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3月の徒然(3)

🌸急

翌朝、夜通し降っていた雨はすっかり晴れ上がり、濡れたアスファルトがキラキラと日差しをはね返して寝不足の目に眩しい。

今日は終業式。
最後に宮原は何を話すかな?大好きな和歌の一つを、また聞いてもいないのに教えてくれるかな?何故か前より少し期待しつつ、まだまばらな教室に着いた。
中谷葉月いた。よし、と息を吐いて声を掛ける。

中谷、これ、宮原から渡せって預かってて。

「え、あ…鳴海君。ありがとう。何だろう?大きいね?」

受け渡し完了。

中谷は封筒を開けてそのまま中を確認、たぶんあの表紙に貼り付いた黄色い付箋を見ている。

「あ、そうか、そういうこともあるか」

独り言。中谷はそのまま席に座り、真剣な表情で何かを考えている。

宮原と中谷の間でやり取りされている特別な何かに、気持ちがざわざわする、それが何かは知らないけれど。

このクラス最後のホームルームだというのに、宮原は特に何かを言うことは無く、教室を出る前に呼ばれた。

「国語科準備室の方に来て下さい」

言われるがまま動いているのが癪に障るけれど、聞きたいこともあるから丁度いい。

”身よりかく  涙はいかがながるべき  海てふ海は  潮やひぬらむ”

──私から流れ出る涙のせいで、海という海は潮が引いてしまうでしょう──

あまり踏み入れたことの無い国語科準備室は、図書室のような古い本の匂いがして眠気を誘う。

課題だった現代語訳らしきものを渡すと、宮原はゆっくりと何度も読んでから、こう言った。

「何故、涙を流すと海が干上がるんだろうね?」

そうそうそれ、逆に先生に聞きたかったんだよ。

「私はそれをね、もうずっと長く考えていて、今年このクラスの担任をしてやっと自分なりの答えが見つかったんですよ」

え、先生もわからなかったの?

「答えのようなものは、先人の研究者達が紐解いているんだけれどね。なんだか腑に落ちなかったという方が正しいかな」

で、なんで干上がるの?なんで俺に訳せなんて言ったの?

「答えのヒントをくれたのが、他でもない鳴海君だからですよ。1度、君の訳を見てみたかったんです。私の個人的な好奇心です。そんな理由ですみません。鳴海君は優しいですね。こんな急にお願いしたのに、ちゃんと応えてくれました、ありがとうございます。訳もね、もっとぎこちないカタコトの訳でもおかしくないのに、ちゃんと君の言葉で訳したのが伝わって来る、いい訳でした。……あとね、ここだけの話ですが、私は今学期でこの学校から去るんです」

──情報量が多くてツッコミ切れない。

「んー、それから、何故涙を流すと海が干上がるのか、それについての明確な答えなんてないんですよ。何せ作者は千年前の人なんですから、誰も真実は聞けないでしょう?」

──誤魔化された。質問を放り投げて居なくなるなんて、先生それは狡いよ。

せめてヒントは教えてよ、宮原先生…

「ふふふ、さっき言ったじゃないですか。ヒントは他ならぬ鳴海君だと。案外自分だと近すぎて気付かないものかもしれませんね」

最後の最後まで、なんだよそれ?

「あ、今学期で、というか、今日で辞めることを生徒で知っているのは、鳴海君だけです。秘密にしておいて下さいね。仰々しいのは苦手なので。最後にね、担任というよりは、何歳か年上の人生の先輩から一言、言わせて下さい」

…どうぞ。

「鳴海君を見ているとね、まるで昔の自分を見ているようでした。何でもそれなりにこなすけれど、何かこれと言って明確なやりたいことも欲も見えなくて、いつも傍観者でいるような。でもね、私は大学で見つけましたよ、自分の人生をかけても追いたい世界を。鳴海君、君も沢山の可能性の中から、見つけられるといいですね」

宮原との話は、そこで終わった。


それにしても…急すぎる。そんな素振り、一つも見せないでいつも通りに見えたのに……あ、そうでもないか。最近の宮原は、自分の大切な歌を大盤振る舞いしていたもんな。

中谷葉月は、いつ知るだろう。彼女は、それをどう受け止めるのだろうか。

あ、宮原と中谷の間のやり取りについて、聞き忘れた。狡いよな、宮原はほんとに狡いと思う。

先生、間違っているよ。

俺はそんなに傍観者ってほど悟ってもいないし、欲が無いわけでもないよ。

何故とか、どこへとか、聞きたいことが後から後から波のように押し寄せて、なんであの時もっとちゃんと聞けなかったんだろうと今更思って、でも聞けなくて、気づいたら教室に戻っていた。

教室で待っていてくれた安藤に、

ごめん、今日は歌う気分じゃない、ごめんな。

と理由も告げず言うと、

「うん、帰ってきたお前見てたら、そんな感じした。新学期さ、たぶんまた同じクラスだから、これ予測当たってたらまた付き合えよ」

じゃあな、とあっさり帰って行く安藤春樹は、勘も良くて、その上優しい。

ありがとな。

春、泣きそうになる理由もよくわからないまま立ち尽くした帰り道、温い風が追い越して行った。


つづく

(1)序  ⇒  (2)破  ⇒  (4)詠


休憩書き3

あれ。三部作「序・破・急」の筈だったのでは?

その予定だったのですが、何故かどうしてか、やたらと長くなり過ぎて途中で切る事にしました。

申し訳ありません、あと1章(たぶん)続きます。



日常の延長に少しフェイクが混じる、そんな話を書いていきます。作品で返せるように励みます。