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わたしは水に愛を書く

知らないほうがよかった、と、それでもあのひとを知りたかった、の反復横跳びを生きていくのか、これから。

***

わたしはついにあのひと相手だと、「寂しくなっちゃったから、10秒でいいからわたしのこと考えて」などとメッセージを送るような女になってしまった。弱くなったのか、むしろ厚顔になったのか分からない。でもこれが、今まででいちばん素顔のわたしだ。

「今度会えたときはハグさせてね」

わたしがなにに不安定になっているのか、ひとことも伝えていないのにすべて掬い取られたメッセージが来て、わたしはまた死にそうになる。あのひとはときどき、想像を絶する精度でもって、わたしに致死性の追い打ちをかけてくる。「わたしのことを考えたら、抱きしめたくなった」ならいいな、と思う。わたしだけでないのならよかった、と思う。ずっとわたしだけのようで苦しかった。あのひとがまだ「抱きたい」だとか「触れたい」だとか思ってくれているのだとしたら、それだけで生きていける。

わたしは飢えているので、あのひとの丁寧に磨き上げられた滑らかな愛にさえ容易く切り裂かれてしまうのだ。いっそもう殺してくれないだろうか、と思って、さすがにそれは甘えすぎだろうな、とも思う。あのひとは昔、まだ寂しそうだったころいちどだけ、抱きながらわたしの首筋に手を添えて、ほんのすこしだけ力を込めた。わたしはむしろ差し出すように力を抜いて、あのひとは決してそれ以上の圧をかけようとはしなかったけれど、あのひとの手のなかで脈打つ自分の血流があつくて、この脈の温度があのひとの手のひらをあたためればいいと思った。わたしの血にふれればあのひとは、すこしはさびしくないだろうか、と思った。

あのひとは嘘を吐かないひとだから、抱きしめたい、にもべつに裏も含みもないのだろう。翻ってわたしの「寂しくなっちゃった」は、嘘ではないけれども文字通りの言葉でもない。「寂しい」だけではない。会いたいし触れたい。声が聞きたい。こっちを向いて笑ってほしい。いつもわたしばかりほしがっていて、求めれば過不足なく与えられるけれど、求められることはない。あのひとに与えられて「足りない」がなくなったら、「寂しい」ばかりが残った。呼べば応えがあることに救われているはずなのに、あのひとがわたしを呼ばないことに悲しくなるのは贅沢だな、と思う。思うけれど、悲しい。悲しい、と恋しい、は、わりと似ている。

勁くて聡いひとは、4年もあればちゃんと前に進んでしまうのだな、と思う。あのひとの世界に足りないものなどないといいと思っているし、あのひとの心の穴の縁がもうざらついていないのならそれは喜ぶべきことのはずなのに、そこにどうしようもなく不安になってしまうのは、わたしに埋められる穴もふたりで落ちていける穴も見つからないからだ。あのひとの穴が見えない。わたしに埋められる穴が見つからない。あのひとはもう、寂しくなることはないのだろうか。寂しいのも穴が空いているのもほんとうにもうわたしだけなのだろうか。あのひともわたしに依存すればいいのに、という願いの仄暗さなどちゃんと自覚しているのだけれど。

こうしてときどき自他の境界がぐちゃぐちゃになるのを、あのひとの輪郭の淡さのせいにしたくはない。好意と依存の区別は今もって分からずに、感情を持て余している。混沌とした感情を整理して綺麗に残しておこうとしてきたけれど、いまはこの混沌すらも愛おしんでいたい。これがぜんぶ前戯なのだとしたら、それはそれで耐えられると思った。物理的な距離が遠くてよかった。近かったらわたしはたぶん、もっと甘えたがりになってしまう。心の中のあのひとになら、直接言えない「会いたい」も「寂しい」も好きなだけ言える。

聞いてほしい話はたくさんあるような気がするけれど、わたしには抱かれたあと胸に顔を埋めながらしか言葉にできないことが多すぎる。こんなにも丁寧に世話を焼かれてなお、こころもからだも両方ひとしく抱きとめてもらえないと苦しくなる強欲さを喉の奥に抱えている。誰でもよかった時期があって、誰かに助けてほしかった時期があって、愛されていないと無理になった時期があって、それでも必要とされたい時期があって、ぜんぶ知ったいま、ぜんぶ抱かれないと満たされない。

