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記憶は掌中の珠

この町に雨が降るたびに、叩きつけるようなスコールの中をあのひとに会いに走った夜のことを思い出す。けぶる霧雨の中をあのひとに背を向けて走った朝のことを思い出す。西風が不穏に窓を鳴らしても、あのひとが抱いていてくれたから平気だった。けれど、あのひとの温もりの向こうで一晩中雨音がしていたから、ひとりで雨音を聞くのはまだすこし寂しい。もっと触れておけばよかった、とあとから思わないでいいように、これまでのわたしよりもたくさん、あのひとのからだの好きな箇所に指も舌も這わせたのに。

世話焼きのあのひとは、わたしが野放図に甘えるときっと困ってしまうから、雨の夜はあのひとがくれた服にくるまってやり過ごす。抱かれた男の服に抱かれる。あたたかい。平生オーバーサイズを好まないわたしに、メンズの衣類は少し身幅が余る。「余白の愛」などという言葉を思い出す。寂しいときに思い浮かべてすこし救われる男の選択肢が多いほうがいいのか少ないほうがいいのかは、わたしにはいまだによくわからない。


あのひとがこの町を離れたあとも、メッセージのやりとりだけがとぎれとぎれの尾を引くように続いている。後朝をたいせつにする男が必ずしもその後の関係性を絶やさないわけではないとわたしはもう知ってしまっているけれど、それでも、「きみは俺の中に何を見たのかな」などとこのタイミングで問い直されると、ああ、わたしは今回も選択を間違えなかったな、と思う。感情の微細な変化や日常の些細な出来事を切り取って適切なatmosphereを纏った言語に落とし込める男とことばのやりとりをすることには、セックスとはまた違う快楽がある。

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「悪意のなさ」は、寝た男の目の中に見出すものとして、もっとも愛しくてもっとも救いがないものたちのうちのひとつだと思う。あのひとの根本的な悪意のなさはわたしの武装を解かせ無防備にさせたけれど、あのひとは同時に悪びれず衒いもなく、わたしたちの関係を「男と女」の文脈にあっさりと回収した。あのひとは「わたし」という人間の文脈をなにひとつ削ぎ落とさずに抱いたけれど、「わたしたち」の文脈は、たしかにひとつ、削ぎ落とされた。寝て変わるほどの関係性などそもそもなかったのだったな、とは思うけれど、いっそそこに悪意があれば見切れたのに、とも思う。


あのひとの目の奥には、ほかにもいくつかの影が寂しそうに彷徨っていた。幼少期の家庭が必ずしも幸福ではなかったこと、幸福な家庭を築きたいと思ったこと、父親になりたくてなりたくてなれなかったこと、安全圏で若い女を抱くのにきっと慣れていること、わりと無心にわたしを愛でていること、不可解なものを読み解きたいと思ってしまうこと。

十全に幸福な幼少期を送った人は、おそらくわたしを抱く必然性がない。「わたしに手を出す必然性があるひと」は、不安定で孤独で傷だらけで、だけど強がって平気なふりして笑う日々を重ねたことがあるひと、か、不安定で孤独で傷だらけで、だけど強がって平気なふりして笑う日々を重ねる女を本気で抱いたことがあるひと、だ。


これだけうだうだと思考を低回させておきながら、本人への返信としては「一応あなたの目にわたしは映っているのだな、ということを」とだけ送るような女だ。「何かの記号としてではなく、ね」と追い打ってしまったあたり、すこし移入している自分を自覚する。こんな迂遠な甘えが、「伝わる」と思ってしまっている。昔ならくだらないと切り捨ててしまっていたことのはずなのだけれど、なんだかいま、こういうやりとりを適切にいとおしんでもいいのではないかという気持ちになっている。このひとに分かってほしい、このひとなら分かってくれる、と思えたら、わたしはこうも素直になるのか、と、あのひとに抱かれながら感じていた。

わたしはたぶん、己に染みついたシニシズムにすこし、飽き始めている。


「ちゃんと映っているし、もっと知りたいと思っている」があのひとの答えだった。「外面を飾るよりも、心の声を大切にして生きる人が大好きだ」と続けたあのひとはたぶん、わたしがこの町に移り住んだことの意味を誰よりもよく理解しているひとだ。

あのひとをわたしに紹介してくれた人が、「あなたたちを引き合わせたあの夜、会話の中で先生はとても楽しそうで嬉しそうだったのよ」と言っていて、ああ、あの日わたしはそれを見抜く目を持たなかったな、と思った。人と人との出会いのタイミングと、人と人との間に引力が生じるタイミングは、必ずしも一致しない。だからこそ、この町がわたしたちを繋ぎつづけ、そしてこれからも繋ぎつづけるであろうことを、わたしは言祝いでいる。


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一度懐いた相手に対しては、うっかり崩れるように凭れかかってしまいそうになるから、日数が限られていた、とか、距離が遠くなった、とか、関係を加熱させずにゆるくぬるいままに継続させられるそういう要素が、わたしの自制心を随分強いものにしている。けれど、離れていてもリアルタイムでことばのやりとりができることのよさは、この世界のどこかで、たとえどんな状況であろうと、相手がその瞬間にわたしのことを考えていると知れることかもしれない。相手がいる場所が、オフィスだろうと、研究室だろうと、飲み屋だろうと、レストランだろうと、ホテルだろうと、家庭だろうと。

