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September

約束というのはいいものだなと思う。守られることを疑わなくていい相手なら。

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睡眠不足の日々が続いていたから、移動中すこしでも眠っておきたかったのだけれど、浮かれてしまって眠れないわたしは安易だなと思う。会うたびに長く距離が開くので、この感情はたぶん会えない間に手前勝手に増幅されているだけなのだろうと毎回たかを括って会うのに、会えば会えない時間の寂しさなどたいしたことではないと思えるくらいにすべてを持っていかれてしまって、毎回わたしは瀕死になる。今回だとて、正直に言うと「会って失望したい」くらいまでは思っていたのだった。もういっそ失望させてでもくれないと引き返せない。

けれど、失望などできるわけがないと、誰よりもわたし自身が分かっている。今の住処で、森と川と畑と海を背景に笑うあのひとはちゃんと素敵で、この土地のことも愛しているのだろうな、と思った。

心残りなのはもっと手を繋ぎたかった

昼に会う約束をするのにはやっぱり慣れなくて、わたしは臆病な女なので、相手がわたしを引き寄せてくれるのをただ待っている。美術館をひととおり見終えて車に戻ったあと、あのひとがナチュラルに手を伸ばしてくるので、ああ、触れていいのか、と思う。左手をわたしの右手に重ねたあのひとが、時折ぽつぽつと降る雨に一拍遅れてワイパーを右手で操作することさえ嬉しくて泣きそうになるけれど、笑っていたくて意識的に口角を上げる。

混雑した店内でランチを待っているときに、あの町での生活がうまく回り始めそうで楽しいんです、と報告したら、「それは無理してるんじゃないのか」が突然降ってきて瞠目してしまった。実は人見知りで怖がりなわたしが誰とでも一定程度真っ当にコミュニケーションを取れるのは、ほぼすべてを接客だと思ってやっているからだし、実際にそういう話をあのひとにしたこともあったけれど、その角度で撫でられるのは想定外だった。無理をしないと生きてさえいけない、と思う。

「笑っていなきゃ、とつよく自分に言い聞かせているような子だなあと、出会ったときから思ってたよ」とあのひとは苦笑するように目尻を下げて、「きみは物怖じしないわけではなくて、物怖じしないように見せているだけでしょう。それは成功しているし、その裏にどれだけの努力があるのだろう、とも思うけれどね」と、またわたしの弱いところを見透かす。甘やかされたわたしの涙腺はぶわりと決壊しそうになってしまい、あのひとはそれを知ってか知らずか、お茶のお代わりをと笑って席を立った。

わたしはえらいのであのひとが戻ってくる前にちゃんと泣き止んだけれど、たぶん泣いたのは悟られてしまっているのだろうし、会っているときに泣きたくないわたしの心情すらも酌まれてしまっているような気がする。観察して分析して推量してくれて、その上でその視線をわたしがまっすぐに受け止めることのできる相手はなにより尊いと、わたしはもう知っている。「このひとに正しく理解されたい」と思える相手は、大抵さほど言葉を尽くさなくとも正しく理解してくれている。

「笑っていよう」はわたしにとって、ある種の生存戦略だった。まだ根暗を自覚していなかった幼いころに、母が「澪ちゃんはいつもにこにこしてていい子ねえってよく言われるわよ」と笑っていたことを鮮明に覚えている。わたしは無意識に、母がそうやってわたしを承認してきた言葉に縛られ、そうあろうと努力しつづけてきたのかもしれない。呪いというほど悪意があったとは思わないけれど、かつてのわたしが母の承認に一直線に飛びついたのも当たり前なように思う。ただ、愛されたくて不安だったし、自分を惨めだと感じるのは嫌だった。

思い返してみれば、父母が家庭内別居状態の中、両方と円滑にコミュニケーションを取ろうと顔色を伺って神経を擦り減らしつづけた幼少期だった。その結果、わたしは過剰適応気味なまでに相手によって顔を付け替えるようなコミュニケーションしか取れず、わたしにとっての「自然体」はいまどこにもない。だからこそ、あのひとのどこまでもナチュラルな在り方が眩しいのだろう。

