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Review 16 アミチエ

 フィンセント・ファン・ゴッホについて、私が特に印象的に記憶している事柄といえば、1987年に安田火災海上保険(現:損保ジャパン日本興亜)が手数料込58億円で落札した「ひまわり」のことだ。

 時はバブル真っ只中。このニュースはセンセーショナルに日本中を駆け巡った。私は18歳で、大学に進学する春だった。

 当時は自分のことに夢中だったので、世間で絵画について大騒ぎしているのを、冷めた気持ちで見ていた。自分とはあまりにも関係のない話だと思っていた。

 「日本人(日本企業・日本経済)はこんな名画を買うことができるまでになったんだ!」という「アートバブル」と言われた当時の空気に対しても、「狂騒の極み、落札価格が異常」だとか、「芸術的価値などわからず金にあかせて」と、国内外から揶揄されていたのも、ふーんと思っていただけだった。その後どこかの会社の偉い人が、ゴッホとルノワールの絵画を「死んだら絵を棺桶に入れてくれ」と言ったとか言わないとかで、それも話題になった。

 それほど興味が無かったにもかかわらず、私はなぜか、「ひまわり」の絵の表紙のカレンダーブックを持っていた。話題になったから早速観に行った友人がお土産にくれたのだったか、なぜ手元にあったかは定かではないが、使わずに大事にしていた。表紙を眺めながら、ゴッホと言う人に思いを馳せた。そして、人々をこれほどまでに熱狂させるのはなぜかが、知りたいとも思っていた。

 当時は話題だったから、ゴッホその人についてもひととおり、様々なところで紹介された。狂人、耳切り、自殺未遂、療養、弟の献身といったところばかりが強調され、絵画そのものの明快な評価というものを、ほとんど目にしなかった。素晴らしいですね、本当にすごい、迫力があって、などという感覚的な反応なら散々見聞きしたが、彼が同時代の人達にどのように遇され、その後の美術界でどのように認められていったかについて、誰も、きちんと語ってくれなかったように思うし、実際にそれらの声には人々はあまり耳を傾けなかったように思う。もちろん、ゴーギャンとの関係についても、簡単に「短期間同居したことがあるが喧嘩別れした」というような説がまかり通っていた。

 58億円。へえ、すごい。少し前まで、それが日本の庶民の間での「ゴッホ」の価値だった。日本で言えば宮沢賢治のように「時代に先行しすぎて生きていた時には不遇だったけど死んでから認められた枠」にぴたりと収まって、その枠以上のことに、人々は関心を広げなかったように思う。

『リボルバー』を読んだ。

こちらは幻冬舎さんから「読書の秋2021」の感想文の賞品としていただいた本だ。経緯はこちら。

 最新刊なのでさすがにネタバレはできないから内容については控えめに申し上げる。原田マハさんの小説は、原田さんのキュレーター(学芸員)としての知識と経験がフルに活かされたものが多い。今回の作品も、パリと日本に拠点を置く原田さんらしい作品だ。今回はしかし、舞台がフランスなので、日本の香りは日本人の主人公「高遠冴たかとおさえ」さんという個人が運んでいる。

 主人公「冴」に関して、描き出されているのは、ゴッホとゴーギャンの関係に純粋な興味を抱き、一途な探求心を持っている研究者としての姿だ。優遇される環境にいる冴の友人(日仏ハーフ女性)との対比によって、日本人という立ち位置が一層際立つが、彼女たちの関係も、この物語の重低音として流れている。

 冴はオークションという「古い時代の価値」を扱う仕事についているが、冴の使う日本語表現は、何十年か経ったら色の褪せる「現代日本語」だ。「ていうか」「話を盛る」「推し」「…って」など。最初は少し戸惑ったが、リアルに存在する女性を描きだすことにも効果的だし、「古いものごと」に関して古式ゆかしい言葉で淡々と描かれてしまうと、この「説」の魅力は半減してしまう気がする。

 『リボルバー』にはゴッホが自殺に用いたという銃が登場する(これは本の帯などにも書かれているから言ってもいいことだろう)。アート史上最大の謎に迫るミステリ、とあるが、謎解き要素はあってもミステリではない、と私は思った。むしろファンタジーだ。いやもしかしたら、ガイド(個人の感想です)。調査という体を借りてほうぼうに足を運び、読者に背景を丁寧に説明してくれている、という感じだ。しかし全くリアリティの無いファンタジーではない。ゴッホやゴーギャンの人となりや史実については丹念に調べられて説明されていて、さもありなん、という結末に、ただただ浪漫を感じて胸が熱くなる。原田マハ節に酔う。

