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大劇場前方席の世界 ー古参ファンAさんの場合ー

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その人は開演15分前にやってきた。
私は緊張と不安のあまり、30分前の待ち合わせのところ45分前からこの門の前で待っていた。


これから開演の舞台チケットを今現在私は手にしていない。
「掲示板」で知り合った人に譲ってもらうためだ。


待ち合わせ時間である30分前からはもう心臓のドキドキがおさまらない。

「このままこなかったらどうしよう」

このあとの公演チケットも持っているとはいえ、日が昇る前に起床し、いそいそと支度してきた私にとってがっかり度はハンパない。


その人がやってきたのは開演まであと15分という、私にとってはギリギリの時間だった。



その人を仮にAさんと呼ぶことにする。
Aさんは綺麗にセットされた髪にシャネルスーツのようないで立ちで現れた。
ひと目で上品なお金持ちのご婦人とわかる。

さすが5列目のチケットを持っている人だ。

私はいままで観劇してきた中で知り合いらしき人をつくってこなかった。
というかできなかった。
席はいつも二階席。立ち見も多かった。
それがいきなり前方席に座るのだ。


Aさんは私がいままで知っていた層とはあきらかに違っていた。



「さあ、行きましょう」

Aさんはさっそうと中に入っていく。
もちろんショップもレストランも、そして会のチケット出しもスルーだ。


私は会の席をもとめるファンの行列を横目にながめながら、そそくさとAさんの後ろについて歩く。


チケット受け渡しをした入り口で先ほどちょっと立ち話をした。
そのときAさんには私の事情を少し話してあった。
遠くから来た私をもてなそうと思っての行動だったのだろう。
Aさんは私をグイグイとエスコートしてくれた。


「もう中に入ってしまうけどいいわよね」

私は「はい」とうなずいた。



劇場内に入るとAさんはためらうことなくズンズンと前に進んで行く。
いままで1階席の真ん中以上に行ったことがない私は、通路を一歩進んで行くたびに背中がヒヤっとした。


「はい、入って」
Aさんは私に良いほうの席を案内してくれた。
「私は今日こっちでいいから」

5列目、ほぼ真ん中だった。
もうここまでくるとどちらの席でも最上級の良席だ。

「え、悪いですから」と私が遠慮しようとすると
「いいのいいの、いつも見てるから」と言ってくれた。


心臓が破裂寸前とはまさにこういうことを言うのだろう。
銀橋が目の前に見える。
もちろん前方にはまだ4列あるのだが、私にとっては目の前以外のなにものでもなかった。

「ここを椿が歩くんだ」

そう思ったらかぁーっと身体が熱くなる。
「緊張しますね」
私はAさんに声をかけた。


「あ、もう開演よ」
笑顔でAさんはバッグに手を置いた。






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