それでも、ずっと愛されていたいから、できるだけ物分かりのいい女でいたい。使い捨ててしまった優しさもあったことを思い出して、愛されなくなることが怖いかどうかはわたしにとってひとつの指標かもしれないと思った。条件付きの愛に怯えながら育ったので、いつもなにかを疑っているし、いつもなにかを怖がっている。わたしが自縛している条件はたぶん、「かしこくて物分かりがよくないと愛されない」なのだろうと最近思う。そうでないと父とコミュニケーションが取れなかった。そうでないとおそらく、父はわたしを拒絶した。あのひとと苦手なものの話をしていて、「否定されるのが嫌か」と問われたときに一拍考えて答えた「否定されるのは平気。拒絶されるのが苦手」が、案外本質を突いていると思う。

***


あのひとは、それが特に返事をしなくてもいいような会話の終わりめいた内容であっても、わたしからのメッセージを最後にしてやりとりを長く止めることを避ける傾向があるように思う。前のわたしの「ん、今度会えるまでがんばって生きる」から30時間後の明け方に届いた「地震大丈夫だったか。」が、たぶんそういう脈絡で紡ぎ出されたものなのは分かっている。それでも、あのひとの頭の片隅に30時間わたしが引っかかっていたのだろうかと思うとうれしい。うれしい。あのひとがわたしを思い出す瞬間をぜんぶかきあつめて、額に入れて飾っておきたい。

本当の贅沢というのは、ただ一つしかない。
それは人間関係の贅沢のことだ。

サン=テグジュペリ


あのひととのメッセージのやりとりに縋りつづけることが、なにかを重ねることなのかなにかを目減りさせてゆくことなのか分からない。馴染みの日本酒バーでひとり昼酒を煽っていたら、あのひとが住む土地の地酒を供されて、わたしはうっかりあのひとにそれを報告してしまう。

あのひとにとってどこまでがストレスでないかすらも知らないけれど、世話を焼くのが性癖なら、わたしの甘えが刺さっていると思ってもいいのだろうか。Happiness only real when shared をわたしに教えたのはあのひとだから、自分が蒔いた種だと思って優しくしてほしい。共有や共感の喜びがすこし分かるようになりましたと言ったらあのひとは嬉しそうで、そうか、わたしが成長すると、あのひとはうれしいのか、と思う。

「ミオちゃんとまた吞みたいね!」

たぶん何気ないのだろうエクスクラメーションに性懲りもなく胸は跳ね、せんせいあなたはずるいひとです、と思う。うん、わたしもせんせいとお酒が飲みたいです。たった一通のメッセージに容易く懐柔されてしまうわたしだけれど、過度な期待は身を滅ぼすことをもう知っているので、なんとか理性めいた返信を打とうと頑張ってみる。

「難しいのは分かっているけれど。」
「実現させよう!」

わたしの陳腐な努力は一瞬で粉砕されて、ごめんなさい、好きです、もうだめです。

「ん、楽しみにしてます。」
「わたしもだよ!」

わたしの感情にあのひとが「わたしもだよ」を返してくれるのに導かれて、わたしはすこしずつ人間になっていくような気がする。これが「あのひとの色に染まっていく」ということなのだとしたら、そう悪くないな、と思った。あのひとは、感情に名前をくれる。悲しみに納得をくれる。寂しさに答えをくれる。わたしを人間にしてくれる。でも、抱き合っているときは、動物でいてもいいと言ってくれる。

あのひとは承認欲求以下を満たし終えて純粋に自己実現欲求だけで生きているように見えると以前書いたけれど、自身のそれだけではなくてわたしのぶんまでも承認欲求より下に関してはこのうえなく適切に満たしてくれるから、安心したわたしは「あのひとに必要とされたい」なんて贅沢なことを願ってしまうのだろう。


