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悲しさの洗い替え

まだ飛べないから、もうすこしだけ駄々を捏ねさせていてほしい。わたしがあのひとにしか吐けない本音を、もうすこしだけ聞いていてほしい。

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軟化と硬化を繰り返しながら不定形に移ろっていく感情を、できるだけ生に近いかたちのまま定形に落として書き残しておこうとしている。いまのわたし自身の思考の機微と、あのひとがくれる言葉たちがわたしの感情に与える影響は、たぶんあとから振り返ったときにとても大きな価値を持って、ずたずたに傷つきがちなわたしの精神を支えてくれるものになるだろうから。けれどなぜ書くのかという問いに対する現時点での答えはおそらく、「この感情の激流をあのひと本人に向けないため」なのだろう。日々のメッセージの往復に、ただでさえ含まれてしまいがちな熱や湿度をこれ以上乗せすぎたくない。あのひとに甘えることはできても校閲なしの感情をそのままぶつけることはできないあたり、まだ狂いきってはいないと思っていいのだろうか。

書くということは、感情をスライスした切片をプレパラートに乗せて固定するような行為だと思う。動的なものではなく静的なものへ、そこに解釈を挟みながら変えてしまおう変えてしまおうとするのは、動的なままではわたしの手に余るからだ。当事者でいることの重みに耐えられないから、顕微鏡を覗き込む第三者になってしまいたいのだろう。

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身体を離してひとりになったあと、あのひとの帰路を思いながら悪趣味な想像をしてみたら、我ながらちょっとびっくりするくらい胸を衝かれたので、拡げかけた思考を慌ててぐしゃぐしゃに丸めて心の片隅に押し込める。相手が誰かにやさしくしているところだとか誰かの隣でねむっているところだとかを想像して心がぎゅっとなるようになってきたら、危険水域だ。物分かりのいい女ぶってすべてを飲み込んできたくせに、いまさらだとは思う。愛の総量の多い、というか世話を焼くキャパシティの大きいひとであることははじめから分かっていた。わたしの穴にぴったりはまったあのひとのやさしさが、べつにオーダーメイドでないことを知っている。ただ、あのひとに触れる権利がほしかった。

誰かに話したところで、「じゃあそのひとがぜんぶ捨ててきみを選んでくれたらどうするの」というベクトルの問いが投げられるだけで、そんな極論知らない、と思う。夢物語を、あのひともわたしも語らない。想像したことがないとは言わないし、あのひとがわたしを器にしたいと思った夜もないではなかったけれど、現実味のある選択肢として立ち現れたことは一度もない。あのひととなら世界のどこでも生きられると思いながら、「あのひとは決してわたしを選ばない」といういちばん痛い言語化をしておく。ちゃんと痛かったからもう許してほしい。これが唯一わたしに維持できる誠実さだ。

この感情を咀嚼できないのかしたくないだけなのか自分でも判別できず、また脳内のあのひとに向けて言葉を紡ぎはじめてしまう自縄自縛感を自覚してはいる。脳内に飼いはじめたあのひとに、役割を持たせすぎないようにしなくてはと思っていた。思ってはいた。自覚は免責を意味しない。節度なくぶつけられるあのひとの愛は、それ自体はけして危うさを含んだものではなく、むしろ過不足のない安定感に満ちていて、受け止め損ねたわたしが自爆するか自壊するほうがよほど危険だ。

「自分の『好き』と偽りなく真摯に向き合える、誤魔化しのないところがきみの魅力だよ」というあのひとのわたし評が、4年前からずっとわたしを支えている。穴だらけで傷だらけの歪なわたしも愛してくださいなどと醜悪なことを言うつもりはなくて、ただ、あのひとの好意に恥じないわたしでありたいと願う。透明感のない女なので、情念の濃さだとか毒気だとかなんなら瘴気とかで勝負するしかないと思ってきたけれど、あのひとの隣にいるわたしはいつもよりすこしだけ透明だ。

あのひとは、わたしの表も裏も見て、その狭間のわたしを探してくれたひとだと思う。痛むための涙だけでなく牙も毒も棘も身につけてしまって裸でいられなくなったわたしの中の、わたしですら見つけられなくなっていたわたしをあのひとがいくつでも褒めてくれるから、わたしはあのひとの前でだけ裸でいられる。「きみの寂しさが色気に見える男はたくさんいるだろうけれど、きみの毒気が色気に見える男を選んだほうがいい」と昔誰かがくれた言葉は至言だったと思う。 

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随分関係性が改善された今になっても、父と会うのは半ば自傷行為のようなもので、まったく異なる世界線を生きている祖母との会話を上手く回すというタスクとの反復横跳びに、精神が擦り切れそうになる。降りかかってくるつらいことやかなしいことの火の粉に泣きたくないとき、「あのひとに会いたくて寂しい」に転嫁して泣いては悲しみのロンダリングをしている。辛いだとか苦しいだとかどうにもならないだとかで泣いているより、「会いたい」と泣いているほうが断然気が楽なのは、言語化できない悲しみたちよりはまだかたちのわかる欠落のほうが対処しやすいからだろう。わたしは、昔から感情のすり替えが得意だ。