「無理して笑っていないか」という問いに対しては、ただ無自覚だったぶんの衝撃だけを受け取ったけれど、その次に投げられた「腹を割って話せる友達はいるのか」は、わたしにとってはわりと痛い問いだった。自覚しつつ消化できないままでいるそういう問いは、わたしの心の外殻に思い切り突き刺さる鋭角さを孕みうるものなのだけれど、あのひとのそれはまるくやわらかくやさしいから、わたしはちゃんと受け取れる。「最近ね、女友達を作れるようになったの」と言ったら、「いや、男でも女でもいいんだけれどね」とあのひとはまた苦笑するけれど、わたしが言外に込めた含みもちゃんと嗅ぎ取ってくれただろうと思う。気を許した相手に対するわたしの甘えを誘いだと思わないでいてくれる男は少ないし、わたしだとてわたしの甘えを許してくれる度量にはぐらついてしまうことのほうが多い。

ほぼありとあらゆる人間関係をロールプレイとしてこなす癖がついてしまっているわたしは、ロールプレイを外れることができる相手を「友人」と呼んでいるのかもしれない。社会性ロールプレイ集からパターン検索して対応するのはわたしにとって分かりやすくて、さほどストレスになるわけではないのだけれど。

とはいえ少しずつ、相手にとっての正解を求めようとする癖は抜けてきたように思う。わたしが生きやすくなったのは、正解などどこにもなく、ただ個人の解釈があるだけなのだと思うようになってからだろう。「人生の正解がわからない」と泣いた高校生のわたしに、「他人の人生に己にとっての正解を求めるな。お前の内側と、外側の世界が等質になったとき、それがお前にとっての正解だ」と吐き捨てたひとがいたのだけれど、今になって思う。箴言であった。うちにもそとにも海が満ちて、これがたぶんわたしにとっての正解、と、もうあまり思い出せなくなったひとの面影に呟く。誰かが昔くれた言葉と自分の今の思考がときどき、惹かれ合うように音を立てて繋がるのを感じている。


あのひとと再会してからのここ半年強、あのひとがとても丁寧に向き合ってほどよい距離から言葉をくれるので、わたしの自己理解が20年分ほど進んだ感がある。「感情の読みにくい子」「どうすればきみが喜ぶのか皆目分からない」などと昔の男たちに言われつづけて、感情を表現することもそれを誰かに理解してもらうことも半ば諦めてしまっていたのだけれど、あのひとの目はなぜかわたしの心を容易く見通す。あのひとにぜんぶ分かられてしまうことが、いまのわたしにはとても嬉しい。自分がどういう人間なのかも、認知のどこがどう歪んでいるのかも、わたしはあのひとの目を通して理解していく。ものごとをありのままに見るあのひとの目は、いつもどこまでもフラットだ。

飾らない顔すらもてなかったわたしにとって、飾らない本音を話すのはさらに難しく、絶対にただしくやさしく受け取ってくれると思えるあのひとにしか吐けないことがたくさんある。感情から距離を取るために言語化しつづけてきたつもりでいたけれど、いま思えばひたすらに、本来咀嚼して消化すべきだった感情を意図的に書き落としてセルフネグレクトしつづけていたような気がする。いま「あのひとになら言える」で拾い上げて咀嚼できる感情が増えているのは、たぶんとてもよいことなのだろう。これを発達と呼ぶのかもしれない。

わたしがずっと蔑ろにして見ないふりをしてきた感情たちを、あのひとは誤たずに探り当てるので、わたしは、ああ、あのときわたしはかなしかったのか、と納得する。かなしみをかなしみきるには、当時わたしの心の成熟度が足りなかった。できない自分に価値はないと思って生きてきたふしがあり、だからこそ自分の弱さを受け入れられずにネグレクトをしていたのだろうけれど、あのひとは不器用でも見苦しくても我儘でも幼くてもそのままのきみが好きだよと言いつづけてくれるから、わたしもすこしはわたしを許せる気がしている。あのひとは、歪に捩れたわたしの感情の綾をいちどぜんぶ分解してかたちを整え直してくれるようなひとだと思う。その手はいつも決してひとりよがりなものではなく、わたしがわたしの在りたいように在ろうとするのをただ支えていてくれる。臆病なわたしに、あのひとは一歩先の世界を見せてくれる。わたしのぶんの魂の居場所まで構築してくれるあのひとの胆力を、尊いなと思う。


