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鎌倉ほのぼの散歩 結願までのラストスパート(後編) 三十二番「東慶寺」/三十三番「圓覚仏日庵」

2019年12月。
いよいよ「7日目、最終日」。
空ちゃんとみらいの三十三観音様巡りもついに終わりを迎えます。

残るお寺はあと二つです。
「東慶寺」と「圓覚寺仏日庵ぶつにちあん」。
「圓覚寺仏日庵」は、三十三観音様めぐりの最終地です。

 今週の鎌倉殿。
 なかなか…、辛い回でした。
 八重さんには、いつも女の生き様を考えさせられてきましたが、あんなことになるとは…

 肌寒い季節。
 川遊び。
 沢山の子供。
 八重さんといるのが三浦の息子(義村)。

 それだけで嫌な予感しかしませんでしたが。
 物語のなかのこととは言え、嫌な展開でした。
 千鶴丸を失った川ではありませんが、鶴丸という子を助けて川で亡くなるとは…

 この物語の三浦義村(山本耕史さん)は、クールで計算高く、シビアなところが意外と好きなんですが、あんたがいながら何やってんだと思わず言いたくなりました。

 あの場合、八重さん助けに戻らない?
 大人は川からひとりで上がってこれるだろ、みたいなの、どうなの?
 義時も運が悪いなーとか、どうなの?
 クールもここまでくると、どうなの~?

 これ以上は語りますまい。
 たまたまですが、今回の「鎌ほの」も、女の生き様を考える回でございます。

***

 前回はこちら

 「浄智寺」から北鎌倉方面に道なりに進むと、「東慶寺」があります。

 このあたり、バス通りで車も多く通るのですが、道幅が狭く、歩道もほとんどないので、並んで歩くことはできません。
 ドラクエのパーティー並びで進みます。

「東慶寺」さんは、縁切寺と言われています。

 普通「縁切寺」と聞くと、丑三つ時に五寸釘で藁人形を打ちつけるようなイメージを持ちますが、そういう呪術系「縁切り寺」と、 シェルターとしての役割を果たしていた「縁切寺」があるように思います。

 こちらの「東慶寺」さんはシェルターの方です。

日差しが夕方っぽくなってきました
ちょっと逆光でした…暗い

 「東慶寺」を開いたのは、8代執権・北条時宗ときむねさん(しつこいようですが小栗旬のひひ孫)の奥さんの覚山尼かくさんにで、時宗さんの臨終間際に夫婦で出家、息子の第9代執権・北条貞時さだときを開基、覚山尼を開山として建立されました。

 当初から、かなり大きな規模の尼寺であったようです。

 女性から離婚できなかった時代、縁切りの寺法のあるこのお寺で3年修行すれば離婚が成立したそうです。
 そのため「駆け込み寺」と呼称され、明治に至るまで女人救済の寺として600年の歴史があるそうです。

 600年。
 女性として、素通りできません。

 鎌倉時代は比較的女性に権利があったのだ、相続もして後家として家を切り盛りしていたのだ、などと言われますが、でもこれが現実だと思います。

 こうして苦難に耐えた女性の歴史があることを忘れたくないと思います。
 それが世界のどこかでは現在も続いています。
 それも忘れないようにしたいと思います。

春のしだれ桜が有名ですが、晩秋はこんな感じ

 「東慶寺」さんには、前回「鎌倉宮」に寄っていたのが偶然とはいえ、鎌倉宮に祀られていた護良親王もりよししんのうが関係しています。

 護良親王の妹、後醍醐天皇の皇女「用堂尼ようどうに」が護良親王の菩提を弔うために東慶寺に入りました。この関係で鎌倉二階堂(鎌倉宮のあるところ)は東慶寺の寺領となったそうです。
 用堂尼は5世住持となりました。

 また、江戸時代には豊臣秀頼の正室だった千姫(徳川秀忠と江の娘)が、大阪夏の陣で大阪城が落城する際、秀頼の側室の娘天秀尼てんしゅうにを助け出し、養女にして、東慶寺に入山させたとされています。
 天秀尼は東慶寺の20世住持となりました。
 以後、「東慶寺」はたびたび徳川家の助けを受けることに。