 偉人に関する大胆な仮説と言えば、ベートーヴェンの不滅の恋人を追い続けた青木やよひさんの著作を思い出す。

 ベートーヴェンの不滅の恋人が誰かについては、未だに諸説紛々としている。結論は出るはずもない。しかし残された手紙や手紙の真贋、筆跡や内容から今もその謎に挑み、想像力をたくましくする研究者が後を絶たない。

 そんな「神の如き」ベートーヴェンにも、相思相愛の人との辛い別れがあり、しかもその女性が誰か、百年後にもなお謎のままであると知って、熾烈な好奇心にとらえられたのだった。そして一九五九年にその女性がアントーニア・ブレンターノであると世界で初めての説をNHK交響楽団機関紙「フィルハーモニー」に発表した。だが日本語で書かれたので反響はなく、国内の専門家からはそのあまりの意外性に冷笑された。その後五十年間、東欧各地へも度々足を延ばして実地検証し、諸文献も集め、自説を実証しようとひたすら彼の生涯を追い続けた。(中略)その結果、二〇〇八年にイウディツィウム社から私の本のドイツ語訳が出版され、高い評価を受けている(ウィキペディアドイツ語版を参照していただきたい)。

『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ平凡社kindle版


 青木さんの『ベートーヴェンの生涯(平凡社)』のあとがきから引用させていただいた。もちろん、青木さんの説も諸説のひとつだ。映画『ベートーヴェン不滅の恋人』ではヨハンナ・ライスが不滅の恋人だったという説をとっている。

 東洋人の若い女性の論に対し、当初は誰も目を向けていなかったことに注目したい。音楽にしろ絵画にしろ、過去の芸術家の人生の謎を解くというのは、いろいろな意味でスリリングだ。その論説が認められるかどうか、注目されるか否か、というのは、その時代の「枠」によって決まる。アカデミックなシーンに新しい説を提唱するということは、そう簡単なことではない。

 原田マハさんのすごいところは、小説という衣をまとって「フィクションで空想で絵空事ですよ」と言いながら、軽々と枠を飛び越えて、私たちに「新しい価値」を提示してくれるところだ。

 まず、この本の主人公が、日本人の若い女性であり、パリで芸術に携わる仕事をしていること。主人公自身にはまだ不服な仕事で、その理想形は「環境に恵まれた友人・莉子」なのだろうが、日本女性が、かの地で芸術の分野でその能力を買われて仕事をするという「価値」は、お金を払えば買えるものではない。これが本来日本人が目指すべき価値だったし、過去の日本人が夢見た未来だと思う。

 そしてもうひとつは「ゴッホとゴーギャンをめぐる新説・仮説」だ。確かに結末は空想の域を超えない物語かも知れない。しかし読んでいるうちに私たちは、ゴッホとゴーギャンの人生がただ「不幸だった」「不遇だった」「恵まれなかった」などという言葉で括ることの無意味さに気づく。彼らの才能をこれでもかと理解させてくれる文章に出会い、彼らが活き活きとその絵の中に生きていることを、生々しく感じることができるようになる。

 私は、ゴッホがそれほどに他国の言語を美しく操れる語学的天才だったとは知らなかったし、ゴーギャンが別れて早くに亡くなった娘を偏愛していたとは知らなかった(ただのロリコンだと思っていた。ごめんねポール)。彼らを結びつけたのも遠ざけたのもただ一点芸術であり、芸術への狂おしい執着故に彼らの行動が人には突飛に映っていたのだろうと、この本を読んで初めてそう思った。原田マハさんが教えてくれることは、文中で主人公冴が彼女の母親から絵画の薫陶を受けたことに匹敵するくらい、胸にするりと入り込んで着地する。

 結末に、原田さんは、私たち読者が潜在的に「そうあってほしい、そうだったら面白い」と思っていることを見事に描き出してくれている。私たちはそのカタストロフィに強い満足感を抱く。エンターテインメントとして申し分なく、申し分ないどころか、このご時世が終わったら『リボルバー』巡礼者が現れてオーヴェール・シュル・オワーズの地面が穴だらけにならなければいいが、と思っているくらいだ。

 本格ミステリファンには物足りないかもしれない展開だが、まさに小説の醍醐味を味合わせてくれる『リボルバー』。読んだ後は、不思議な爽やかさに包まれる。アルルを吹き抜けた季節風ミストラルは、こんな感じだったのだろうか、というような。読まないという選択肢がない。

 

※「アミチエ」=「アミティエ」は無理やりカタカナ書きしたフランス語の「友情」。

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