「ポジティブでアクティブな根暗を気取ってきたけれど、自分がポジティブなのかはもう分からなくなってしまいました」とぼやいたら、「きみのことをネガティブだと思ったことはないよ」とあのひとが言うので、「わりと考え込んでしまうタイプよ」と返したら、「怖がりだものなあ」と笑われて、そうなの、と思う。「でもきみは、できない理由を探さないだろう」というあのひとの言葉は、なにかを実現する手段を求めつづけてきたあのひとらしいな、と思った。「そして、きみは他人にネガティブな評価を下さない」がすこし意外で顔を上げたら、「まあ、そこまで他人に興味がないのだろうけれどもね、きみは」とあのひとが続けるので笑ってしまった。

あのひとの、わたしを価値判断しないところが好きだ。「すごいね」だとか「頭がいいね」だとかいう評価はずっと偶像の押し付けで、そうでなければ愛されないという呪いだった。あのひとが「きみの生き方が好きだよ」とか、「きみの話し方はロジカルだから」とか評するのも、似たようなものと言えばそうなのかもしれないけれど、それらはわたしの息を詰まらせない。あのひとはわたしの居場所を作ってくれるけれど、決してわたしを規定しようとしない。かつて、わたしのことをよく知るひとがよく、「澪は頭がいいから」という枕詞でわたしに駄々を飲み込ませようとした日々、黙って駄々を飲み込む女のことは「頭がいい」ではなくて「都合がいい」と言うのだろうと心の中で叫んでいた。それ以来、「きみは頭がいいから」にたまに傷ついてしまうので、考えすぎるわたしにはちゃんと「考えすぎだよ」と言ってくれるあのひとのことが好きだ。

いつだったか幼少期の愛読書の話をしていて、「『冒険者たち』を読んで、どこまでも遠くへ旅を続けることに憧れた」とあのひとが言うので、わたしにはあまり響かなかったそれを眩しく思ったことがある。そういう少年めいたところも愛しく感じられて、あのひとに続くものがすべて輝いて見えるのは幸せなことだ。他愛もない話から、きちんと人生観の話に繋げてくれるあのひとが好きだ。あのひとがなにを考えて生きてきたかを知ることやあのひとの欲望にふれることが嬉しくて、世代を超えた共通言語になる本はいいものだなと思う。なにかに殉じて死にたいわたしは、どこへも行けない死にキャラのオイボレが好きだった。

「まだ誰も見ぬ地平へ、もっと遠くへ」とどこまでも翔びつづけられるひとのことが、ときどき羨ましくなる。わたしは狭く狭く埋没していくタイプで出会ってしまったら手放せないから、置き去りにして飛んでいかれてしまうのはわたしのほうかもしれない、とこのごろたまに思う。あのひともわたしも、良くも悪くも一貫している。不可解なものを読み解きたくなったからわたしだったのだとしたら、晒け出せば晒け出すほど飽きられるのだろう。あのひとは、「ミオちゃんが変わらなければ俺も変わらないよ」と言ってくれるけれど。

昔からあのひとはわたしに「変わらないでいてほしい」というちいさな呪いをかけてくる。結婚したと知らせたとき、「変わらずにいてくれると嬉しいな」とあのひとが笑っていたことを覚えている。あのひとの「ミオちゃんは変わらないね」が「まだちゃんと好きだよ」に聞こえるのはたぶん間違っていない。それはおそらく、全肯定という真綿に丁寧にくるまれた、「この距離とこの温度でよければいつまででも」という枷であり呪いなのだろう。それでも、あのひとに呪われることすらも嬉しくて、一生あのひとに呪われていたい、と思う。

「きみはいつどうして俺に対して接客じゃないモードを出していいと思ったのかな」とあのひとが笑うのでよくよく考えてみたけれど、わたしの接客は怖がりの「嫌われたくない」と八方美人の「愛されたい」なので、わたしはあのひとに対してもたぶんいまだにうっすら接客している。だってわたしはほんとうは、物分かりなどよくないのだ。帰らないでと言いたい。離れないでと縋りたい。わたしだけ見てと甘えたい。笑っていないで泣いてしまいたい。けれど、細く長く愛されていたいから、わたしは今日も黙って笑うのだ。

