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人であるために


追われる日々が落ち着いたところ突如体調不良に見舞われ、発熱と咳を繰り返していた。無理強いした日も何日かあったが、自身が低気圧や季節の変わり目に弱いこともあってか、治るのに1ヶ月もかかってしまった。締め切りが近いものもあったので、創作活動に復帰できない不安もあったが、何とかなったのでほっと胸を撫で下ろしている。

ここ最近は、音楽を聴くことに疲れ、環境音だけの場所を好むようになった。木陰のある静かな道、人のいない海、窓を開けた風切音だけの車内。別に音楽がなくても、生きていくことはできる。そうなると自分にとって音楽の重要性はそんなにないんじゃないかと、ふと思うこともあった。そもそも音楽をやっているからといって、音楽を浴び続けなければいけない理由はあるのか、とすらも。若干捻くれ気味だが、その内聴かざるを得なくなるか、今後もこの状態が続くのかは自分と音楽との向き合い方次第だろう。

AIと同じく(いや、AIが人に倣っているのだが)、吸収して欲しいものをどんどん放り込めば、吸収したものを生かしてその人のオリジナルが出来上がる。もう人でなくてもやれることが世の中には増えた。これからもそれは増え続ける。AIが生成したものにちょっと加筆するだけでそれっぽくなる。それっぽくもやがて、それになる。テクノロジーの進化は素晴らしいものだが、私はそれを遠くから情報収集程度に眺めている。関わりたくないわけでなく、あまりそこに対して積極的に関わりたいと思うほど面白さを感じていない。

人らしいと感じること。それは有機的であり、呼吸するかのように置かれる音とぬくもりを、僅かにでも感じられること。隙やムラがあることは、欠点だけではなく、人らしさそのものでもある。

今月の上旬に亡くなった父方の祖母。棺の中で温和な表情を浮かべていた。額に触れると、そこにもう生は宿っていないことを突き付けられる。ぬくもりを失ったものへの哀しみは計り知れない。しかし、祖母が残してくれたあたたかい記憶が永久に消えることはなく、受け継がれる。ぬくもりを感じることとは、生きていることそのものなのである。

久しぶりに音のスケッチをした。タイトルを考えるのがあまり得意ではないのだが、様々な意味を含むものとして「Water」とした。どんな音にぬくもりを感じるかは聴き手に委ねるしかないのだが、少しでもそれを感じてもらえると嬉しい。


余談。記憶というものは、確かにその時そこに自分が存在していたから思い出せるもの。音楽を聴いた時に何かの記憶とその音楽とに共通点を見出したその瞬間に、私はその人の居場所が生まれると思っている。音楽の本質とはやや離れたものにはなるが、音と記憶の密な繋がりがあるお陰で、音楽は存在できるのだろう。


それでは、また。

tohma




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