百年後
百年前、世界はパンデミックに見舞われた。
それは戦争によって広がった。
その後、全体主義が、恐慌が起こり、ドミノ倒しのように世界中に暗雲が広がる。
そして再び戦禍は起きた。
歴史は繰り返す、などと言いたいわけではない。
歴史を学ぶ人は世界中にいて、彼らは等しく考えるだろう。
人間はそれほど愚かではないはず、と。
長い間私たちは、永遠不変ではないにせよ、ある程度平和に永続性があるという前提に立って、多様性を受け入れ、相手を尊重し、対話を絶やさないことによって、世界は良くなっていくはずだ、という夢を見ていた。
民主主義の名のもとに、危ういバランスを保ちながら。
しかし現在、パンデミックと並行して戦争がおこり、当事者が核の使用をほのめかすという信じがたい現実を目の当たりにしている。
地球における喫緊の問題は自明だと思うのだが、いかなる不思議にやあらん、まるでそこから目を逸らそうとするかのような動きが起こる。
戦争はその最たるものだ。
奪い合いの果てに何があるのか、私たちは知っている。
毎年、七十七年前広島で起こったことを忘れないと誓いあい、知っていて繰り返す罪がさらに重いことを、三日後の長崎で噛みしめる。
人間の叡智が試されている。
何を優先順位の筆頭に置くかが問われている。
百年前の人からみれば、まるでSFの世界のような現代社会。
テレパシーのようなスマートフォン。
どこでもドアのようなオンラインサービス。
にもかかわらず、いまだに前時代的に武力を行使する矛盾。
戦争は、何よりも環境を破壊する。
SDG'sが、ただの建前に終わってしまってはもったいない。
百年後。
平和記念公園に、平和公園に、鳩が飛ぶ。
今日と同じように。
灯火の陽炎の向こうの空に消えていく鳩たち。
祈念像の肩越しに遠ざかる鳩たち。
その鳩は、あくまでも犠牲を悼み平和を誓う鳩であるはずだ。オリーブの枝をくわえた、生存可能な陸地の存在を報せる鳩ではなく。
願わくば、これから地球に住む生命に少しでもきれいな星を引き継げますように。
過去も未来も、今と言う点の連なり。
歴史に学ぶことは、過去から希望を受け取ること。
私たちに出来ることは、それを未来につなぐこと。
百年後。
鳩を追う子供たちの目に、澄んだ空が映る。
お昼ご飯は何かなと思う。
そんな世界であってほしいと心から願う、二〇二十二年八月の朝。
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