どの程度求めていいのかはなんとなく分かっているから、わたしはきちんと枠内にいつづけるし、「変わらないでいてほしい」にはたぶんそれすらも含意されているのだろうという諦念もある。「物分かりのいい可愛い女でいてほしい」を察するわたしはたぶんこれからも、可愛いの範疇を巧妙に縫いながら駄々を吐きつづけるのだろう。どうなりたいのか、に、「ぜんぶ捨てても一緒にいたい」とわたしが返してしまうことはおそらく決してない。そういういちばん狂った夜のひとりよがりを声にできない程度には、深いところで続けていきたいと思っている。あのひとは絶対にわたしと同じ深さで狂わないけれど、わたしの深度を知っているひとだから。


飽きもせず「海が見たい」と言うわたしに、あのひとは雨雲を避けるように車を走らせる。道の駅の前で勢い良く回る回転魚干し機を見てわたしが「楽しそう」と目を奪われていたら、「ミオちゃんも回してあげようか」と返されて、「回して回して!」とはしゃいでしまった。あのひとのちいさな嗜虐欲が突拍子もない角度から来るのが、楽しくて好きだ。あのひとは自分で話を振っておきながら、「何言ってんだよ」と突然大人の顔をする。海沿いの道から沖の岩礁を眺めて、「あそこに住むか?」とあのひとが笑うので、「住むからたまに会いに来てね」と、ちょうど太陽を覆った雲の陰で、わたしは突然女の顔をする。

車を停めるときに一度離した手を、車から降りたあとちゃんと掬いなおしてくれたのが嬉しかった。嬉しかった。嬉しかった。うれしいとわたしは、なにも言えなくなる。なにか言うとぜんぶ演技になってしまう気がして、黙ったまま砂浜を歩いた。4年前も2月も、お互い酔った勢いで踏み越えてきてしまったところがあったから、日中手を繋いで歩けるのはシンプルに嬉しいし、あのひともそういう意図で関係性の構築し直しをやってくれているのをなんとなく察している。大事にされているなあ、と思う。


手をつないだままテトラポッドを見下ろして、振り向こうとしたらそのまま抱き寄せられたので、シャツの胸に顔を押し付けて、あのひとの背中に腕を回す。汗ばんだ肌を知られるのが嫌で、それでも、触れたかった。あのひとは昔から、こうしてわたしを引き寄せるのが上手だ。わたしが縋りつくのを黙って抱いてくれていたあのひとは、やがて顔を覗き込んでくるので、わたしはちゃんと目を閉じる。抱きしめられたまま振り仰ぐようにキスを受けとめていたら、どちらのものかもう分からない唾液を嚥下する自分の喉が妙に大きく鳴って、それにすら煽られて、ああわたし今めちゃくちゃに濡れている、と思った。皮膚の下の感覚神経を探り当てるような柔らかな唇に感度は加速度的に上がりつづけ、あのひとはわたしすら知らないわたしを見つけてゆく。ひとのかたちを保っていられなくなりそうなのに、波間に混ざるリップ音が鼓膜を焼いて、ひとのかたちに引き戻される。

後頭部に添えられた手のひらがかなしいほどやさしくて、あのひとはずるい、と思う。あのひとがほんとうにわたしに欲情するのかどうかたまに不安になるくらいに、あのひとの触れかたは、ただひたすらに世話焼きや慈しみのニュアンスで染め上げられている。あのひとがまだわたしに触れてくれることが、どうしようもなくうれしい。頬に額にこめかみにうなじにあのひとの唇は落ち、それらすべてがごくストレートに含んでいるのは「安心して。ちゃんと好きだよ」で、わたしはなにも言えず、ただ身体の細胞ひとつひとつがあのひとに触れられたいと騒ぐのを止められず、触れられれば触れられて嬉しいと泡立つのを止められず、なのに耳から首筋をなぞっていくあのひとの唇はひたすらに優しくて、けれど快感に背を反らした拍子に下腹部にあのひとの熱を感じた瞬間わたしはもうどうしようもなくなってしまって、そこにまだ熱があるならそれでいい、と思った。

