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動物好きなあのひとのこと

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動物に触れることに慣れている人は、女に触れることにも慣れている。
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足のつく海

わたしのほうが好きだけれど、あのひとのほうが愛が深いなと思う。 あのひとにふれるたび、己の底の浅さを思い知る。知識も思考も経験も足りなくて、出会って6年経つのに差が1年も縮まってくれず、いつまで経ってもその背中に追いつけない。もうすぐあのひとが生まれた冬が来て、2か月だけ歳の差がひとつ広がってしまう。 *** 2月に再会してから1週間ほどずるずると甘やかなメッセージのやりとりを重ねながらも、触れられながら落とされた「好きだよ」をまだ信じきれていなかったころ、遠くのあのひ

September

約束というのはいいものだなと思う。守られることを疑わなくていい相手なら。 *** 睡眠不足の日々が続いていたから、移動中すこしでも眠っておきたかったのだけれど、浮かれてしまって眠れないわたしは安易だなと思う。会うたびに長く距離が開くので、この感情はたぶん会えない間に手前勝手に増幅されているだけなのだろうと毎回たかを括って会うのに、会えば会えない時間の寂しさなどたいしたことではないと思えるくらいにすべてを持っていかれてしまって、毎回わたしは瀕死になる。今回だとて、正直に言う

身を尽くしても

冬までいい子にして待っていると言ったはずだった。会えないのは、寂しかった。 *** いつもわたしから連絡してはあのひとが返事をくれて、あのひとは決して自分がボールを持ったままにしないからわたしがなんとなく引いてラリーを止めてしまうのが常だったのに、冬にまた仕事でミオちゃんの住む町に行くよと、珍しくあのひとのほうから連絡が来た。 わたしが願を掛けずとも、あのひとが己の思いの強さだけを縁にしてわたしとは無関係にまたこの町にやってくる日が来るだろうということは分かっていたもの

わたしは水に愛を書く

知らないほうがよかった、と、それでもあのひとを知りたかった、の反復横跳びを生きていくのか、これから。 *** わたしはついにあのひと相手だと、「寂しくなっちゃったから、10秒でいいからわたしのこと考えて」などとメッセージを送るような女になってしまった。弱くなったのか、むしろ厚顔になったのか分からない。でもこれが、今まででいちばん素顔のわたしだ。 「今度会えたときはハグさせてね」 わたしがなにに不安定になっているのか、ひとことも伝えていないのにすべて掬い取られたメッセー

せんせいあのね

だいじょうぶ たぶんだいじょうぶだと思う だいじょうぶじゃないかな ま ちょっと覚悟はしておけ *** 悲しいことばかり連絡してしまうのをいい加減やめたくて、教えてくれた本を読みましたとか、共通の友人に会いましたとか、動物写真家の個展に行きましたとか、マティス展に行きました昔送っていただいた一筆箋がマティスだったけれどお好きだったでしょうかとか、他愛もないやりとりの種を毎日探している。悲しい理由はわたしの中にしか探せないけれど、叶うならばあのひとの目に映る世界のうつくしさ

悲しさの洗い替え

まだ飛べないから、もうすこしだけ駄々を捏ねさせていてほしい。わたしがあのひとにしか吐けない本音を、もうすこしだけ聞いていてほしい。 *** 軟化と硬化を繰り返しながら不定形に移ろっていく感情を、できるだけ生に近いかたちのまま定形に落として書き残しておこうとしている。いまのわたし自身の思考の機微と、あのひとがくれる言葉たちがわたしの感情に与える影響は、たぶんあとから振り返ったときにとても大きな価値を持って、ずたずたに傷つきがちなわたしの精神を支えてくれるものになるだろうから

青い車で海へ行こう

離陸後の飛行機というのは、こんなにも都心の真上を飛ぶものだっただろうか。皇居からスカイツリーにかけてのティピカルな「東京」が眼下に広がって、見知った街のはずなのに改めて細密画のような建造物の密集に軽く眩暈がする。羽田からのこの路線にはもう何度も乗っているけれど、これまではもう1本早い早朝便を選んでいたから、座席に着くなり眠りに吸い込まれていて外を眺める余裕などないことが多かった。 男に会いに行くために飛行機に乗るような、そんな気持ち悪い女に自分がなるとは思っていなかった。あ