あのひとの言葉尻が終始いつもより明るくて、わたしも随分酔っていたけれどあのひとも酔っていたのかもしれない、と思う。酔えば必ずそのあとを抱き合って過ごしてきたわたしたちにとって、「一緒に飲みたいね」はもう「あなたと寝たい」と同義だ。せんせいせんせいせんせいせんせいせんせい、とくちの中でちいさく繰り返して、愚かしいな、と思う。わたしのいちばんかしこいところは、この内心の混沌を絶対に本人に伝えないところだと思う。心の中のいちばん我儘な感情を晒け出しても、それでどうなるものでもないことをちゃんと分かっているから、会いたい、とか一緒に眠りたい、だとか、そういうのをぜんぶ押し込めたままこうやっている。あのひとにたぶん一生言わないだろう「たすけて」を、今夜も持て余している。


たまに吐いてしまう「寂しい」にはいつも、「わたしもだよ」ではない応えが返ってきて、これがたぶん彼我の懸隔がいちばん顕著に出てしまう感情なのだとそのうち気づいた。翻って、「幸せ」や「好き」に返される「わたしもだよ」はやっぱり嘘ではないのだと、あのひとはそういう嘘はつかないひとなのだと思ってうれしくなるわたしはどうしようもなく愚かだなと思う。

「今月時間が空いたから会いに行ってしまおうかと思ったけれど、理性があるのでやめておきます。」
「そうか。またそっちに毎年行けるように頑張るよ。」

その迂遠な「ちゃんと会いに行くから」に泣きそうになる。あのひとが寂しくないのはわかったけれど、わたしがいまこの瞬間寂しいのはどうしたらいいのだろう。わたしの住む町はあのひとがかつて愛した町でもあるので、あのひとの鼓動が高鳴ることがまたこの町にあるといいな、と思う。べつにわたしがいなくとも、あのひとは己の愛するものを追ってまたこの町に来るのだろうけれど。


あのひとがいい、と思ってしまいそうになることもあるのだけれども、あのひとがわたしがいい理由などひとつも思い浮かばず、考えるたびに死にそうになるからもう嫌だ。あのひとはわたしのほしいことばをいつも的確に与えてくれるけれど、わたしにはあのひとのほしいことばがわからない。好きだと言えばすこしは満たされるのだろうか。あのひとと何かを共有できることをただ喜んでいればいいのだろうか。どうすれば笑ってくれるのだろうか。どうすれば、ずっと好きでいてくれるのだろうか。

あのひとでないとだめなときはなにをやってもだめだ。「話したい」という欲求がずいぶん満たされたいま、もうふれたいふれてほしいというピュアな欲望しか残っていなくて、欲求ならばほかのひとで埋まるかと思って3人くらい寝てみたけれどぜんぜん埋まらなかった。あのひとが埋めたわたしの穴に、もう誰もはまらない。「誰かに」愛されたいではなくて「あのひとに」愛されたいなのだと、できれば気づきたくなかった。「このひとでないとだめだ」が増えてくるのは嫌なもので、ただひたすらあのひとがほしい。恋人ですらもうわたしを満たせない。もとから満たせていたのかどうかという問いは、愚問だ。

***


こっそり見つけたあのひとの好きなアーティストを延々と舐めながらゴールデンウィークを過ごした。好きなひとの好きな音楽を聴いて「すごくいいな」と思うのも、「ぜんぜん好きじゃないな」と思うのも好きだ。 Keith Jarrett は音の構成が理知的で、いいステレオで聴きたくなるし、 Bruno Major の She Chose Me を聴きながら He never chooses me などと思っているのは自傷が過ぎるなと思う。

脳内をあのひとに塗りつぶされたままひとり旅に出てみたところで、うっかりあのひとにゆかりのある土地ばかりを巡ってしまっていて嫌になる。また会いたいね、ということばが会えない時間を強調してしまうのと同じように、あのひとがかつて過ごした場所を歩くことはあのひとの不在を強調してしまう気がする。海を見てはあのひとを思い出している。あのひとは、会えないこともわたしの不在も、適切に飲み込んでしまえるひとだ。あのひとがもう寂しそうでないことが嬉しかったはずなのに、もっと寂しそうだったらよかったのだろうか、といちばんだめな思考回路が回りはじめて、止めたい。あのひとの日常は、わたしなしでつづいてゆく。