言葉に嘘がないかどうかについてわたしは自分の判断力に自信がないけれど、触れかたに嘘がないかどうかはちゃんと分かる。こんな触れかたをしてくれるひとを、わたしはあのひと以外に知らない。わたしがずっと「甘やかされたい」と言いつづけてきたのはたぶん、より正確には「大事にされていると感じたい」で、あのひとは「大事にされていると感じさせるのが上手い」ひとなのだろう。大事だよ分かっているよそれでいいんだよ、と身体も心もすべてを肯定されている瞬間を、わたしは「幸せ」としか呼べない。

息を整えながらあのひとの髭に鼻先を寄せる。「痛いだろう」と笑われても擦り寄せるのを止めないわたしに、「髭フェチだったか」とあのひとは目を細めるけれど、髭フェチなんかじゃないの、先生が好きなだけなの、が込み上げてきて喉に詰まった。まだ、声に出せない。「あのひとだから」触れたいし「あのひとだから」安心できるのだと、どうやったら伝えられるのだろう。いまの手も足も出なさを鑑みて、以前のわたしはよく「一緒に寝たい」を口にできたなと思う。あのとき言わされたような気がしていたけれど、言わせてもらったのだろうなと今さら気づく。わたしはいつも、あのひとのほんとうのやさしさを、すこしおくれて理解する。あのひとは、本音を言えないわたしにちゃんと言わせてくれるひとなのだろう。見上げたら目尻が優しく下がっていて、微小な生き物になってあのひとの目尻の皺に棲みたい、と思う。ときどき額に出張して、苦悩の痕を伸ばしてあげたい。


海辺で腰を下ろしてわたしを後ろから包み込んだあのひとが、「ミオちゃん足綺麗にしてるねえ」とわたしの膝をなぞるので、感情の瞬発力のないわたしは咄嗟にいくつか散った旧い傷の来歴を論ってしまうのだけれど、普段おざなりにしがちなケアをどれだけ真面目にしてきたかが脳裡を過り、よかったな、とも思う。あのひとは、わたしを褒めるのが上手だ。わたしがすこしも好きではないわたしの身体のパーツをせめてあのひとの目にきれいに映したくて映したくて、せめてあのひとの前で可愛くありたくて、せめてあのひとの前で笑っていたくて、笑っていたら「無理してないか」が降ってくるので、もうなにもかも見透かされているのだろう。だとしたら、うまく笑えないわたしがあのひとといてどれだけ嬉しくて幸せかも見透かしていてほしい。

傾きかけた陽に照らされる海を見ながら、あのひとに身体をすべて預けて、とりとめのない話をしてはキスを落とされ、ときおり猫でも撫でるようにお腹をわしゃわしゃとくすぐられて笑うのは幸せで贅沢で、これを過剰投与されてこのまま死にたいと思った。「きみの最低な部分を愛してくれるひとがいるなら、そのひとがきみの飼い主になってくれるよ」と誰かが言っていて、あのひとはべつにわたしの飼い主をやらないだろうと思うけれど、わたしのいちばん拗れたところまで愛してくれていると思う。


あのひとはわたしの手を掬い取るとき、恋人繋ぎではなく手のひら繋ぎをする。舌を絡めておいて指を絡めない、あのひととわたしの関係性の微妙な歪さは、そこに端的に表現されている、と思う。あのひとはわたしにちゃんと女を見ているけれど、どこかでわたしの中に頑是ない幼子を見ている。わたしはあのひとにちゃんと男を見ているけれど、どこかであのひとの中にどこまでも手を引いてくれる父親を見ている。

そうして手を引かれるのが恋人扱いされるよりも嬉しいわたしが、たぶんいちばん歪んでいるのだろう。あのひとは、わたしの左から右へと手を繋ぎ替えて波飛沫からわたしを守りながら、「エスコートするならこっちだなあ」などと笑うので。根っから世話焼きなあのひとにとって、対象が女であろうが幼子であろうがそこに大差はなく、あのひとの中ではすべてが統合されているのかもしれない。わたしと会う前に、左手の薬指から指輪を外す瞬間さえも。

