと同じではないかと思いました。
確かに、過去のトラウマが行動の動機となっていると、常に恐怖の対象に追い立てられているような感覚があります。そのため、「〜するべきではない」といった強迫的な考え方をしてしまうので、それを他人にも押し付けたいという心理が働きますし、神経症的に気にするようになってしまいます。
こういう生き方は、非常にストレスが溜まります。過去のトラウマを動機にすると、悲しみや怒りの感情に、少なからず毎回触れなければいけませんし、他人は思い通りに動かないので、他人に対して、期待と失望を抱いてしまい、人間関係を壊しかねないからです。
現在では、「短い人生だし少しでも楽しい時間を過ごしたいから」というのが、「不機嫌で周りを困らせるような人にはなりたくない」ことの動機となっています。不機嫌になっていたら自分も周りも楽しくないですし、そんな時間はもったいないですよね。
このように考えれば、「自分の幸福」という、まるで前方にある太陽を目掛けて進んでいるような感覚があるので、恐怖に追い立てられているような強迫感はありませんし、その分、余計なストレスはかかりません。
側から見ると、どちらも同じ行動に見えますが、種類は全く異なっているように思いますし、観察眼のある人には、簡単に見抜かれてしまうのではないかと思います。そういうことって、たくさんあるのではないかと思います。
他にも例をあげると、例えば、誰かに「優しさ」を貰ったとして、その動機が「嫌われたくない」「見返りがほしい」というものだった場合、何となく強制力を感じて、嫌な気分になる人もいるのではないかと思います。
一方で、「喜んでもらったら嬉しいから」という好意が動機となっていれば、表情からもそれが伝わりますし、その相手のことがもっと好きになりますよね。
もし何かの行動をするときに、苦痛を感じていたり、手が止まっているとしたら、もしかしたら行動の動機に何か問題があるのかもしれません。
それを見直すコツとしては、「〜しなければならない」と強迫的に思い込んでいることに対して、「果たして本当に〜しなければならないの?」「別に必ずしも〜しなくてもいいんじゃないの?」と疑問に思うことが、効果的なのではないかと思っています。
大抵の場合、「〜しなければならない」と思い込んでいることは、過去のトラウマが影響していたり、幼い頃に周囲の大人から恐怖心を植え付けられたことだったりしますから。
そういう誰かに押し付けられた考えに、反撃の狼煙(のろし)を上げることが、大切かもしれませんね。(反町隆史も代表曲POISONで「真っ直ぐ向き合う現実に誇りを持つために戦うことも必要なのさ」と言っています)
最後までご覧いただきありがとうございました。
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