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善良な友たちは今どこにいるのだろう

ここ最近、カルト教団というものの恐ろしさや理不尽さが世の中に知れ渡るようになった。
その話題を目にするたびに記憶の底からある光景が立ち上がる。
それは高校時代の友人たちの笑顔。

高校に入学して、仲良くなった人たちがいた。
思春期というのは「グループ」があり、中学でも高校でも「グループ」に属していないとダメなのかなというような思いが私の中にあった。

たまたま仲良くなったグループのメンバーは善良で優しい人たちだった。
穏やかに話し、人のワルクチは言わず、何かへの批判もしない。
いつも好きなもの、日常のこと、家族のことなどを話すのであった。
一方わたしはといえば、文学や社会学などの本を好み、冷めたところのある高校生だった。彼女たちの善良さを眩しく思いつつも、そこに居心地の悪さと何かしらの違和感も持っていた。

何かいさかいがあったわけでもないのだけれど、わたしはそのグループから離れることにした。
孤独になるというのは心許ないものだけれど、合わなさを感じながらどこかに所属するよりは気楽な気がしたのだ。とはいえ、同級生全員がグループ大好き!なわけではなく、同じように群れないことを好む人も少数ながらいて、私の学校生活はけっこう楽しく過ぎた。

群れない一人である自分の世界を持つ友人とその話をしたのは、社会人になりたての頃だったか、もう少し後だったか。
彼女が言った。
「みおちゃんが最初に仲良くしていたグループあるでしょう?覚えている?その子たちね、全員自己啓発セミナーかなにかにハマっちゃって大学を辞めたりなんだりと大変なことになったらしいよ。一人は親が取り戻したらしいんだけど、親と縁を切った子もいるらしいし、行方知らずになった子もいるらしいよ」

驚くとともに納得もした。
私は学生時代に宗教学を学ぶ過程で自己啓発セミナーについても多少は勉強していたから、彼女たちがハマってしまうのが分かる気がしたのだ。

伝統的宗教ではないカルト宗教や自己啓発セミナーは人の心の弱みに付け込む。
真面目で善良な人が心が弱っているやさびしさを感じたときに取り込まれてしまうこともあるのだろう。

人は「どう生きるか」「社会の中での自分」というものを思春期くらいから考えていないとカルトや自己啓発に取り込まれてしまうことがある。
真剣に考える中でいろんな本を読み知識も蓄えられるし、批判的なものの見方も養える。
批判的なものの見方ができず善良なだけだと、心の隙があるとそれをつかれたときにやられてしまう。
一方で、自分や社会について真面目に考えすぎてもやられてしまう。
真面目であるがゆえに答えを切望してしまいそこを狙われからめとられてしまうのだろう。

今、彼女たちはどうしているのだろう。
グループが苦手な友達や私が知らないだけで、もしかしたらまたこちらの世界に戻ってきているのかもしれない。
そうであればいいなと願いつつ、まだ高校生だった彼女たちの優しい笑顔を思い出す。



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