あのひとは朝が早いからわたしの深夜の繰り言にはたいてい朝まで返事がないのだけれど、いつだったか珍しく深夜2時ごろに返信がきていて、咄嗟にうれしい、と思ってしまったのは、普段もらえない時間をもらったような気になったからだろうか。それとも隣で眠る人よりも束の間わたしを優先してもらえたような気になったからだろうか。わたしと会うときにあのひとが指輪をしてこないことが、ほんとうはうれしいと気づいてしまったのだ。わたしの感情はこんなかたちをしているのだと、いつもあのひとを介さないと把握できない。あのひとを介して己の愚かさを思い知り、ああそうか、感情とはこういうふうに在るものなのか、と思う。男の左手の薬指の指輪を回して遊ぶのが自傷行為だったことに、今さら気づいてしまった。かなしみをかなしみとしてその瞬間に感受するのはまだ痛いけれど、こうしているうちにすこしずつ、ひりつかなくなっていくといいなと思う。あのひとには、人間らしい在りようを育ててもらっていると思うから、泣いても泣いてもまだ、それでも幸せだと思う。

ひとりで四苦八苦しながら発達してきたのがとても辛かったから、あのひとがいてくれることに救われている。あのひととわたしの関係は、恋愛というよりはアダルトチルドレンだとか愛着障害だとかの育て直しと捉えるほうが適切なのだろうな、と思う。これは恋ではないと頑なに言いつづけているのはあながちわたしの強がりというわけではなくて、わたしはたぶん、あのひとと恋仲になりたいというよりあのひとの子供に生まれたかったとより強く思っている。父親がほしい、父親が。愛されたくて愛されていない気がしていた幼いわたしがまだずっと泣いている。父なりに大事にされていたし大事にされているのが頭では分かっているけれど、感情がひとつも納得できないままでいる。わたしは、理由なく生涯愛されたいのだ。恋は理由を探しつづけないといけないし、見つけた理由を守りつづけないといけないから疲れる。相手に対しても、自分に対しても。

もうきっとあなたとしばらく逢えないのに

素直になっていいんだよと甘やかされつづけた結果、わたしの輪郭はもうぐずぐずになってしまっていて、たまに「このまま道に迷っちゃえばいいのに」などとぽろりと零してしまうのだけれど、そういうとき絶対に「そうだね」と返さないあのひとのことが好きだ。別れ際、こっそり泣きそうになっているわたしに、「泣きそうになってるなあ」と思いながらキスを落としてくるあのひとのことが好きだ。わたしはかしこいので、これ以上を望まないでいることができる。昔から、ちゃんと、ずっとそうだった。

「もう知ってるだろうけど、俺は世話を焼くのが好きだから」というあのひとの言葉が、どこまでが純粋な本心でどこからがわたしに遠慮させないためのやさしさなのか、考えることを放棄している。心に素直にあれと言いつづけてくれるあのひとは、己の心にも素直だ。わたし自身が、どこかで戯けたりどこかで保身したりどこかで諦めたりして数々の関係性を失ってきてしまったから、あのひとが戯けも保身も諦めもせず、かといって攻めもせずただそこにフラットに変わらずにいて、そして伝えつづけてくれるのを、尊いことだと思う。

「連絡する」と言ってくれたけれどわたしはたぶんそれを待てないだろうと思ったから、目を合わせられないまま「ときどき駄々を捏ねます」と呟いた。あのひとの「いいよ」がどこまでもやさしくて、そのまま縋りついてしまいたいと思った。見送られるより見送るほうがまだましでいられるわたしを、あのひとはなぜ分かっているのだろう。


「今日はありがとうございました楽しかったです」のメッセージの文末に、句読点に混ぜるようにこっそり「好き。」を置いたら、そこまでの内容をすべてスルーして「わたしも大好きだよ。」が返されて、このひとはほんとうにもう、と強く目を瞑った。それが言いたいだけのわたしだったし、応じてほしかったわけではないのだけれど、願っていいなら聞きたかった。願った以上を返されて、泣けて泣けて止まらない。どうしてあのひとはいつも、わたしがいちばん拾ってほしい感情を拾い上げてくれるのだろう。

