微妙な違和感の正体【ジェンダーの中世社会史/野村育世】
以前、『鎌倉殿サミット2022「源頼朝 死をめぐるミステリー 日本史上の大転換点」』を観た後で知った本郷和人氏の著作について書いたことがあります。
出演していた皆さんそれぞれの著作を読んでみたい、と思っていたのですが、なかなか気軽にはいかなかったのが、「政子の評価を改めるべし」というジェンダーの側面から中世史を研究する野村育世氏の著作。
ようやく、読みました。
論文集なのですが、興味のある分野だったので、とても面白かったです。
そもそも、社会の先生や歴史の研究の方がよく言われる
「鎌倉時代は、女性の権利が認められていたから、男女平等だった」
ということに、前々から微妙な違和感を感じていました。
鎌倉時代に、女性に「権利」があり、後家が亡夫の所領を受け継いだり、父親から受け継いだ自分の領地の采配をしたり、前後の時代にはないことが行われていたのは確かです。
しかしだからといってそこから「男女平等だった」と決めるのは、ちょっと待って、早いんじゃないのと感じていました。
平安時代よりまし。
室町以後よりまし。
そんくらいなものじゃないのかな、と。
だいたい「尼将軍」と呼ばれた、当時としては最高権力者の立場にあった政子でさえ、子供全員殺されても父や弟に従うしかなかったんですから、程度は推して知るべきじゃないのかな~と。
『鎌倉殿サミット2022「源頼朝 死をめぐるミステリー 日本史上の大転換点」』で野村氏を拝見した時、そして野村氏のご発言を聴いたとき、もしかして野村さんは私と同じことを感じているのではないか、と直感し、どうしても著作を読んでみたくなったのです。
野村さんにとって5冊目の著書というこちらの論文集は、八章だてで八本の論文からなっています。
どれも興味深い内容ですが、特に心惹かれたのが「第六章『大姫・乙姫考-「父の娘」から「太郎の嫁」へ』」、「第七章『鎌倉の禅尼たちの活動とその伝説化について』」、「第八章『御成敗式目とジェンダー』」の後半三章です。
野村さんは、「ジェンダー」は、フェミニストが取り組む特殊なジャンルではなく、ひとつの政権が存立するにはジェンダー政策は欠かせない要素であった、として、歴史に「ジェンダー」の視点はとても重要だとおっしゃっています。
特に鎌倉時代とひとことで言っても、ジェンダー視点で見ると前期と後期ではずいぶん違い、9世紀後半(院政期から鎌倉前期)に一度大きな変化があり、13世紀半ば(鎌倉後期から南北朝期 に至るころ)にもまた大きな変化があった、ということがとても興味深かったです。
奈良末期から平安時代の律令制の導入は中国から家父長制に基づいた制度を丸ごと輸入したので、女性を官職から締め出したものの、古代以来の女性の活躍はあり、婚姻の形式も妻問型で、建前と実態にギャップがあったそうです。
平安時代は父親から息子に継承する「家」という概念の形成や、それまでなかった女性の「穢れ」という概念が出てきました。仏教にも変化が現れ、山や寺に入れないとか成仏できないといったことが言われるようになり、男性は元服して烏帽子をかぶり、女性は成人しても実名をつけられず、髪も上げなくなりました。婚姻は婿取り式で、一夫多妻多妾制。女性の意志に反した性行為や性の売買はこの時期から始まったというのは初めて知りました。女性は実際には領主になっていたのに、女性名で登録されなくなったそうです。
平安末期の院政期は荘園を男女問わず所有できたものの、鎌倉時代にかけて婚姻形態が変化し、それまでの婿取り式から夫の家に嫁ぐ形式に。夫婦は別財でも一夫一婦が重視されていましたが、多妾制も容認されていました。女性は土地を所有しても公的文書に普段の名を記されることはなく、公的に名乗る実名をもっていなかったそうで、身分が高ければ高いほど名も顔も隠す傾向になっていたとか。
こうしたことから、この時代の流れを通して言えることは、
だということでした。
私が「微妙な違和感」を感じていたのはこれだったのだとはっきりして、とてもすっきりしました。
御成敗式目は、そういった時代背景の中で作られました。
「舶来の法律より現行の状況に即した法律」を求めた結果、これまでになくジェンダーに配慮したものだったようですが、元寇の後で領地をめぐって窮地に立たされた政府が、女性の権利をどんどん縮小・はく奪していったというのもなるほどなと思いました。
また、「第七章『鎌倉の禅尼たちの活動とその伝説化について』」では、東慶寺の成り立ちや東慶寺で活躍した尼僧たちについて詳しく検証されていて、以前東慶寺を訪れた時から興味をもっていたことでもあり、こちらもとても勉強になりました。
中世の女性にとって「女人禁制」は生き方を阻害する大きな障壁だったこと、それを救済する形で東慶寺が発展していったことがよくわかります。また、前々から東慶寺のパンフレットなどに記された「水月観音菩薩遊戯座像」の説明文が気になっていたのですが、それをバッサリ「過剰にジェンダーを強調した評価」とおっしゃっているのが爽快でした。
また、駆け込み寺としての機能はほとんど江戸以後だったことが、理解できました。
歴史を勉強したり、読み物を読んでいると、女性と仏教との関りにおいて、女性たちが熱心に仏教に帰依しているのに対し、仏教側からは女性蔑視の冷遇としか思えないようなことを感じることがあり、時々とても不満に思うことがあります。
こうして野村さんの論を読むと、なるほど特に禅宗は、そういった女性たちを受け入れる素地があったのだなと思いましたし、特に道元の目指した「禅」はもともとの仏教の目指したことに近いところにあって、女性に対しても全く公平だったなと改めて感じました。
鎌倉で厚遇されたのは臨済宗でしたが、宋や南宋など遠方からはるばる来た僧侶との交流の点から女性と仏教を考えられたのはとても勉強になりました。
野村さんの文章は「たおやか」ですが、細やかな調査に基づき真相をズバリと突く鋭さを感じます。とてもいい読書体験でした。
と、いうわけで、最後に先週の『鎌倉殿』の話をおまけで。
ついに比企一族の滅亡となりました。
ドラマでは、比企能員が和睦に応じるために丸腰で行ったら、北条が完全武装で待ち受けていた、という設定になっていました。
『吾妻鏡』では、頼家が病の床に比企を呼び出し、時政を討つ相談をしていたのを政子が立ち聞き。
それを時政に告げると、時政は大江広元に相談に行きます。
「私は文官だから何とも言えない。よく考えて」と答えた広元の言葉をどうとったか、帰り道の「荏柄天神」の前で時政は、天野遠景と仁田忠常に「比企を攻める」と宣言。すると天野遠景と仁田忠常は「屋敷に呼び出して我々がやる」と言います。
すぐに仏事供養という名目で比企を呼び出し、屋敷に到着したところを天野遠景と仁田忠常に殺害された、となっていたかと。
あくまで比企が悪い体で、時政に直接責任がないような書き方のような気がします。
ドラマでは、比企の「見せ場」ができていましたし、「武士としての名なんかいらない。手段なんか選ばない」という時政の覚悟を見せつける場面にもなっていました。
北条側からすると、
北条が邪魔だと比企が言ったから九月二日は暗黒面宣言
という感じがします。
次回は…
これからは本当に、いろんな意味で心が痛いことの連続です…。
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