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ジャン=クロード・エレナとイチジクの葉

以前から漠然とあった香りへの興味に対し、もう少し踏み込んでみようか、と思ったきっかけの一つにジャン=クロード・エレナの著書「香水」がある。エレナはエルメスの専属調香師をつとめた世界トップクラスの調香師で、当時は知らなかったが、以前愛用していたエルメスの香水「ナイルの庭」と「Voyage d’hermes」もエレナによるものだ。

本の中ではエルメスの香水「庭」シリーズの第一弾と二弾である「地中海の庭」、「ナイルの庭」の製作について語られているが、その発想やプロセスはとても刺激的だった。
例えば、「ナイルの庭」はマンゴーの香りがモチーフになっているが、これはナイル川河岸のマンゴー並木になっていたブルーマンゴーの実の鮮烈さを表現している。果実を鼻に近づけた時のはっと目の覚めるような印象を様々な素材(香料)を用いて再構築したのだった。
マンゴーの果汁を使ったらそのまま香水になるのでない、ということを知った瞬間だった。この香水を使っていたのは随分と前だが、一吹きした時のフレッシュな青くささと、その中に包まれたマンゴーの香りが蘇ってくる。今思うと、それは作者によって解釈されたマンゴーの香りであるのに(マンゴーのそのものの香りとは異なるのに)、はっきりとマンゴーを想起できたことが不思議に思える。

また、もう一つ興味深いのは、ナイル川(エジプト)のイメージを従来のオリエンタルなイメージで捉えなかったことだ。千夜一夜物語のようなミステリアスでエキゾチックな雰囲気はないし、お香やスパイスのような香りも用いていない。ナイルのイメージをマンゴー一つに込めたところに、この香水の新しさとエレナの独創性がある。

この本通じて、香水というのはただ原料を混ぜていい香りを作るのでなく、ある明確なイメージやストーリーを香りを通じで表現しているのだということを知った。調香師はそれぞれ独自の感性や世界観を持ち、それを表現する言語が「香り」であると。そしてエレナの身の回りのものに対する感受性、場面やものを切り取る鋭さ、切り取ったものに対する分析力、それを正確に香りで表現するための知識や緻密さに触れ、詩や絵画にも通じるものがあるなぁと、興味深く思ったのだった。


こちらのお庭のイチジクの葉の香りがサイコーでした^^


さて「ナイル」ではマンゴーが用いられたが、「地中海の庭」の方はイチジクの葉がモチーフになっている。私はこれを読んだ時、イチジクの葉に香りなんてあるのかしら、と不思議に思った。2、3年前最初に読んだときはそのままにしていたが、今年に入って読み返す頃には香りへの興味がだいぶ育っており、身近な植物の香りをかいでみることが習慣になっていたので、近所にイチジクの木を探しにいった。庭や街路に植わっているものを何本か試す中で、とある家の塀に添わせて植えられた、小さな青い実をつけた若木を見つけた。目線の高さに生い茂る葉に近づいてみると、グリーンの瑞々しさとイチジクの実の甘さが混ざり合った心地よい香りに驚かされた。イチジクの木はあちこちで見かけるというのに、こんなにいい香りに今まで気づかずにいたなんて、と自分を訝しんだ。

本物のイチジクの葉の香りがあまりに新鮮だったので、肝心の香水を試すのをしばらく忘れていた。確か「ナイル」を購入する際「地中海」と比較して選んだはずだが、どんな香りだったか記憶はおぼろげだ(その時はイチジクの香りというのがひどくありきたりなように思えた)。5月に本を読んでからエルメスに足を運ぶ機会もなかったが、9月にフランスで香りの調査をする中で、改めてエレナのクリエーションや香りの特異性に思いを馳せるようになり、空港やデパートの香水売り場でエルメスのコーナーに立ち寄った。2003年の発売から二十年経ち、後続の「庭」シリーズも多く出る中で、今や「地中海」はちょっとしたクラシックだな、と思いながら腕にふりかけた。イチジクの甘さだけでなく、皮にふくまれている苦味、葉の表面のざらつきさえ表現されているようで、さすがの観察眼と描写だなと感心した。そして軽やかで、時間がたってもとても心地のいい香りだった。

今ではイチジクの葉はすっかり身近な香りになり、雨上がりの蒸した空気の中で、葉の表面を露に濡らし水々しい香りを放っているのを感じることができる。そしてその匂いの元をたどってみると、意外にも遠いところから立ち込めていて驚かされたりする。香りの発見を通じ、世界の見え方は少しずつ変わっていく。


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