グラースのジャスミン農園再訪
2023年の現地レポート⑤で紹介した、アンとモーリンの農園を2024年5月に再訪した。
農園再訪
火曜朝9:00、グラース郊外プラスカシエーにある、香料植物を栽培する農園ドメーヌ・ドゥ・マノンの一般開放ツアーを訪れたあと、雨の中、田舎の一本道の車道をとぼとぼと20分ほど歩いて辿りついた。
勝手に門をくぐって、見覚えのある畑の脇を下っていくと、石造りの二階建の建物が現れる。確か築100年近いと聞いた気がするが、一階の庭に面した台所は彼ら自身によるリフォームが済んでおり、広々として使い勝手がよさそうだ。窓は開け放されて、外と地続きになっており、そこの広いテーブルにアンが座っていた。庭に出ていたモーリンも戻ってきた。
時刻は10:30を回った頃だっただろうか。「朝ごはんまだだったらどうぞ」と並んでいたのは、大ぶりなクロワッサン、オレンジフラワーで風味付けしたブリオッシュ、鉄瓶には庭でとれたバーベナなど数種を使ったハーブーティー、ハチミツ数種類(近隣の産地のものや知り合いが作ったものなど…)。二匹の大きな白い犬(姉妹でまだ子供)と茶色い犬が、自由に外とキッチンの間を行き来している。
フランスでも日本と同様、昨年は雨がほとんど降らず、水不足に悩まされた。ところが今年になって、これまた日本と同様、雨が降り続け、春の間は雨ばかり…。私の滞在中は幸い好天に恵まれたが、最終日のその日、また降り始めた。
雨が降ったら、辺りは一日で草ボーボー。農家はどこも草刈りに追われる。
「今、雑草しか見せるものがなくて悪いわね。うちはバラはやってないし、先日6月のジャスミン収穫にむけて、苗を短く刈り込んだところなの。7月にはチュベローズの収穫が始まって…」
二人は2012年から4年間、ドメーヌ・ド・マノンで働き、その後独立した。
2006年にドメーヌ・ド・マノンがディオールと独占契約を結び、2018年にアンとムーランが農園を開園し、彼らもまたディール向けにジャスミンチュベローズを栽培しているのは、グラースでの香料植物栽培が転換期を迎えていた時期と重なるが、当時ディオールの専属調香師だったフランソワ・ドゥマシーの尽力によるところも大きい。(詳しくは現地レポート④と⑤を参照)
ドゥマシーは2021年にディオールの調香師を退任、後任はフランシス・クルジャンに引き継がれた。
フランシス・クルジャンのディオール就任後…
クルジャンは既に彼らの農園を二度訪れているという。
外資系の会社ではトップが変わると、方針ががらりと変わると聞くが、ディオールとの関係が継続しているようでよかった、というと「そうなんだよ」と二人は声を荒げた。
グラースから20キロに位置するカンヌ出身で、グラースとも縁が深かったドゥマシーと違い、クルジャンはパリの出身。自身の名を関する香水メゾンを持ち、南仏以外で農園を所有している彼は、就任早々「僕はグラースに来たこともないし、グラースの香料がどんなものかも知らない」と言い放った。
この言葉はグラースの香水業界を震撼させた。ディオールといい関係を築き、花の生産も上向いて、これからという時に…。人々は眠れない夜を過ごしたに違いない。
しかし彼らの心配をよそに、グラースを訪れたクルジャンは、徐々にグラースへの理解や人々との信頼関係を深めていった。
「いまやディオールは南仏をよい広告塔だとみなしているし、しばらくはこの状態が続くでしょう。彼らとの契約は年毎でなく、数年単位と長期で、こちらも先の見通しが立てやすく、安定した農業を営むことができる」と、アン。
実際、香水・化粧品業界では、原料調達の国内回帰が進んでおり、とくに香りの都グラースへの進出は一種のステータスのようになっている。ランコムは同地に4ヘクタールの農地を取得して、2023年に「La Domaine de la Rose」を開園した。
香水業界で花を育てることのバランス
アンとムーランはグラースの田舎で有機栽培の花を育てる、ナチュラルなライフスタイルを送っているが、片や彼らの取引先は有名セレブを起用した広告をバンバン打ち、世界に向けて消費を促している。世界有数の財力が、希少で高価なグラースの香料産業を保護し、直接・間接的に地域の産業と関わっている面もある。我々には想像もつかないようなシビアな経営感覚を持つビジネスマンがいる一方で、文化や職人保護に熱心な人たちがおり、また彼らが接する機会のある、企業倫理や環境保護の担当者はきちんとした考えを持っている、とモーリンは言う。
彼らは香水産業のバランスの中で農業を営んでいるが、日々自然と向き合い、今の暮らしに心から満足しているのだと、語るのだった。
私はというと、日本でも香水が若い世代を中心に大変な人気となっているが、単なる高級品・嗜好品の消費にとどまらず、もっと違う側面、香水を通じて文化を知る選択肢を提供したいな、と考えてグラースまでやってきた。それで彼らとこんな風に、色々と話をするのは楽しい。
ところでディオールでは毎年、花の摘み手を含めた栽培パートナー一人一人に香水を贈っているのだそう。アンが一番最近送られてきたという香水を見せてくれた。
DIORIVIERAという名の香水を腕に一吹きすると、甘い香りが広がった。
「これ、グラース産の香料が使われているんだよ、当ててみて」。二人は目を輝かせる。
私は答えられなかったが、グラース産のバラ(センチフォリアローズ)が用いられ、イチジクの葉の香りがアクセントになっているそうだ。
「近くのバラ農家にクルジャンさんが視察にきたとき、センチフォリアが咲く傍らで、一本のイチジクの木が植っていたんだ。その葉がとても心地いい香りを放っていて、クルジャンさんが『次の香水はこれで決まりだね』って言ったんだ」
「その時は彼のスタッフも一緒にいて、そばで『またまた〜』なんて言って、誰も取り合わなかったんだけど、次の年にこの香水が送られてきたの。彼がディオールに来て初めて手掛けた香水よ」二人は嬉しそうに、私に向かって交互に語りかける。
他の業界と同様、香水産業にもシビアな面や矛盾はたくさんあるのだろう。それでも自然を愛する人、香りを愛する人、クリエーションの喜びなども、確かに存在するのだと思う。
おまけ
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