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「自分には生きる価値がない」と思ってしまう理由について

こんにちは。AKERUです。

今回は、生きにくさを感じている人が、なぜ「自分には生きる価値がない」と思って苦しんでしまうのか、考えてみました。

まず、一つ目は、「人に対して期待をしてしまう」ということが、原因ではないでしょうか。何事も期待通りにならないのが人生ですし、特に他人は思い通りになりません。みんな色んな価値観や事情を抱えて生きているからです。

そして、忘れてはいけないのが、自分も期待通りにならないということ。例えば、もっと頑張りたいと思っても、頑張れないときもあります。毎日ジョギングしようと思っても挫折することがありますよね。

そんなときに、期待はずれだとガッカリして、自分のことがダメ人間だと否定するから、「自分には生きる価値がない」と落ち込んでしまうのです。

ですが、何事もずっと上手くいくわけではないし、毎日コツコツ努力できないこともあります。自分の場合、会社に行こうと思っても過呼吸で玄関先に座り込んでしまうこともありました。

そんなときは、自分に期待をせずに、「そんなこともあるよね」「仕方ないや」と思えれば、かなり生きやすくなるのではないかと思います。きっと同じような体験をしている人は世の中にたくさんいると思いますし、ググればすぐに検索にヒットする時代です。(本当にネットがある時代に生まれてよかった…)

次に二つ目は、「幼少期から家族間で形成してしまった役割を演じている」から、「自分には生きる価値がない」と悩んでしまうと、自分は考えています。

例えば、バンドのボーカリストの価値は、間違いなく「歌うこと」にあります。もちろん盛り上げたり、作詞作曲したり色々ありますが、基本的には歌わなければ、ボーカリストとは呼べません。

他にも会社の方針を決められない社長に価値はありませんし、いじめを見て見ぬ振りする教師に価値はありません。ある組織の中で求められる責務を全うするからこそ、その人に価値は生まれます。

ただし、バンドのボーカリストが歌いたくないのであれば、バンドを辞めたり、他の楽器に役割をチェンジすればいいだけの話です。リーダーシップがない社長や生徒をきちんと指導できない教師は、辞めて転職すればいいだけの話です。

しかし、幼少期に両親から与えられたような役割は、生存するために両親に頼らざるを得ない力の弱い子どもからすれば、その役割を止めることは「死」を意味します。そのくらい幼少期に与えられた役割は、「〇〇じゃなければ生きてはいけない」といった強迫的なものになります。

例えば、両親から「偏差値の高い優秀な子ども」を役割として与えられてしまった場合、偏差値の高い学校に入学できなければ、その子どもは役割を全うできないことになってしまうため、自分のことを「生きる価値がない」と責めてしまうことになります。

また、自分の場合は、すぐ不機嫌になる母親の愚痴を聞く、「優しい子ども」でいることが「役割」のようになっていました。しかし、そんな子どもに甘える精神的に未熟な母親が大きな負担となりました。自身もうつ病になってしまったことから、母親の愚痴を聞くことを辞めましたが、そんな自分に対して罪悪感を持ってしまっていました。

きっと「優しい子ども」という役割をずっと演じてきたからこそ、「優しくできない自分」は家族の中で生きていくために必要な役割を演じることができないという
ことになるため、「生きている価値がない」というロジックが成り立ってしまい、生きていることに罪悪感を抱いてしまったのでしょう。

先ほど例に出したバンドのボーカリストや社長や教師であれば、その役割を辞めても、「生きている価値」自体は否定されません。一方で、両親から与えられた役割は、その家族の中で生きていてもいいという免罪符(許可)を自身に与えるようなものなので、無意識に自身の「生きていてもいい理由」として思い込んでしまうのです。

自分は最近になって、そんな両親に期待された役割を完全に否定することにしました。なぜなら、嫌なことは嫌だからです。嫌なことをしていれば、胃が痛くなります。できるだけ嫌なことではなくて、好きなことに時間を使いたいですよね。自分の人生なんですから。

もちろん、親が子育てをするのは、当たり前です。シンプルな話、育児放棄や虐待は犯罪ですし、倫理的にも許されることではないはずです。個人の話ではなく、社会全体の利益のために必要です。(だからといって、感謝をしないという話しではありませんが、子どもが親のために役割を演じることと同列に扱っていい問題ではないというだけの話です。)

幼い頃から与えられた役割を演じることをやめれば、「〇〇じゃなければ生きてはいけない」という呪縛から逃れることができると、自分は思います。

例えば、「家族に優しい自己犠牲的な子ども」という役割を与えられた人は、優しくしたくないときは、優しくしなくたっていいんです。それが自分にとって不利益なら、堂々とNOと言っていいんです。人間の自由意志は尊重されるべきです。その役割を演じるのを辞めても、生きている価値はなくなりません。

その場合、両親からは「期待はずれ」「がっかりだ」「そんなの子どもじゃない」「親不幸者」「どうせ私は悪い親ですよ…!?」「悪い親でごめんなさいね…(泣)」といったような、うんざりするようなリアクションがあるかもしれません。

ですが、人から承認を得るために生きているわけではないですし、自分の人生に責任を持って、より幸せにいきていくための選択なのであれば、むしろ立派だと自分は思っています。

ということで、今回は、「自分には生きている価値がない」と無価値感に悩んでしまう理由について、大きく二つに分けて考えてみました。

最後までご覧いただきありがとうございました。







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