わたしは父に対する「愛されたい」という欲求の中身をずっとうまく言語化できず、長らく「抱いてくれるメンター」的な存在を代替としてか性癖としてかひたすらに求めてきた。それでも救われきれなくて、何年か前までは父と酒を酌み交わすたびに感情が決壊して泣いていた。「我々は父娘関係ではなくどこまでも1対1の人間同士として接してきたのであり、それには功罪あった」というトークテーマで延々話しつづけられる父のことを、わたしはそれでも好きなのだ。あのひとに出会ってからは、どうにか泣かずにやり過ごせている。あのひとはこれまででいちばん、真摯に向き合ってくれるメンターだと思う。

こんな駄々すらもあのひとにざらざらと露悪的に晒してしまうのは、分かられたいからなのか、どうせ分かられてしまっているからなのか、わたしにももうよく分からない。もうぜんぶ見せてしまった身体よりも数倍恥ずかしい混沌とした思考回路を、混沌としたまま差し出している。「分かられたい」というよりたぶん、解釈を強いているのだろう。「わたしの解釈を分かってほしい」ではなくて、「現象を解釈する方法をください」と強請っている。べつに現象自体を語れるわけではないのだけれど。

決してわたしを一段低いものや搾取の対象として見ない、常に対等な人間として見てくれるあのひとの在り方は、わたしをずっと寂しくさせた父の在り方と近似していて、ただあのひとはひたすらに世話を焼いてくれるから、リハビリのようなそのやさしさに救われている。わたしはおそらく、たいせつに思い思われている相手の解釈を聞くことでしか、自分の認知の歪みを適切な距離から把握することができない。極めて個人的で属人的な現象に対して、受け流さずに真摯に解釈を返してくれるひとがいるのは、幸せなことだ。

あのひとに語るために言語化することで、なにが悲しいのかすら分からないままに泣いていたわたしから、少しだけ進むことができる。ひとりで抱え込んで悲しいだけだった感情が、あのひととつくる記憶になっていく。解釈に添えてあのひとがぽつぽつと己の傷跡や弱音を差し出してくれるのが嬉しい。あのひとの生牡蠣が奈辺にあるかが分かるようになっていくのが嬉しい。


祖母宅滞在4日目、父と飲みに出た帰りに河川敷を自転車で走った。北風の強い日で、「耳が冷たい」とふと零したら、父がイヤーマフを貸してくれたのがどうしようもなくうれしくて、その行動ひとつがわたしにとってめちゃくちゃに意味をもってしまうことをあなた知らないでしょう、と思いながらうしろでこっそりぼろぼろ泣いた。ああわたしは、だいじにされたかったのだ、と思った。だからあのひとがあれこれ世話を焼いてくれるのがあんなにもうれしかったのだろう。わたしはいつも、比較でしか気づけない。わたしは父に、自分のことを後回しにしてでもわたしを分かりやすく大事にしてほしかった。ずっと、酷く自分本位なひとだと思って悲しかった。

20年分の怨嗟をただそれひとつで赦せるわたしは、結構可愛いと思う。「それは構造を理解しただけで、赦せてはいないのではないか」と友人に言われたけれど、さらに滞在5日目、わたしが手土産にと送り付けた風の森を飲みながら、「随分苦労させたこともあっただろう。悪かった」という謝罪が父の口から零れて、ああ、もう満足だ、と思った。その自覚があるのなら、もういい。誰も受け止めてくれなかったわたしの感情が、ようやく着地場所を見つけた気がする。

そうして情緒をぐちゃぐちゃにしながらあのひとに「父もわたしもまあまあ成長したなあと思います」などとメッセージを打って適切に労われ、「話すたびに、せんせいのこと、すきだなあと思う」とどさくさ紛れの告白をしたら、「ありがとう、わたしも好きだよ。きみの期待には応えつづけたいと思うよ」といつもの過不足ないやさしさが返ってきて、もともと過負荷気味だったわたしの感情はついに決壊する。わたしはいつも、やさしくされることのほうに弱い。

「言わせた感のある『好きだよ』は嫌だ」と言いがかりでしかない理不尽な駄々を捏ねるわたしをきちんといなすあのひとに、わたしはすぐに降伏してしまう。あのひとの「好きだよ」が、ほんとうになんの濁りもない、文字通りの言葉なのを知っている。それを言えてしまうあのひとの揺るがなさが好きだけれど、「斜に構えなくてもいいんだよ」と笑うあのひとに、これ以上ひたむきになったら死んでしまう、と思った。あのひとを好きだと思うわたしの感情ごと、あのひとはわたしを肯定する。なにかを、だれかを好きだと思う自分の感情に素直であることは、案外得難いことだと、たいせつなことだとあのひとは言う。