 ほとんどの住持が要人の関係者であり、その中の何人かの女性は、そのままであれば確実に死、という状況で、このお寺に入山することで命が助かったということになります。そしてそれがお寺の繁栄にもつながります。

 歴史の教科書はじめ、あらゆる歴史書には男性の名前ばかりで、私たちには知りようがありませんが、必ず陰には女性がいたし、おそらくはいつ何時も、女子供が犠牲になってきたのだという想像力は持っていたい…そんな風に思う「東慶寺」さんなのです。

 また、西田幾多郎、和辻哲郎、小林秀雄、岩波重雄、高見順、鈴木大拙など錚々たる文学者・哲学者・研究者のお墓があることでも有名です。

流らふる大悲の海によばふこゑ時をへだててなほたしかなり
「東慶寺開山覚山尼讃歌」四賀光子

 ちなみにこちらの観音様は、「木造彩色水月観音坐像(水月堂)」と呼ばれる観音様と、「木造聖観音立像(宝物館常設)」という観音様(結構大きい)があります。

松岡宝蔵(宝物殿)

  さて、東慶寺さんで女の生きる道について考えさせられた後は、いよいよ最終地点、「円覚寺」さんに参ります。

 「円覚寺」さんは言わずと知れた臨済宗円覚寺派の大本山。

 しかし私たちが目指す「仏日庵」さんは、円覚寺の塔頭たっちゅうで、別格の扱い。
 境内の中にあります。

仏日庵

 鎌倉三十三観音様参りの結願寺けちがんでらです。

 第一札所の杉本寺は最初、そして三十三番札所の仏日庵は、必ず最後でなければなりません。

 円覚寺の開基は、第8代執権、北条時宗公。
 そうそう、北条義時=小栗旬のひひ孫さんです。
 もうこの覚え方がいちばんしっくりくる。笑

 鎌倉幕府の中では時宗の父、時頼ときよりが名君と言われ、息子の時宗ときむねに執権を譲っても実際は権力を握り続けたらしく、時宗は若干、影が薄いようですが、なにより時宗さんの時代は、中国で元が勢いを増し、ついには元寇として日本に攻め込んできたという時代です。
 二度の元寇を退けたとして頑張ったねーと言われる反面、御家人への恩賞問題が深刻化して結構評価が分かれるところでもあるようです。

 時宗さんはとにかく禅宗に傾倒し、時頼さんのときからいた宋の僧、蘭渓道隆(建長寺を建てた)の死去後、南宋から無学祖元を招いて鎌倉の円覚寺を建立しました。
 禅宗普及に力をいれたのは、元寇で亡くなった人の菩提を弔うためでもあったようです。

 そんなわけで、「圓覚寺仏日庵」は、時宗さんと、その子9代執権・貞時さん、その孫で14代執権・高時さんのお墓です。

 なので「円覚寺」さんとはまた別に、拝観料も改めてお支払いして入るところです。
(円覚寺が500円、仏日庵が100円)。

 観音様と、時宗さん親子のお参りをした後、ついに!

 結願です。


ちゃんと「結願」の印も押されています

 仏日庵さんでは、お抹茶をいただくことができます。
 私たちも、結願の喜びをお抹茶で味わいました。

 心が軽くなった私たちは、仏日庵さんを出て、円覚寺さんのほうへ。

 これがもう。
 秋の夕日に照らされ、美しかったこと。

 感動のあまり、写真を撮りまくりました。



 そろそろ閉館のお時間(たしか16時)、ということで、円覚寺を出て、一服いたしましょうと(さっき抹茶飲んだけど)、北鎌倉の素敵古民家カフェに向かいました。

 喫茶「ミンカ」さん。

午後の遅い時間帯で、幻想的な灯り

 入り組んでいる住宅街の小道にあるので、ちょっと迷いました。

 つつがなく終えられたことにお互いに感謝し、ほっと一息。


店の中から見ると、まだ外は明るい

 美味しいプリンの満足感とともに、空ちゃんとみらいの鎌倉三十三観音様参りの旅はついに、終わりを迎えたのでした。

 おしまい。

 ※ 次回、まとめの「おわりに」があります。







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