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模範になる大人がいない中で模範となる行動をとった高校生。

 もはやこのタイトルにしている時点で私は模範ではない大人側の人間であることが垣間見える。

移動中の電車の中で、思いやりとなる行動が執り行われた。
このご時世、混んでなければひと席開けて座ることが暗黙の了解になっているが日曜の昼間の車内は少し混雑。それでも座っている人はひと席開けて着席していた。

さあそんな中カップルであろうと思われる2人組があらわれた。幸運なことか分からないが、私の対面に座っている人の目の前に立った。

そしたらどうだろうかそこに座っていた制服を着た男の子。左側に1つずれた。
カップルは会釈してその子の隣に座った。

当たり前と思う人もいるかもしれない。しかし、この光景を見て感銘を受ける人がいることも事実である。この光景で私は母との楽しかった思い出が蘇った。

遡ること3年前。まだ大都会に引っ越してきてすぐのことだった。母とお台場に行こう、お台場でお買い物しようということで電車に乗り込んだ。3人が座れるシートにひと席だけ空いていた。
遠くから来てくれた母に座るよう促していたら隣りに座っていたお姉さんがなんと譲ってくれたのだ。
「こんなに優しい人が大都会にも存在するのか」
ど田舎生まれど田舎育ちの私は不覚にもこんな考えをしてしまった。隣では同じように母も思っていたらしい。お台場に行くまで、とても嬉しい気持ちになったと同時に、自分もこのような状況に遭遇したら絶対に席を譲ろう、そう心に決めた。

 都心にきて早3年。当たり前のように優先席に座る人。そして優先席に座るべき人が来てもそのまま席に座り続ける人、混雑していて優先席が空いていてもたち続ける人。様々いるのが世の中だ。人の生き方に正解はない。周りの目を気にする必要なんてない。しかしながら少なからず周りを気にしながら生きていかなければならないタイミングはあるはずだ。それのひとつに私は電車内があると考える。満員電車は誰もが居心地が悪い。ましてやこのご時世、さらに居心地が悪い空間となっている。自分だけが良い、自分さえ心地よくいれればよいなんていう考えはよくないのだ。

嫌なことでも割ればそんな大したものじゃない。そして満員電車でみんながみんなを思いやればそれは過ごしやすい環境になるのではないだろうか。

 以前、電車が揺れてしまって隣の人にぶつかってしまった人がいた。そしたらぶつかられた人が電車から降りる時わざとその人にぶつかって転ばせていたのだ。ぶつかってしまって不愉快になってしまった気持ちはわかる。だからといって同じ嫌な気持ちを相手にさせてやろうなんて考えは果たしていいのだろうか。

この食べ物美味しい、この映画面白い、誰かに食べさせたい、誰かに紹介したい。これはとても素敵なことだ。しかし自分が嫌なことをさせるのはどうなのだろうか。

パートナーがいる人、家族がいる人はお互いに嫌なことも共有していこうということでお互いの辛さを軽減するために話し合ったりすることはいいだろう。しかし、自分がされて嫌なことは人にするものではない。まちがえても。


 毎日毎日人のことを気にしながら電車に乗ることはつらいだろう。しかし一人一人の気持ちの持ち方が変われば電車内も素敵な空間になるのではないだろうか。

また思いやりの詰まった乗り物に乗ることができる。

このような考え方になるくらいみんなの考えに変化が生まれるといいですね。

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