祖母宅を離れるとき、「父にとって世界で唯一の話し相手はわたしだ」という自意識過剰な感情が要らぬ罪悪感を引き起こすのをいつも止められない。わたしはひとを失望させたり寂しくさせたりすることが苦手だ。けれど、「他者が評価する意味や価値よりも、本人が意思をもって大切にしている世界を尊重すべきなのではないか」というあのひとの提言のおかげで、今回は比較的痛くないままにすんなりと背を向けられる。

来てよかった、と思った。

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「わたしの相手をするのは苦じゃないですか」とあのひとに問うたところで、「苦じゃないよ」が返ってくるのは分かりきっていて、自己肯定感の低いわたしはそこにやっぱり言わせた感を嗅ぎ取ってしまう気がするから、ただ「そのうち元気になるから、もう少しだけお付き合いください」とだけ強請っておく。拗ねるくらいならもう開き直ってしまおう、と思う。案の定「駄々を捏ねてもいいじゃないか」が答えで、まだやさしさに溺れていて許されることに安心する。

共通の友人の結婚式で元夫と離婚ぶりに顔を合わせることはもう随分前から決まっていて、周囲に気を遣われるのも嫌で「ぜんぜんへいき!」なポーズを取りつづけてきたのだけれど、当日の朝ドレスアップまで済ませてみるとさすがに心が落ち着かず、あのひとに「頑張れって言ってください」と駄々を捏ねたら、「頑張れ!電話しようか?」という即レスが降ってきたので、ああ、これで頑張れる、と思った。実際に再会してみると、相変わらず会話のテンポが心地よくて、新婦の生育環境の健全さの洪水というか奔流のほうがそれよりも遥かに心を抉り、予期せぬところでちょっと泣きそうになって、慌ててあのひとからのメッセージを読み返して耐えた。

披露宴のテーブルはさすがに別々だったけれど、結局2次会でいちばん話が弾んだのは元夫とで、3次会以降は仲のいい友人カップルと4人で抜け出してしまった。自分の感情や思考を言語化するのは結構得意だけれど相手にひとつも歩み寄らないところも、アルコールが入ると膝を寄せてくるところも、変わらないな、と思った。彼が席を外したところで、過去にわたしがどれだけ泣いたか知悉している友人が、「大丈夫なの?」と心配と揶揄を綯交ぜにした表情で聞いてくれたから、「ちょっと押されたら泣きそうだから押さないで」と逃げておいた。

「出会ったところからやり直したとして、何ひとつ違えずにもう一度同じ選択をするだろう」という趣旨のコメントを彼から得て、それはよかった、と思う。わたしもまったく同じことを思っていたから、このひとと結婚してよかった。日付が変わるころに、「きっと傷つけただろうと思う。悪かった」と最近どこかで聞いたような謝罪が彼の口から零れて、わたしはやっぱり、その自覚があるのならもういい、と思った。酔いが回った彼は往来で迷いもなくわたしの右手を掬い取るので、大好きだったわばーか、と思いながら笑ってみせた。きっと泣きそうな顔をしていたと思うし、彼は昔から、わたしのそういう顔に興味がない。

なんだかんだ夜が明けてしまって、帰りの電車の中で「清々しい朝帰りです」とあのひとに連絡したら、「吞み明かした朝日は眩しいよね」と返ってきて、あのひとにもいつかそんな夜があったのだろうか、と思った。成り行きを掻い摘んで話して、「お互いに惹かれるところは変わらないということかな。元気そうで安心したよ」とあのひとは笑ったけれど、なんとなくあのひとはわたしが結婚生活を続けられないタイプなことを見透かしていたような気もして、結局「その組み合わせだと、避けられなかったようにも思うよ」と落とされた感慨に、わたしは返事ができなかった。あのひとにもらってほしいとは思わない、という4年前の自分の感情は、それなりに強がりだったなと思う。

常にその時々の自分にとって最良の選択をしてきたという自負がある。変えたい過去も戻りたい過去もなく、たとえ何度やり直したとしてもわたしはきっとここに辿りつく。「自分の意思で選んだのならその後の運命も受け入れられるだろう」と言うあのひとに、わたしの座右の銘は「人事を尽くし、天命など待たない」だと言ったら、「澪ちゃんらしいね。わたしも機を伺うタイプじゃないから、待たないかな」と返ってきて、あのひとのそういうところが好きだ、と思った。

負荷のかかるイベントもどうやらこれでひと段落だ。あのひとがいなければ、この数日を生き延びられなかっただろう。感謝を込めて名前を呼んだら、「どうした?」と聞かれたから、「どうもしてない」と返した。それだけではまだすこし寂しくて、「してなきゃだめですか」と甘えてしまったら、「いーや、なんもなくてもいいよ」とあのひとはちゃんとわたしのほしい言葉をくれるのだけれど、今日も言わせているだけだな、という気もする。

でも、これで悲しい理由を探さなくていい。悲しいことがなくても、あのひとを呼んでいい。傷んでいなくても、あのひとを思っていていい。

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