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完璧な人 第7話

付き合い始めてからも
拓実くんは優しかった。



まるで壊れやすい
宝物を扱うように
優しくキスをして
優しく私を抱いた。




幸せだった。

日向ぼっこをしているような
確かにそこにある幸せに、
なのに何故だかときどきチクリと
胸が痛んだ。



目を覚ませ、と
誰かが何かを
忠告しているようだった。
それが何かは分からない。



「凛ちゃん」

ある日リビングにいて
編み物をしていると
キョーコさんが
神妙そうな顔つきでやってきて
私の隣に座った。


「アナタ、拓実と
 付き合ってるの?」

思わず編み棒を
落としそうになる。

秘密にしていたはずなのに。


「分かるの?」

「当たり前よ」


 気づかないのは
海斗くらいよ、と言う。



「それでいいの?」

え?

「アナタそれで幸せなの?」

「うん、拓実くんは
 お日さまみたいで
 あったかくて、幸せ」


キョーコさんは、はぁ〜っと
ため息をついてから
言った。



「アナタお嬢だからまだ
 ねんねちゃんなのね。
 経験が足りないんだわ。


 2人のことだから
 これ以上言わないけれど
 後悔しないようになさい」


それだけ言って席を立つ。

「えっ?
 キョーコさん?」

呼び止めると振り返って
こう言った。

「心の声を
 よく聴きなさいね」



秋の終わりから冬にかけて
仕事が忙しくなり、
息をつくのもやっとのような
状態が続いた。




貴重な休みの日も
拓実くんとデートをして
翌朝まで共に過ごすから
疲れが溜まっているのも
当然だったけど、
自分では気づけなかった。



馬鹿みたい。




粉雪の降り出した
ある日の帰宅途中の車内で
目がクラクラする
不快感を覚えた。




いけない。
のぼせを防ぐために
着ていたコートの前を開け、
首元から肌に風を入れる。




ここで倒れたら駄目。




何とか最寄駅まで着き
覚束ない足取りで家路を急ぐ。




帰ったらすぐに
お水を飲もう。
何か胃に入れなくちゃ。



暑い。

慌ててコートを脱いで
玄関を開け、
キッチンに入ると
リビングに彼がいた。



「野々宮さん?」



何故か、安心した。
その瞬間、
緊張していた糸がプツリと
切れたのが分かった。
いけない、と思ったのに
遅かった。
私はその場にズルズル、と倒れた。




推しの野々宮さんに
醜態を晒してしまった。
穴があったら入り込んで
泣き続けたい気持ちになったけど、



嘔吐しそうな不快感と、
真っ暗な視界、
遠くでキーンと鳴る
耳鳴りに
気持ちが悪くてどうにも出来ない。




「凛?おい凛!」




暗闇の中
野々宮さんの声だけが聞こえる。




「凛、悪いな、服を緩めるぞ」




そう言っていとも簡単に
スカートのホックを外し
ファスナーを少し、下げた。




「ここもいいか」



動けない私の
セーターとブラウスの間、
背中側に手を入れて
服の上から
ブラのホックを一度で外す。




さすが野々宮さん、
女性の服を脱がすのが
上手だな、と
こんな状況でも思ってしまうけど、
途端に少し楽になる。





今日、変な服
着ていなかったかな。
私、少し太ったけど
かっこ悪いって
幻滅されなかったかな。




見えない視界の中で
声を振り絞って謝った。



「野々宮さん、
 ごめんなさい。嫌なことさせて」



「別に嫌じゃない。
 こんな状況で
 そんなこと気にするな。

 少しだけ待ってろ」




そう言って彼は
何処かへ行ったようだったけど
すぐに戻って来て
足元に毛布をかけてくれた。




顔にヒヤリと
冷たいものが当たる。
気持ちいい。



「冷や汗がすごいな」



野々宮さんが汗を
ぽんぽんと拭いてくれている。




私、ぜったい
お化粧が崩れてる。
汚いって、思われてる。




「ごめんなさい」


「だからいいって。
 そんな青白い顔で謝るな」




彼は私の視界が
見えるようになるまでずっと
冷や汗を拭き、
髪を撫でてくれていた。




感極まって
泣きそうになったけど、
具合の悪さがそれを
身体の奥に押し留めた。




「ようやく少し
 顔に赤みが戻ってきたな」


「ごめんなさい、野々宮さん。
 本当に、ありがとう」


「バーカ。
 だから言うなって。
 まだ起きたら駄目だ。
 もう少し休んでろ」




野々宮さんは私が
起きられるようになるまで
付き合ってくれた。




視界が完全に戻り
耳鳴りも止んで
そろそろとソファーに
座れるようになると、
彼は私のピンク色のマグカップを
持って来て手渡す。




「お前は少しカロリーの高いものを
 口にした方がいい。
 ミルクティー、飲めるか」



あったかいミルクティーは
少し甘くて
また泣きそうになる。




「ありがとう、野々宮さん。
 ごめんなさい」



はぁ、と息をついて
野々宮さんは言う。




「お前それ何回めだ。
 具合が悪い時はお互い様だから
 本当に気にするな。
 俺は俺が出来ることをやった。
 それだけだ」




横に座った野々宮さんは
私を見守るように
ミルクティーを飲み終わるのを
待ってくれる。




無表情なのに
彼からは、優しさが溢れている。




それを飲んで
また「ありがとう」と言うと
野々宮さんが口を開く。



「凛、まだベッドで
 横になっていた方がいい。
 歩けるか?ゆっくり立ってみろ」




スカート落とすなよ?