誰かがわたしのことを考えてくれていないと眠れないと思ってしまう夜はもうほとんどなくなったけれど、酔って精神の統制を緩ませた挙句に誰かに触れたいと思ってしまう夜はまだたまにある。そんな夜の翌朝、なにか嫌な予感がしてあのひととのやりとりを見返したら、案の定「会いたい」などと伝えてしまっていて頭を抱えた。たかが何夜か寝たくらいで、そういうことを言ってしまう女になりたいわけではない。わたしは嘘をつくのが嫌いで、だから、安っぽい「会いたい」を、このひとでないとだめなわけでもない「会いたい」を、雑に垂れ流したくないのだ。そういうせめてもの自律を己に課していないと、ことばが擦り減ってしまう。

けれど、わたしのそんな「会いたい」に「ありがとう」と返すあのひとの対応力はやっぱりさすがだなと思った。寂しい夜に会いたいと思えるようなポジションに俺を置いてくれてありがとう。そういうニュアンスを孕んだ返しはおそらく、酔ったわたしのいなし方としてパーフェクトに近い。杜撰な共感も安易な宥めも差し出さず、ただわたしの感情を受け取ってその懐に素直にしまうあのひとは、やっぱりいい男だ。「俺も会いたいよ」なんて甘ったるいことを言われたら2秒で冷めそうだし第一不可能だから、冷静でいてくれて嬉しい。

あのひとはたぶん、わたしの安定を信じている。わたしのベッドの上での崩れ方や甘え方を、わたしがあの空間でだけ見せることのできる表情だとちゃんと理解してくれている。それを日常に持ち込みたいわけではないし持ち込む必要もないのだとちゃんと分かってくれている。


夕方、「それはそうと、お勉強してきました」とその日参加した勉強会の資料の写真を送ったら、「会いたい」のくだりには一切言及せずに勉強会の内容についての会話に流れてくれたのが、とてもありがたかった。結局のところ誰もわたしを救いはしない。わたしを癒せるのも、わたしを癒すものを選べるのもわたしだけだ。それでも、そうやってもがいているわたしを、適切に理解し定点観測しつづけてくれるひとがいることは、とても心地よい。

早寝早起きのあのひとは、わたしの夜中の繰り言に、いつも夜明け前に返事をくれる。それが分かったからわたしは深夜、指先から駄々を零したあと、翌朝の救いを夢見て、すこしだけ安らいで眠りにつく。明け方の一通にはいつもやさしいことばが綴られているから、しばらく開かないままにしておく。少し息が苦しくなったタイミングで読めるように。


***


メンターにしたい男と寝ているのか、寝た男をメンターにしているのか、はたぶん、鶏が先か卵が先かと同質の議論だ。二回りほど年上の男性との距離の取り方の上手さを、ここ15年ほど賞賛されつづけているけれど、それはいつだってわたしが一番愛してほしい男との間で叶えたくて叶えられなかった距離感だった。相も変わらずわたしは、愛されなさと愛されたさを混同している。

「父親」に愛されたくて甘えたくて縋りたくてずっと苦しかったけれど、年に一度か二度のペースで父と酒を酌み交わしながら森羅万象についてフラットに語り合う夜を数年分重ねて、最近どうやら父は「父性」の欠落した彼なりにわたしのことを思っているらしいとか、わたしと父は結局似た者同士なのだとかいうことに気づきつつあるわたしは、それに加えて、いろんな場面で「父性に抱かれる」という経験を複数積んできて、ああ、もうそろそろいいかな、という諦念に辿りつきつつある。それはたぶん、「父性」も容易に男の顔をして女を抱いてしまうのだ、という見切りでもあり、その一方で、「父性」の発露はさまざまであってもそのいずれもが子を愛するゆえであるのだ、という納得でもあった。


あのひとが触れたわたしは、女だったり少女だったり動物だったりした。わたしが触れたあのひとは、男だったり父親だったり動物だったりした。わたしたちはお互いにおそらく、心と身体を絡め合わせる中で相手が差し出したものを、相手が思うより高く評価している。お互いの価値観が、そういうふうに捻れているから。

あのひとの手は、いつも優しかった。波打ち際にはぐれた渡り鳥をすくいあげるようなその手は、いつかわたしを空にかえす。

適切なタイミングで適切な人と寝たな、と思い、ああ、やっと言語化できた、と思った。過去にあのひととのセックスにまつわる言葉を散々紡いでおいたけれど、行為そのものをなぞりたかったわけではない。あのひとがわたしに触れたときの温もりはわたしの肌に、乾いた大地に降る雨のように染みて、わたしの心を潤したから、わたしはその雨を咀嚼して土を均す必要があったのだ。

こころをえがくことばを、今こうして適切に掘り当てられたことにとても満足している。そうやってわたしは、誰かとの思い出をきれいなまるい珠にする。思い出しては愛でる珠にする。

わたしはたぶんこれからも、ただそこにある「父性」というものに安心しつづけるのだろう。けれど、もうわたしはそれを父に求めはしないだろう。わたしはたぶんこれからも、「父性」に欲情するし「父性」と寝るのだろう。けれど、もうわたしはそれを露悪的に父に伝えはしないだろう。庇護されるのも保護されるのも、仮初めだから気持ちいい。仮初めだから委ねられる。持続可能性は気持ちいいけれど、永遠、はこわい。わたしはもう空の広さを知ってしまった。「手にした自由に縛られたい」はある種の自家撞着であろうけれど、世間の常識から解き放たれても、結局また歪んだ感情に縛られる。それならばわたしは、ほかならぬわたしに縛られて生きたいと思う。ときどき、波打ち際に立つ誰かの優しい手に羽を休めながら。





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