あのひとは、嫌われたくなくて物分かりのいいことを言おうとするわたしより、「好き」だけで動けるわたしを可愛いと思ってくれるひとで、あのひとのやさしさがわたしの箍を外そうとする。あのひとはわたしの「好き」を拒絶しないので、好きでいていいということや、好きだと伝えていいということにわたしは安心する。わたしはそれすら不安だったのだ。他人の感情の重たさを知っているし、拒絶されることの痛みも知っている。だからこそ、向けていいのか分からなかったし向けることに怯えていた、ずっと。

「俺は好き嫌いのはっきりした人間だよ」とあのひとは笑い、好かれている自信などひとつも持ち合わせていないわたしは、「わたしのことは?」と聞きそうになる。あのひとがやさしくてうれしいけれど、どうしてあのひとがやさしいのかわからない。理由を探せば探すだけ不安になるから、あのひとの「好きだから」を信じることにしている。というか、信じないでいることができなかった。やさしいのも、返信が早いのも、会いたいと思ってくれるのも、時間を割いてくれるのも、すべて「好きだから」で、そういうひとなのだ、と納得する。あのひとがわたしを好きでうれしい。その尊さを理解できるようになるための4年だったような気もする。

いつも元気だなんて決して思ったりしないでね

会いに来る口実として一応仕事を抱えてきていたので、翌日落ち着いたころに「仕事終わったので足湯でのんびりしてます」と写真を送ったら、「かわいいおみ足だね」と返されて、わたしは自意識の所在がもろにばれている羞恥心で吹き飛ばされた挙句、ようやく着地したところで「かわいい」に被弾して再起不能になってしまう。ストレートな言葉にいちばんよわいわたしは、ストレートな言葉を鼻で笑ってきたわたしでもあって、だからいまあのひとのことばがすんなり入ってくるのはほんとうに奇跡のようなものだと思う。あのひととの物理的な距離が近くなくてよかった。近かったらわたしはいつか、気が狂ってしまうと思う。

あのひとはいつかわたしを「甘えたいくせに不器用だな」と笑ったけれど、そんなわたしすらも肯定しつづけてくれたから、甘えてもいいのかなと思えるようになった。「先生のせいで寂しい」は言えないままだけれど、他の理由で寂しいときは泣きつけるようになった。「先生が寂しくないことが寂しい」は、馬鹿みたいだなあと思いながら酔った勢いで伝えてしまったけれど、「わたしも寂しいよ」が返ってこないことは分かっていて、それでよかった。「連絡するし、会いにも行く」が嘘ではないと知っている。あのひとの原動力が「やりたいことをやりたい」なら、わたしの原動力はずっと「寂しい」だったのかもしれなかった。


虚勢を張ったところで見抜かれているなら、頼りなくて不完全な生牡蠣でいてもいいのだろうか。わたしはずっと、世界が怖かったのだと思う。ぜんぶ怖かったけれど、あのひとと海だけが怖くなかった。世界はすべて不可解な動きをする異物で、わたしは変化しつづけるそれに適応しつづけなければならないというなかば強迫観念めいた焦燥感に追い立てられていて、好悪はすべてその適応が容易か困難かで決定されていて、その中であのひとと海だけが、泰然とそこにあって、わたしに適応を要求してこなかった。

愛されたようにしか愛せない人間と、愛されたかったように愛する人間と、愛したいように愛する人間がいると思う。愛されたふうにしか愛せないけれど、ならばわたしもあのひとのように世界を愛せるようにいつかなれるだろうか。愛しかたは生き方で、あのひとの背中はずっと眩しい。「このひとのものごとの愛し方が好きだ」と思える相手は、この環境に身を置いていてさえなかなか出会えないものなのだけれど、だからこそそういうひとのことに出会えると嬉しいし、たいせつにしたいと思う。たいせつにしてきた。たいせつにしている。たいせつにしていく。一度関係性のできた相手のことを、わたしはわりとずっと好きでいる。

好きでいることしかできない。あのひとのことも、あのひとが愛したこの町のことも。なにもできないから、ただ好きでいることしかできない。

まだ好きで… どうしよう

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