うん、そう言って
ファスナーを上げて立ってみる。
大丈夫そうだ。




「本当にありがとう、野々宮さん」


「部屋まで送る。
 階段が危ないだろ」


「でも、もう大丈夫」


「いいから送る」



手すりを使っていつになく
ゆっくりした動作で階段を上る
私の後ろについてくる。



落ちても支えられるように
してくれているんだ。



部屋に着くと
ドアの前でもう一度
「ごめんなさい、ありがとう」と言った。




彼はそれを聞いて
ふっと笑い
「全く、お前は」と
微笑みかけた。




あまり表情の無い彼の
その優しい笑顔が
やけに胸にささる。




「よく寝てろ。 
 お前、夕食食べていないだろう。
 これからうどんでも作って
 持って来てやるから」



「いいの?
 ありがとう、野々宮さん」



「バーカ。 
 大人しくしてろよ」




私が部屋に入ったのを見届けて
下へ降りていった。




言われた通りベッドに入った私は
後から後から流れ出る涙を
止めることが出来ず、
布団の中で嗚咽しながら泣いた。





恥ずかしかったのも
申し訳なかったのも
もちろんあるけれど、


野々宮さんの優しさが
私の全てを包んで
末端から心臓の中心まで
余すことなくじんわりと
温めていくようで、


嬉しくて
涙が止まらなかった。




一旦止まった涙は
入れてもらったミルクティーを、
かけてもらった毛布を、
思い出すたびに
また止めどなく溢れ出た。



泣き疲れて
ぼんやりしていると
ドアをノックする音が聞こえた。




「凛、大丈夫か」




慌てて涙を拭いて
ドアを開ける。



あったかいうどんの
優しい香り。
野々宮さんが
お盆を持って立っている。




「お前、泣いていたのか。
 目が赤い」




そう言われて
絶対に駄目なのに、
これ以上迷惑をかけては
いけないのに、
また涙が出てしまう。




馬鹿馬鹿。
どうしようもないな、私。




自嘲の笑いを浮かべて
「ごめんなさい」
そう言った後、
下を向いて両手で顔を覆った。




絶対変な顔をしている、私。
どうしてこうなんだろう。




彼はうどんの乗ったお盆を
足元に置き
私を抱き寄せてくれた。




「いいから。
 本当に気にするな。
 お前具合が悪いのに
 そんなに泣いてどうする。
 余計酷くなるぞ」




心臓の鼓動が速い。
自分の耳が真っ赤なのが
見なくても分かる。




「いいか、もう忘れろ。
 明日になったらもう
 ごめん、も、ありがとう、も
 言うな。
 言ったら怒るからな。
 伸びる前にうどんを食べて寝ろ。
 よく寝るんだ。いいな」


うん、うん、と
小さい声で答えて
涙を拭って微笑む。



ありがとう野々宮さん。




それしか言えない私に
優しくお盆を渡し、


「よく寝ろよ」と
また釘を刺して1階へ戻る。




うどんの温かさに
満たされたのか、
貧血と泣いた疲れもあったのか、
その夜はぐっすりと
優しい気分で眠れた。




野々宮さんに
料理を教えてもらえることになった。



下手すぎて
呆れられないかな。



彼と一緒にいられる時間は
嬉しいのに怖い。
幻滅されないかと緊張する。




だから
拓実くんと一緒なのは
とても安心できた。




前日にパックして
よく鏡を見ながら
自分の顔をチェックする。




野々宮さんの教え方は
分かりやすくて、
料理本では何を言っているか
よく分からないことでも
理解できた。




だけど、彼に教わるとき
距離が近すぎて
心臓の音が
部屋中にこだましているように
うるさく聞こえる。




「凛、ここはこう」



近い近い近い‼︎


彼の息が髪にかかる。




見ると野々宮さんは
拓実くんに教えるときの
距離も近い。




野々宮さん、
距離感が近いの天然なんだ!
そういえばすぐ
頭をぽんぽんして来る。




こんなの心臓がもたないよ。




拓実くんは
とても真剣だった。
怖いくらい熱中して
野菜を切っている。




そうしてよく、
珍しく棘のある物言いで
野々宮さんに絡んだ。




何としても上手くなりたい
熱意と、
側から見ても分かる
鋭い針のような嫌悪感が、
同居しているように感じた。




拓実くん、
野々宮さんのことが
嫌いなのかな。




よく褒めていたし
慕っているように
見えたけど。






その日の夜
拓実くんは乱暴に私を抱いた。



「痛い!痛いよ拓実くん」



あえて
私を傷つけるように
痛めつけるように
抱いているように感じた。




怖い。




拓実くんに
恐怖を感じる。




だけど、恐怖と共に、
想いを伝えられた
その日に見せた
苦しそうな表情が見え隠れして
悲しくなる。




「拓実くん」

「......酷くしてごめん」

「どうしたの?
 料理のレッスンつらいの?
 やめようか?」


「いや。

 嫌だよ、やめない。
 凛ちゃん、海斗さんの料理を
 すごく美味しそうに
 食べるでしょ?


 俺もそんな風に
 料理が出来るように
 なりたいんだ」




自分より3つも
年下の拓実くん。
ひなたのような拓実くん。
この人を
傷つけてはいけない。




私は腕を拓実くんに回して
ぎゅっと抱きしめた。






野々宮さんとの
料理のレッスンの夜のたびに
拓実くんは私を
乱暴に抱き続けた。




苦しめ、とでも言うように。
何かに仕返し、するように。 





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