4時間かけて辿りついた街は、雨上がりの雫を纏ってきらきらと眩しかった。初めて訪れた場所なのに、あのひとが青春時代を過ごした街かと思うとなんだか愛しいような気がしてくるので、思い込みというのは恐ろしいものだ。「時間があったら街並みを眺めてみて」というあのひとに従って、ロープウェイに乗って夜景の美しい展望台に来てみたら、案の定周囲はカップルだらけで、ついあのひとにここで誰かとなにかを共有したことがあるか聞きたくなってしまうわたしは相変わらず自傷癖が酷い。愛を試すものではないなどということは分かっている。分かっているのだけれど、一生あのひとに駄々を捏ねていたい。

あのひとを知りたいという好奇心とあのひとを揺らしたいという仄暗い下心の混合物を結局わたしは上手に飲み下せず、写真に添えて「先生も昔ここで夜景デートしたりしたかしら」という疑問形を取りきらない問いを投げてしまう。「懐かしいな。変わらずキレイだね。」を返すのは、それはもう肯定で、綺麗な返し方だな、とは思う。愛の深いひとの隣にはずっとなんとなく誰かがいるのだろうことは想像に難くなくて、予想通りの答えだったはずなのに、街の夜景がすこしだけ滲んだ。

泣けない女の寂しい気持ちを、あのひとがたくさん知ればいい。


わたしは愚かなので、翌朝はあのひとの出身大学のキャンパスを覗いてみたりもする。おそらく一生、この愚かしさを抱いたまま生きていくのだろう。道中美しいものを見るたびにあのひとに共有したくなってしまったけれど、 実際に連絡しているのは脳内のあのひとに語る100分の1くらいに留めているので許してほしい。

海岸線のロングドライブは心地よかったけれど、相変わらず晴れ女のわたしには空も海も青すぎて、あのひとがここで過ごした日々のことを考えたりあのひとと過ごしたいちにちのことを思い出したりしていたら余計にあのひとの不在が滲みて、運転しながらぼろぼろ泣いてしまった。「寂しい」をあのひとと共有できないことに傷ついている自分を発見している。これまでたくさん「悲しい」をあのひとに掬ってもらってきたけれど、あのひと由来の「悲しい」は、あのひとにさえ掬えないのだと気づいてしまった。

あんまり優しくしないで。うそ、やさしくして。先生にゆかりのあるものを探してるなんて知らないでしょう。知ってよ。言わないけど。矛盾だらけの感情が出口を失くして渦を巻いている。自分で始めたし自分で欲しがったし自分で会いたがっているので圧倒的に自己責任なのだろうけれど、もうなにも分からない。ただ、いまこの瞬間、あのひとに触れたかった。あのひとがどこが気持ちいいのかすら知らないくせに。

***


4年前は夜毎窓の外の雨の音を聴いていたけれど、今年は雲ひとつない青空の下を並んで歩いたから、もう降っても照ってもあのひとを思い出すようになってしまった。雨も晴れも、夜も朝も昼ももらってしまったな、と思う。4年前は天候が崩れなければああはならなかったし、今年はわたしが予定を変更していなければこうはならなかった。そこになにかを見出そうとするのが愚かであることくらい分かっているのだけれど、4年ぶりに会えたことを、神様からの誕生日プレゼントだ、と思ってしまったのだ。

白っぽいアサリやサクラガイの貝殻ばかり落ちていた海辺であのひとが、「これがきみ」と言って手渡してくれたちいさなカサガイの黒基調の貝殻と、「これが俺」と差し出してくれたちいさなイガイの真珠層のうつくしい貝殻を、デスクに並べては飽きずに眺めている。あたたかくてうつくしい春のいちにちをあのひとと共有できたことを、たぶん一生忘れないと思う。


あのひとのほうへあのひとのほうへと流れたがる心を身体ごと無理やりに引き剥がして、海に帰ってきた。あのひとがわたしにくれた「好きだよ」の文字列を順番になぞっては不安をねじ伏せてゆく。ひとりになるとまだ会いたくて泣けるけれど、これでいい。悲しむために出会ったわけではない。わたしのいるべき場所で、あのひとが愛したこの町で、やさしくて不器用で真っ当な男に愛されて、平穏に日常を紡いでいこうと思う。非日常の女としてあのひとを待ちながら。

私は水に愛を書く

たとえ
水に書いた詩が消えてしまっても
海に来るたびに
愛を思い出せるように

「海が好きだったら」寺山修司

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