海に迷えば

こんなに「書かないと進めない」と思ったのは久しぶりだった。誰かへの恋文として書き溜めた文字列もあったけれど、あのひとを巡るこの一連の文章は本来、「あのひとがどれほどいい男かを、この町の美しさや愛しさとともに書き残しておきたい」という衝動に揺られて書き始めたものだったから、いつしか己の感情の鎮静化のための文章に転んでいることに戸惑う。けれどいつの日も、「書かなければよかった」と思ったことは一度もない。書いておいてよかった。あの刹那のあのひとの表情も、あの夜のわたしの感情の機微も

愛の爆弾

ひとりで生きていけない女を慈しむ、ひとりで生きていかない男。 *** あとになって話したいことが湧いてきて、 わたしは感情の瞬発力がないなあと思う。 東京寒いけれど、そちらはもっと寒いでしょうか。 月曜日 23:31 会いたい、と思う。会ってもどうにもならないことは分かっているし、どうにかなれる気になるなと自分に言い聞かせてもいる。でもあの夜、4年間喉元まで込み上げては飲み込みつづけてきた言葉たちは結局ひとつも口から零れず、そもそも思い出しすらしなかったような気がする。

咲けない薔薇

「昔の男」とすら形容できないくらいごく数夜だけ関係をもったあのひとがくれた服は、今夜もちゃんと暖かい。4年前の早春の雨の朝以来、冬の夜にはあのひとの服に抱かれて眠り、夏の夜にはあのひとの服を抱いて眠ってきた。そうすることでしかやり過ごせなかった夜があった。花の名前を思い出すよりも、わたしを抱いたあのひとの温もりを思い出していたいから、縋れるよすががあることを嬉しいと思う。 いつだったか眠れない夜にあのひとのSNSを遡ったら、世界のあちこちでこの服を着たあのひとが笑っている写

たくさんの後朝

夏至の夜に見る夢には、未来が描かれるのだという。時の節目に見る夢には、未来を告げる力がある、と。1年でもっとも短い夜に、わたしはあのひとの夢を見た。酷い、酷い夢だった。未来を告げる夢ではなく、過去の傷を愛しみながら舐めるような夢だった。 わたしは海辺で幼子を抱いていた。テンプレートのようなぼやけた目鼻立ちに、テンプレートのようなパステルカラーの幼児服を着た、テンプレートのような幼児。概念としてのみどりごは、抱いていてもどこか重さがない。太陽は柔らかに光を注ぎ、白砂の浜はどこ

記憶は掌中の珠

この町に雨が降るたびに、叩きつけるようなスコールの中をあのひとに会いに走った夜のことを思い出す。けぶる霧雨の中をあのひとに背を向けて走った朝のことを思い出す。西風が不穏に窓を鳴らしても、あのひとが抱いていてくれたから平気だった。けれど、あのひとの温もりの向こうで一晩中雨音がしていたから、ひとりで雨音を聞くのはまだすこし寂しい。もっと触れておけばよかった、とあとから思わないでいいように、これまでのわたしよりもたくさん、あのひとのからだの好きな箇所に指も舌も這わせたのに。 世話

うたかたの果て

ふらふらと生きているようで、実はたしかな意思をもっている。水のなか、うまれる。水面で、はじける。 第四夜 最後の夜はきっと仕事仲間と打ち上げだろうし、それでなくても荒天の中の仕事は身体に響いたろうから、今夜はわたしのことなど忘れているに違いないと高を括っていたし別にそれでよかったのだけれど、宴もたけなわという時間帯に誘いのメッセージが舞い込んできたので驚いた。 複数人で酒席を共にしたときに、あのひとが携帯電話を操作する姿はおろか、画面に目を落とす姿さえも一度も見たことは

その鼓動を忽せに

この夜の底に縫い留められて、あのひととふたり溺れたとしたら、先に息が続かなくなるのは、きっとわたしだ。 第三夜 明け方からまた降りだした雨は、夜のさなかのわたしの吐息や寝台の軋みまでもその低層に隠して穏やかだった。濡れた下草を踏みしだき、水滴をたっぷりと纏って咲き誇るハイビスカスの脇を抜けて、朝靄の町であのひとはわたしの手を引かない。半歩前を歩くあのひとのシャツに、雨粒が幾何学模様を縫い込んでゆく。町中がのびやかな湿度に包まれて、ちいさな交差点はすこし滲んでいた。 別れ