Review 11 ドップリ
これは何のリサーチも何の前知識もなく、たまたま偶然、書店で通りがかりに見かけてピンときたコミックスだった。
この顔にピンときたら、というが、私はテオドール・ジェリコーのことは正直何ひとつ知らなかった。ただ、この表紙は美しいと思った。美しくて、そして陰りと狂気が見える。
帯にはこんな風な惹句が書いてある。
いやはや。かろうじてドラクロワは知っている。フランス革命の絵の人だ。『民衆を率いる自由の女神』の人だ。ショパンの肖像画の人だ。
そして平野啓一郎さんが推している。瞠目、とまで言っている。ああそうか、『葬送』からのドラクロワか!読みたくてまだ読んでいなかった。
1,100円。コミックにしては少々お高い。もちろん今どきは中をめくって確認することはできない。でもこの絵には価値がある、と私はその場で購入を即決した。漫画はなるべく衝動買いをしないようにしているのだけど。
ウジェーヌ・ドラクロワ。19世紀のロマン主義を代表する画家で、ルノワールやゴッホなど数多くの画家に影響を与え、ショパンやジョルジュ・サンドとも交流があった。
テオドール・ジェリコーに影響を受け、その夭折を惜しんだ、と、ウィキペディアではたった1行の説明しかないが、この漫画はその、同じ師匠に師事した兄弟子テオドール・ジェリコーの伝記である。
日本語でテオドール・ジェリコーについて読める資料は少ない、ということで、どうやら書店などで買える書籍で彼について詳しく知ることは難しいようだ。この漫画では、ドラクロワの視点からも描かれることでうまく補填されているのだろうと思う。ドラクロワ自身も絵のモデルになっていた。
帯の惹句ではわかりにくいが、この「人を食わねば生きられない舟」というのは、1816年にモーリタニア沖で座礁したフリゲート艦“メデューズ号”のことだ。
沈みゆく船からその場で作られた筏には150名近くが乗っていた。もともと400人ほどの乗客がいたメデューズ号には避難用ボートがあったが250名しか乗れなかったので、残りの150名が沈みそうな筏に乗り込まざるを得なかったのだ。
フランスはこの筏の捜索を積極的に行わず、13日間漂流した末、同じ船団だった他の船によって偶然に発見された。生存者は男性のみ15名。漂流期間中、筏の上では飢餓、狂気があり、殺人、食人などが行われたという。
思わずこの映画を思い出してしまった……
閑話休題。メデューズ号に戻ろう。
フランスは当時、ナポレオンが追放され王政復古、さらにナポレオンの復活と、政治的・経済的に非常に不安定な情勢だった。王政復古政府は当初この事件をひた隠しにしたが、結局は明るみに出て国際的なスキャンダルとななる。
画家はパトロンからの依頼で絵を描くということだけではない道を探り始めていた。友人を通してこの船の生き残りに接触したジェリコーは、この事件を題材に大作に挑戦するのだが、リアリティを追求するあまり死体を集めてきてアトリエに放置するなど、次第に取り憑かれたようになっていく。
最近、これ系のものを観たぞ。取り憑かれてしまった話。どこかで……
ああっ。またまた話がそれてしまった。
さてこの『ジェリコー』では、ジェリコーの狂気への道のりがとても丁寧に描かれている。おそらく強く憧れていたのであろう、かの「神のごとき男」ミケランジェロのように、人間の極限を見つめることで人間という存在そのものに迫りたいという気迫がよく伝わってくる。「近代絵画の先駆者」と言われるジェリコー。先駆者というものはたいていの場合、前の時代と次の時代に引き裂かれ、理解されず、苦悩する。
ジェリコーが27歳の時に描いたこの『メデューズ号の筏』と題された絵は、サロンに発表されて賛否両論の渦を巻き起こす。しかし、ジェリコーが望んだような評価は得られなかった。現在はルーブル美術館に所蔵されているらしい。もし私が何の前知識もなくフランスを旅し、この絵を観ていたら、きっと陰鬱な絵だという印象しか持てなかったかもしれない。でも今は、この絵を直に見て見たい、と思っている。
表紙の絵は、半分が馬だ。これがなぜなのかは、本編を読んでいただくのが一番だろうと思う。32歳で世を去った早熟の天才の人生に様々な形で絡んでくる馬。読んでから表紙を見ると、また感慨深い。なにか、1本の映画を観たような気持ちになる漫画だった。しかもどっぷりフランス映画。愛と狂気が詰まっている、あの濃厚な密度が、この本にはある。作者の中原たか穂さんはこれが初単行本だという。この絵の美しさには強く心惹かれる。これからのご活躍に期待したい。
最近は、原田マハさんが人気とあって、西洋美術や絵画に注目が集まっている。そんな今だからこその、『ジェリコー』かもしれない。
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